2020年3月17日(木)
──もしも彼女を永遠に失いたくなかったら、くだらないプライドなんかさっさと捨てて、つべこべ言わずに早く行け!
長い、長い耳鳴りの向こうから、さっき聞いたばかりの言葉が反響しながらやってきて、頭の中で何度もリフレインしていた。けれどもやがて細く甲高い耳鳴りが止むと同時に、今度は「おい」と耳もとで呼ぶ声がする。
「──い──セー──おい──おいってば!」
瞬間、はっと意識が覚醒し、俺は額を沈めていた
次いでただちに振り向けば、そこは電気もついていないどこかの部屋で、窓から射し込む外灯の明かりを頼りに俺を覗き込む影がある。
「……
いかにも望らしい個性強めの服装は、目の前の男が確かに三歳児の頃から知っている悪友であることを物語っていた。が、やはりどうにもおかしい。
何がおかしいって、望の髪が黒いのだ。
最初は部屋が暗いからそう見えるだけかと思った。けれどいくら暗いと言ったって、あんなに明るく染められていたはずの髪が真っ黒に見えたりするだろうか。
おまけにあたりを見渡せば、視界に飛び込んできたのは見覚えのあるダイニングキッチン。俺の家のリビングまでひとつなぎになっただだっ広い間取りとは違い、壁に備えつけられたキッチンと六人がけのテーブルがきっちり壁に囲われた十畳ほどの空間だ。そこがどこだか理解した途端、俺は驚きとなつかしさとに心臓をドリブルされて、脈と一緒に呼吸まで止まるかと思った。
「え……俺、なんで、望の家に……?」
かくしてそんな疑問だけをようよう唇から絞り出したところ、目の前にしゃがみ込んだ望に「はあ?」と、盛大に眉をひそめられてしまった。かと思えば望は床にへたり込んだ俺の手から何かを奪い、自らの耳に押し当てる。
やつの手の中に見えたのは、電話だ。
ぐるぐる巻きのバネのようなコードで、本体と接続されているタイプの。
「……切れてる」
やがてそう呟くや、望は
が、俺が目を奪われたのはその電話機よりも、彼の頭上に掲げられた壁かけのカレンダーだ。やはり暗くてよく見えないが、暦は──何故だか三月を示している。
「えっ……」
と、息を呑んだ俺は思わず立ち上がり、もしやカレンダーにキスでもする気かと誤解されるくらい額を接近させた。
しかし何度目を擦ってみても、俺の虹彩に映り込んだ数字は変わらない。
二〇二〇年、三月。
「に……二〇二〇年、って……なんで……」
「おいユーセー、何やってんの? てか、おまえマジで大丈夫かよ? いきなり座り込んで動かなくなるから、わりと本気でビビったんですけど」
「え……いや、俺は、何ともない、けど……」
「ほんとか? まあ、ならいいんだけどさ、結局さっきの電話、何だったわけ? 途中でおまえに電話代われって言ってきたやつ、誰だったの?」
「……望。今って、もしかして……二〇二〇年の三月十七日?」
「へ?」
「今日は二〇二〇年の三月十七日だ。合ってるか?」
「お、おう……そうだけど、それがどうかした?」
──そんな馬鹿な。
自分で確認しておいて何だが、俺は望の回答が信じられずに、またしてもへたり込みそうになった。ところが膝から力が抜けるのを
さっきまで
それを目の当たりにした瞬間、妙に生々しい実感が胸の内に湧き起こり、俺はわけもなく笑い出したくなった。だってこんなことがあるだろうか?
先程の望の発言とカレンダーの日付をもとに考えるに、どうやら俺は三年後の未来から、さっき電話をかけた過去の時点へと戻ってきたらしい。
いや、より正確には、肉体や服装は当時のままだから、意識だけが未来から飛んできた、といったところだろうか?
されど先に試した二度の過去改変では、こんな現象は一度も起こらなかった。
ひょっとすると俺はまた過去が書き換わる際の時空の歪みで気を失って、悪い夢でも見ているのだろうか。あるいは過去電話を通じて、未来の自分と過去の自分が接触したことにより、イレギュラーが発生したとか……?
「……望。悪いんだけど、俺のこと一発殴ってくんない?」
「は?」
「グーが無理ならビンタでもいい」
「い、いや、おまえいきなりどうした──」
「自分が正気かどうか確かめたいんだよ。頼む」
と俺が頭を下げると、望はまるでわけが分からないと言いたげな顔をしながらも「そういうことなら……」と右手を振りかぶった。
次の瞬間、こいつとの十数年来の付き合いはもしやまやかしだったのでは、と疑いたくなる程度には情け容赦のない一撃が、俺の頬をしたたかに打つ。
「いっ……てえ! おまえ、もうちょい手加減しろよ!?」
「はあ!? だ、だってユーセーが殴れって言ったんじゃん!?」
「そうだけどさ! そうだけど……マジで痛え。ってことはやっぱこれ、夢じゃないな……」
思い切り平手を張られた左頬を押さえながら、しかしじんじんと染み渡る痛みのおかげでいくばくか冷静になれた。
今、俺が掌に感じている肌の熱さは、決して幻などではない。ということは目下俺の身に起きている出来事は、まぎれもない現実だということだ。されど冷静になったらなったで、今度は矢継ぎ早に様々な疑問が浮かんでくる。たとえばこの過去への旅はあくまで一時的なものなのか、はたまた永続的なものなのか。
もし後者だとしたら俺はもう二度と、望や
「おい、そんなことより、ユーセー。おまえ、さっき電話で何言われたんだ?」
「……え?」
「おまえに電話を代われって喚いてた男と話してたんじゃないのか? あいつと何か言い合ってたみたいだけど……」
と、望が気遣わしげに尋ねてくれたおかげで、思い出した。
そうだ。ここは俺たちがさっきまで電話をしていた二〇二〇年の三月十七日。
ということは、歩叶がいる。彼女がまだ生きている。
そしてたぶん、俺を待ってる。すべての始まりと言ってもいい、あの神社で。
「え!? ちょ、ユーセー!?」
──こんなことをしてる場合じゃない。
そう気づいたらいてもたってもいられなくなって、俺は瞬時に身を
驚いて呼び止める望の声も振り切って、身ひとつで勝手知ったる幼馴染みの家を飛び出す。自転車は──あった。三年後の未来で乗り回していた、
俺が高校への通学に使っていた、カゴつきの黒の自転車。
望の家の庭に停めさせてもらうからと、鍵は挿さったまま。そんな田舎あるあるの無防備さに感謝して、俺はすぐさまなつかしの愛車に飛び乗った。
慣れた足つきでスタンドを蹴り上げ、鋭くハンドルを切って走り出す。
そのまま目の前を流れる
この時代からほとんどシャッターが下りっぱなしの店々の前を通りすぎながら、白石市のシンボルである吊り鐘をぶら下げた街頭時計をちらと見やる。
十八時四十五分。思ったより時間が経っていた。確か、俺が初めて過去電話を使い、偶然歩叶と通話したのは三月十七日の十八時五十分頃だったはずだ。
ということはこのまま自転車を飛ばせば間に合うか。いや、そもそも俺が過去電話を手にした未来がなくなった今、果たして歩叶は
もしもあの電話がつながった未来ごとすべてがなくなったなら、歩叶はとっくに帰ってしまっていてもおかしくない。だが思えばさっきの望には、未来から受けた電話の記憶があった。とすればあの未来はまだ完全には消失していない?
だとしたらどうして俺は今、
「くそっ……考えるのはあとだ!」
次々と息を吹き返す疑問に足を取られ、次第に自転車が減速しつつあることに気づいた俺は首を振り、自らに喝を入れてペダルをこいだ。
とにかく今は
神明社だろうが遠い海の向こうだろうが、歩叶のいる場所へなら、どこへでも。
「着いた──」
やがて白石市役所の脇を通り抜け、
そうしてスタンドを下ろす手間すら惜しみ、支えを失くした自転車が横倒しになるのも構わずに、目の前の階段を駆け上がる。
つい一週間前──と言っても、今はもう遠い未来の話だが──にもまったく同じようにくぐり抜けた一の鳥居を抜け、二の鳥居も抜け、燈籠の明かりに照らされた参道を走り抜けた。が、飛び込んだ先の神域に人影はない。
白石は県の最南端にあるとはいえ、腐っても東北の田舎町だ。
ゆえに三月の半ばを過ぎても春の足音はまだ遠い。特に日が暮れたあとは上着がないと身震いしたくなる程度には肌寒く、夏の境内をやかましく彩っていたあの虫の大合唱すら今はなかった。まるで忘れられた神々がうらぶれて打ち捨てられているような、そんな気配。されど俺は怯まず歩を進めた。ひとりだけ真夏に取り残されたように滴る汗をぐいと拭い、何かに導かれるまま境内の奥を目指す。
正面にでんと鎮座する本殿を素通りし、鬱蒼と茂る雑木林の方角へ。
そこで、やっと見つけた。
夜風に吹かれて揺れている、赤と青の
そこにひとり佇んで、小さな社へ一心に手を合わせている背中がある。
「歩叶」
思わず呼びかけた声は情けないほど掠れて、震えて、びょうと吹き抜けた風に吹き散らされた。暗闇の向こうでざわざわと鳴る針葉樹どもに
「歩叶!」
瞬間、社に向かって目を閉じていた彼女の肩がぴくりと跳ねる。
はっと顔を上げた拍子に翻った黒髪が、燈籠の明かりの中で美しい軌道を描く。
ああ、まるで同じだ。
四年前の夏、あの雨の日、ホワイトキューブで君に恋をしたときと。
「ゆ……
淡いベージュのコートの
夢じゃない。幻でもない。確かに歩叶が生きて、そこにいる。
「優星くん、どうして」
「迎えにきた」
「え……?」
歩叶の声は震えていた。肩も、指先も、はっきりと俺を映した黒い瞳も。
けれど俺は言う。言わなきゃならない。
「約束、しただろ。だから、君を迎えにきた」
「約束、って……」
「君がもし、迷子になってたら……たとえどこにいようと迎えにいく。俺、前にそう言ったよな。だから迎えにきた──遅くなってごめん、歩叶」
ずっと。
ずっとこの言葉を伝えられる日を、待ち望んでた。
歩叶。好きだ。君が好きだ。だから、君に生きていてほしい。
続けざま、格好つけてそう伝えたかったのに、今の俺は君の隣にいた頃ほど気取ってみせるのが上手じゃなくて。
むしろそこから先は何にも言葉にならずに、ただ涙だけが頬を伝った。
けれどもその瞬間、君が何か言った気がする。
いや、正確には君も言えなかったのか。
代わりに顔をくしゃくしゃにして、瞳を細めて、君は泣いた。
まるで小さな子どもみたいに、声を上げてわんわん泣いた。
だから俺も放っておけなくて、すぐさま君に手を伸ばす。
そんな実感に溺れて、半ば呼吸の仕方を忘れたまま、思い切り君を抱き締める。
そうして俺も一緒に泣いた。
三年ぶりに触れた君が温かすぎて、全部溶けてなくなりそうなくらい、泣いた。
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