2023年8月21日(月)


 歴史探訪ミュージアムの売店で買ってきた飲み物を片手に運転席に座るのぞむは黙然と、フロントガラスの向こうを埋め尽くす芝の緑を睨んでいた。

 その隣で俺も、汗をかいたペットボトルから渇いた喉へ天然水を流し込む。

 男ふたり、黙って乗り込んだ車内はようやく冷房が効き始め、炎天下、すぐそこの神明社しんめいしゃまで行って帰ってきただけで火照ほてった体も、ようよう汗が引いてきた。


 おかげで俺はようやく心置きなく、シートに身を沈めてふーっと息がつける。

 仮にもこれは望の姉さんの車だから、万一むさい男の汗じみがシートに移りでもしたら申し訳ない、と気を遣っていたのだ。

 もっともこうして駐車場で停車したまま、エアコンだけ吹かしているというのも車に悪いから、なるべく早く用件を済ませなければならないが。


「……で、どう?」

「いや、どうも何も……逆になんでおまえはそんな冷静なわけ?」

「そりゃ一周回って冷静にもなるだろ。この一週間、ずっとパニクってあたふたしてたようなもんなんだから」

「なるほど。絶讃賢者タイム中ってことか」

「それ、使い方合ってるか? ……で、どう?」

「いや、そりゃ……なんつーか、もう信じるしかないよねっつーか……さすがにあんなもん見せられたらさ……」


 と、口の中でごにょごにょぼやいてから、望はやけくそのように赤いペットボトルの蓋をはずし、躊躇ちゅうちょなく中身コーラを傾けた。そうして何の前触れもなく炭酸を一気飲みしたものだから、案の定喉が驚いてしまったらしく、盛大にせている。

 だから炭酸はやめておけよと言ったのに、言わんこっちゃない。

 まあ、売店に寄ったのは俺が神明社で過去カメラの実演をしてみせた直後だったから、恐らく望は上の空で、俺の忠告など耳に入っていなかったのだろう。


 カーナビの画面端に表示されたデジタル時計は、間もなく十五時を回ろうとしている。未華子みかこさんに偉そうな啖呵を切り、平城ひらき家を飛び出したあと、益岡ますおか公園前で偶然望と行き合った俺は、白石しろいしに戻ってきてからのことを洗いざらい話した。

 すなわち神明社で歩叶あゆかの形見そっくりのスマホを拾ったこと、そのスマホが過去に干渉できる未知の力を持っていること、そして今、俺はそれを使って歩叶を救おうとしていること、すべてだ。


 正直俺はこの秘密をひとりで抱え続けるのは限界だと感じていた。過去改変の二度の失敗を経て、より確実でリスクの少ない方法はないかと頭を悩ませるうち、思考は堂々巡りを繰り返し、完全に行き詰まってしまったからだ。今のままでは何の名案も生まれないまま無為に時間だけが過ぎ、夏休みが終わってしまう。


 そうなれば俺はまた仙台へ帰らねばならず、歩叶を救う算段を立てるのも容易ではなくなる。ゆえに最後の手段として、三歳児の頃から共に育った兄弟同然の男を頼ることにしたわけだ。望なら俺の言うことを笑い飛ばしたりしないことも、歩叶を助けたいという気持ちに一定の理解と共感を示してくれるだろうことも、長年の付き合いによって確信していたから。


「あのさ……さっきのアレってマジなんだよな。なんかのドッキリとか、フェイクじゃないんだよな?」

「だからそう言ってるだろ。だいたい俺が昔撮った歩叶との動画をネタに持ってきて、ドッキリなんて仕掛けられるほどメンタル強い男だと思うか?」

「いや、まったく」

「……そこは少しくらいフォローしろよ」

「いやいやだってさ、あのユーセーだぜ? 平城ちゃんにフラレてからおまえ、完全にキャラ変わったじゃん。全体的に卑屈になって、何やってても楽しくなさそーでさ。なんつーか、こう……〝もう生きててもしょーがねーや〟みたいな、投げやりな感じってーの? そのユーセーが平城ちゃんをネタにドッキリ仕掛けられるくらい立ち直ったっつー話なら、オレはむしろ泣いて喜ぶけど」

「残念ながら見てのとおり、今も歩叶のこと引きずりまくってるド陰キャだよ」

「だよな。ってことは、さっきのアレもマジマジのマジってことで……問題はどうすれば平城ちゃんが殺された過去をなかったことにできるかってことか」

「ああ。とりあえず残るプランCとプランDは正直うまくいく気がしてない。失敗した二回とも、第三者を使って間接的に熊谷くまがいを止めようとしてダメだったわけだからな。だったら今度は発想を逆転すればいいんじゃないかと思ったんだよ。つまり熊谷をどうにかするんじゃなくて、歩叶自身に働きかけてみたらどうかって……」

「んで、さっき平城ちゃんに特攻して、見事玉砕したわけっしょ?」

「……ああ。歩叶の家族を頼るのは無理だ。それはさっき未華子さんと話して確信した。父親の恒雄つねおさんの方ならまだワンチャンあるかもだけど、結果恒雄さんが歩叶の代わりに殺されて、歩叶とあの母親がふたりきりで生きていくことになったりしたら?」

「まあ、別の地獄が始まりますよね、たぶん……」

「未華子さんには悪いけど、俺もそう思うよ」

「うーん……けどさあ。そうなると他に頼れそうなのって、リコくらいしかいなくね……?」


 と、望がハンドルに上半身を預けながら挙げた名前に、俺は思わず口ごもった。

 横山よこやま安里子ありこ。他でもない歩叶の親友。

 たぶん望の言うとおりだ。詳しい事情を話し、どうか歩叶を救ってくれないかと持ちかければ、横山はきっとふたつ返事で協力してくれるだろう。

 あのふたりがそれほどまでにお互いを大切な存在として認め合っていたことは、俺と再会してからの横山の言動や、歩叶の手記の内容を見ればおのずと分かる。


 だから俺も、一度は横山を頼ることを考えた。

 けれども今の彼女は歩叶の元親友であると同時に望の恋人だ。

 なのにもし横山を頼って、彼女の身に万一のことがあったら?

 俺は親友の彼女を見殺しにして自分の彼女を取り戻すという、とんだクズ野郎になってしまう。もともと人に誇れるものなど大して持ち合わせていない自覚はあるものの、だからと言ってこれ以上下へは落ちたくない。ゆえに俺は首を振った。

 そうして閉め切られた車窓まどの縁に肘をかけ、頬杖をつきながら言う。


「いや……横山さんを頼るのはなしだ。確かに一番歩叶の味方になってくれそうだけど、同じ白女はくじょに通ってて、しかも部活も熊谷のいる演劇部だってことを考えると危険すぎる。どう考えても巻き込まれるリスクが高すぎるだろ」

「けど、もし失敗しても一応リセットできるんだろ? 何回も妹ちゃんに頼るのが難しいってんなら、今日のオレに電話寄越せばいいじゃん。今のオレなら未来のおまえから電話がかかってきても、すぐに状況理解できるし」

「あのな。仮にもし横山さんが犠牲になったりしたら、俺とおまえは今日ここで会わなかったことになるかもしれないだろ。そしたら俺はたぶん、おまえに過去カメラのことを話してないし、そもそもおまえも白石に帰ってきてないかもしれない」

「あー……そうなる?」

「可能性はゼロじゃない。でもってそうなったら、もうリセットできないかもしれない。次もゆいが俺の言うことを聞くとは限らないからな」

「じゃあ……リコじゃなくてオレは?」

「は?」

「だから、三年前のリコじゃなくてオレに電話すんの。で、平城ちゃんに会って、ユーセーとよりを戻すよう説得してくれって頼むとか?」


 と望があまりにあっけらかんと言うものだから、俺は一瞬思考が停止してしまった。そうか、その手があったかと納得しかけ、待て待て、だがそれにはいくつかの問題があるはずだと頭を振る。何しろまず第一に別れた理由が理由なのだから、いくら望から説得したところで、歩叶が俺との復縁を受け入れるとは思えない。


 だいたい百歩譲って、説得が成功したところでどうなる?

 三年前の俺は歩叶が抱えていた秘密を何ひとつ知らない。そんな役立たずとよりを戻したところで、歩叶が抱えた問題が解決されるとは思えない。

 それじゃ過去を変えたところでまったくの無意味だ。むしろ復縁した途端に歩叶が殺されるとか、今より最悪な結果になる可能性だって……。


「いや、だからそこはさ、合わせ技っつーの? つまり三年前のユーセーにも平城ちゃんが別れたがった理由が伝わるように仕向けて、みんなで平城ちゃんを守るんだよ。いくらフラレたてでイジけてた頃のユーセーだって、事情を知ればやっぱ平城ちゃんの傍にいようってなるかもだろ?」

「そりゃ……確かにそうかもしれないが、そもそもどうやって歩叶の事情を過去の俺らに伝えるんだよ? 俺から三年前のおまえに電話したんじゃ、当時の俺との間に矛盾が生まれて、たぶん揉めるぞ? おまえは俺から電話で聞いたって言うだろうけど、俺はそんなの知らないし電話なんかしてないってゴネるだろうし」

「だったらユーセーからじゃなくて、リコから電話してもらえばよくね?」

「横山さんから?」

「そ。リコにもこのスマホのこと話してさ、協力してもらうんよ。んで、当時のリコからオレに相談ってフリして平城ちゃんの事情を話して、ふたりがよりを戻せるように手伝ってくんね? って頼むわけ。リコからユーセーに直でってなるとちょいハードル高いけど、オレを通せばおまえも話聞いてくれそうじゃん?」

「い、いや……だとしても今度は横山さんの記憶に矛盾が生まれて、根本的な問題は何も解決しないような……」

「あー、そこはホラ、オレのカノジョ、小説家なんで。あいつに相談すれば、なんかうまいこと誤魔化せるシナリオ考えてくれるっしょ」

「最後は横山さんに丸投げかよ」

「い、いやいや、もちろんオレらも一緒に考えるけどさ! アレだよアレ、三人集まればモンジャの知恵的な!」

「いや〝モンジャ〟じゃなくて〝文殊もんじゅ〟な」

「そうそう、それそれ! とにかくこの件は一旦リコも巻き込もうぜ。あいつならぜってー今の話も信じて協力してくれっから」

「なんでそう言い切れるんだよ?」

「いや、だってさ。あいつ、平城ちゃんが殺された日に一緒に学校行けなかったこと、今もすげー後悔してんだよ。そんでずっと自分のこと責めてるからさ。オレ的には平城ちゃんと同じくらい、リコのことも助けてやりたい」


 なおもフロントガラスの向こうを見つめたまま、望が急に真面目な顔をしてそんなことを言うものだから、俺は図らずも言葉に詰まった。望は確かにおちゃらけたやつだが、遊びで異性と付き合うほどふしだらではない。頭ではそう分かったつもりになっていたけれども、こいつは俺が思う以上に真剣に横山のことを考えているのだと思ったら、何だかはっと胸をかれたような気持ちになった。見直したというか、目からうろこが落ちたというか──何なら少し、羨ましい、とさえ。


「……分かったよ。そういうことなら、横山さんにも話してみよう」

「おー、そーこなくっちゃ! んじゃ早速リコに電話して呼び出そうぜ。んでこのまま迎えに行って……」

「ちょ、ちょっと待て。今からいきなりはいくら何でも急すぎないか? ていうかおまえ、家族に買い物頼まれてきたんじゃないのかよ」

「そーだけど、リコを拾いながらその足で買い物も済ませりゃいいっしょ。多少帰んのが遅くなったって、暑くて外出たくないとかいう理由でオレをパシッた姉ちゃんズに文句言われる筋合いねーし」

「いや、けど、俺の自転車チャリ……」

「あー、それはまたあとで取りに戻ってくればいーから! とにかく今は平城ちゃんの件が最優先! 危機管理のキホンは迅速かつ適切な初期対応と意思決定って、大学ウチの教授もいつも言ってるし!」

「……おまえ、意外と真面目に講義受けてんだな」

「意外とか言うな! リコもなんでか信用してくんないけど、マジメに勉強する気ねーならオレだって、最初から東京なんか行ってないっつーの!」


 と、さも心外そうに口を尖らせながら、望はシフトレバーに手をかけて早速車を発進させた。そうしながらサルエルパンツのポケットに突っ込んであったスマホを取り出し、俺へと投げ渡してくる。どうやら自分の携帯から横山に電話をかけろ、ということらしい。いやいや、そこはまず彼氏おまえが一報入れるべきだろと思いながらも、俺は観念して赤いベルトつきのカバーに収まった悪友のスマホをひっくり返した。が、そうして点灯させたロック画面が、どこかのひなびた町並みと浜辺を一緒に写した写真で飾られているのに気がついて、俺は思わず息を呑む。


 ……ああ、そうだった。


 望が生まれ育った白石を離れてわざわざ東京へ行ったのは、危機管理学部のある大学に入るため。こいつは東日本大震災で沿岸部に住んでいた祖父母を亡くしたのをきっかけに、防災学を学びたいと言って上京をこころざしたのだ。その初心を今も忘れまいとする悪友の覚悟を垣間見て、俺は内心、くそ、と悪態をついた。

 今も昔も、やっぱりこいつはかっこいい。

 認めるのはしゃくだが、俺はずっとそんな望がまぶしくて、羨ましかった。

 こんなやつがどうして今も俺の友人でいてくれるのだろうと、ときどきひどく不思議に思う。だけど同時に、今ならこうも思えるんだ。


 俺もこいつの親友として、恥ずかしくない男になりたい、と。

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