2023年8月21日(月)


 アポなしでの訪問にもかかわらず、柔和な笑みで俺を迎えた未華子みかこさんの、あの目の色が忘れられなかった。まるで彼女は初めから俺の訪ねてくることが分かっていたようだと、何故だかそう感じたためだ。

 玄関の引き戸を開けて虹彩に俺を映したとき、彼女の目は確かに「待っていましたよ」とささやいた。少なくとも俺にはそう思われてならなかった。


 そして今、俺はおよそ一週間ぶりに通された平城ひらき家の茶の間で座して彼女と向き合っている。未華子さんは奥から運んできたばかりの冷茶を、今日も涼やかなたけじろ茶托ちゃたくに乗せてそっと俺へと差し出した。そのなまめかしい手つきは茶ではなく、何かしらの秘めごとを差し出されたような錯覚さえ覚えさせる。

 と同時に茶托の脇に添えられた、華やかだが見るからに日持ちのしなさそうな生菓子が、あの日と同じ違和感を俺に投げかけた。やはりこの家は最初からをもてなす準備を万端に整え、待ち構えていたようだ、と。


「本当にすいません。何の連絡もなく、いきなりお邪魔したりして……」

「いいえ、いいのよ、気にしないで。平日は大抵、家にひとりでいることが多いから、お客さんはむしろ大歓迎。話し相手ができて嬉しいわ」

「そう言ってもらえると有り難いですけど……」


 などと他愛もない世間話を交わしながら、未華子さんは育ちのよさが滲み出た所作で冷たい茶を口へ運んだ。つられて俺も湯飲みへ手を伸ばし、青い差し色の入った硝子がらすに口をつける。そうして猛暑の中、自転車をこいできたばかりの喉に涼を流し込みながら、さてどうやって本題を切り出そうかと、座布団の脇に置いたサコッシュへちらと目をやった。するとその視線の意味を目敏めざとく見抜いたかのごとく、にわかに未華子さんが言う。


「ところで……先週渡した歩叶あゆかの日記だけれど」


 瞬間、今日の平城家訪問の核心をやにわにかれて、俺の心臓が飛び跳ねた。

 次いで思わず顔を上げれば、座卓の向こうの未華子さんはさっきまでと変わらない様子で微笑んでいる。途端に冷たい汗が背筋を流れた。何故だろう。

 最初に玄関で迎えられたときから、まるでやぶの中に身を潜めた捕食者にじっと狙われているような、名状し難い緊張がまとわりついて離れない。


「どう? あれから中身には目を通してみてくれた?」

「……はい、読みました。受け取ったときは、相当覚悟を決めないと読めないかもしれない、と思ったんですが……先週のうちに一応、全部」


 と俺が正直に答えると、たちまち未華子さんの眼が瞬いた。狂悦きょうえつ。あの日脳裏をよぎった二字が再び鎌首をもたげる。ああ、やはりこの人は最初から、俺が訪ねてくるのを今や遅しと待ち構えていたのだと、そのとき予感は確信に変わった。


「そう、もう読んでくれたのね。ありがとう。これできっと歩叶も浮かばれるわ」

「そう……だと、いいんですけど……実は日記を読んでいて、いくつか気になったことがあって……今日はそれについておきしたくてお邪魔したんです」

「あら、何かしら。私に分かることだといいけれど」

「……いえ。たぶん、あなたにしか分からないことですよ」

「え?」

「この日記の最初の方に、歩叶さんからあなたへの私信がありましたよね。もしこれを見つけても、俺にだけは絶対に見せないでほしいって。なのにあなたはどうして俺に日記を寄越したんですか? 歩叶さんの願いを無視してまで」


 言いながら俺は例の手帳を取り出して、見せつけるように座卓へ置いた。

 日記の内容は一週間前、偶発的に起こった過去改変──神明社しんめいしゃで三年前の歩叶と言葉を交わしたあの改変──によって、俺が受け取った当初のものから若干変わってしまっている。けれど歩叶が自分の死後、日記が発見されたときに備えて「優星ゆうせいくんにだけは見せないでほしい」と書き遺した部分は今も変わらず、改変が起きる前のまま現存していた。


 だとしたら未華子さんはそれを知りながら、敢えて日記を俺に託したということになる。俺はまずその理由が知りたかった。血はつながっていないとはいえ、十八年間も家族として共に過ごしたあゆかの哀願を無視するに足る重大な事情が、きっとそこにあるはずだと信じたからだ。いや、より正確にはと言うべきか。

 しかしほどなく未華子さんから呈出された答えは、そんな俺の淡い期待を真っ向から打ち砕くものだった。


「そうね。確かに歩叶は、日記をあなたに読まれることを望んでいなかったかもしれない。だけど私はあなたに真実を伝えるべきだと思ったの。あの子がずっと言いたくても言えずにいたことや、本当はあなたを嫌ったり憎んだりなんてしてなかったんだってことを……」

「それは……もちろん俺だって、歩叶さんから別れを切り出された理由をずっと知りたいと思ってました。けど真相を教えるだけなら、別に日記まで渡す必要はありませんでしたよね。あの日……のぞむ横山よこやまさんと一緒にお邪魔した日に、必要な部分だけ口頭で伝えることもできたはずです。なのにわざわざ俺に日記を預けたのは、どうしてですか?」

「私の口から伝えただけじゃ安い気休めにしか聞こえないかもしれないと心配だったのよ。全部ちゃんと歩叶の本当の気持ちだと知ってもらうためには、直接日記を見せるのが一番だと思ったの。あの子の未来は閉ざされてしまったけれど、あなたの人生はこれからも続いていく。なのに誤解や納得できない気持ちを抱えたまま生きていかなければならないなんて、あまりに不憫だと思って──」

「だけど俺は、正直知るべきじゃなかったのかもしれないと思いましたよ。歩叶さんが自分の全部をなげうってでも隠したいと思っていたことを、俺は勝手に覗いて知ってしまった。今更真実を知ったところで、もう何も……彼女を救うことも見守ることもできないのに」

「でも歩叶も本心では、あなたから一生誤解されたままなんて嫌だったはずよ」

「じゃあ結局、あなたのしたことは誰のためだったんですか? 死んだ歩叶さんのため? それとも俺のためですか?」

「私はふたりのためを思って」

「だったらなおさら、あなたは歩叶の遺志を尊重するべきだったし、俺に真実を伝えるにしても、事前に意思確認くらいしてくれてもよかったんじゃありませんか? 歩叶が隠したがってた秘密を暴いてでも本当のことを知りたいかと、念を押してくれてもよかったんじゃないですか」

「優星くん。私は」

「ちなみに日記にはこうも書いてありました。歩叶が熊谷くまがいって教師のことを誰にも相談できなかったのは、家族に──あなたに知られるのが怖かったからだと。家に迷惑がかかれば、余計にあなたからうとまれるかもしれない。そうなったら両親の仲がもっと険悪になるかもしれない。自分のせいでこれ以上、お父さんとお母さんの関係が壊れるのを見たくない……自分さえ生まれてこなければ、誰も困らずに済んだはずなんだからと」


 俺が手帳の上に手を置きながらそう言えば、たちまち未華子さんの顔色が変わった。顔面に貼りつけられていた品のよい婦人の微笑は剥がれ、薔薇色ばらいろの口紅が一分の隙もなく塗られた唇がわなないている。奇怪な悦びに彩られていたはずの両眼も徐々に怒りと戸惑いの色に染まりつつある。


 そんな彼女の豹変を目の当たりにして俺は悟った。


 ああ、そうか。やはりこの人は、俺に共犯者になってほしかっただけなのだと。


「……未華子さん。俺は別に、あなたが歩叶を殺したとは思ってません。だからあなたを責めるつもりもありません。あなたの立場や気持ちを思えば、全部仕方のないことだったと思います。でも──あなたが俺にしたことは、罪滅ぼしでも何でもない。ただ罪悪感から逃げるために、俺と歩叶の関係を利用しただけです。つまりあなたの行動は俺のためでも、歩叶のためでもない。全部、自分のためですよ」

「何ですって」

「それを俺のためだとか、歩叶のためだとか、もっともらしく言い訳しないで下さい。あなたは何も悪くない、歩叶が殺されたのはあなたのせいじゃないと言われたいだけなら他を当たって下さい。残念ですが俺じゃご期待には添えません。歩叶のことは確かに仕方のないことだったかもしれませんが、少なくとも今のあなたは、死んだ娘への償いよりも自分の保身ばかり考えている卑怯者だ」

「どの口が……!」


 と、刹那、藪の中のけだものがついに正体を現した。

 薄化粧の乗った顔を赤黒く染めた未華子さんは、手に取りかけていた湯飲みを思わずといった様子で取り落とす。儚げな悲鳴を上げて硝子が卓上を転がった。

 が、零れた中身が座卓を濡らすのも構わず、逆上した彼女はまくてる。


「なんて失礼な子なの。歩叶のことはあなただって同罪でしょう! あなたもあの子の真意に気づかないまま、見殺しにしたんだから! なのによくもそんな偉そうな口がきけるわね!」

「ええ。おっしゃるとおり、俺も同罪ですよ。だからあなたは俺を選んだんですよね。日記を見せれば俺も同じ罪の意識にさいなまれて、あなたの一番の理解者として、とっておきの慰めの言葉をかけてくれるはずだと」

「黙りなさい!」

「大丈夫です、もう帰りますから。ただ、最後にひとつだけ──この日記のことですけど、旦那さんは知ってるんですか?」


 俺がサコッシュのストラップに手をかけながら尋ねれば、再び未華子さんの顔色が変わった。直前までのぼせたように赤らんでいたはずの顔面が、今度はサーッと蒼白になり、黒目がぶるぶると震え出す。ああ、やっぱりなと、俺は思った。


「あの人には言わないで!」


 直後、彼女は悲鳴に似た叫びを上げて日記へと手を伸ばしてくる。

 が、俺も何となく察しがついていたから、奪われる前にサッと手帳を取り上げてサコッシュへと押し込んだ。そうしながら席を立つ。もうこの家に用はない。知りたかった答えは知れた。無論、俺が望んだ答えにはほど遠いものだったけれど。


「ちょっと! どこに行くのよ!」

「帰ります。ここへはもう二度と来ませんし、旦那さんにも話すつもりはありませんから安心して下さい。お邪魔しました」

「待ちなさい! 日記を……あの子の日記は置いていって!」

「俺に持っていてほしいと言ったのはあなたじゃないですか。今後も責任を持ってお預かりしますよ。俺はもう、自分のしたことから逃げたくないので」


 最後にそう言い捨てて、俺はついにきびすを返した。追ってこられるかもと思ったがどうやらその気配はない。代わりに玄関の土間へ下りた背中に、わっと泣き叫ぶ声が降りかかった。今まで暗い納戸なんどの中につっかえをして閉じ込めておいたものが、ついに戸口を破って白日の下にぶちまけられたような、そんな声だった。


 けれども俺は振り向かず、ただ唇を噛んで平城家をあとにする。門前に停めさせてもらっていた自転車にまたがり、スタンドをかかとで蹴り上げて、前だけ向いて走り出した。ところが一〇〇メートルもこがないうちに、急に前へ進めなくなる。俺はしゅうのごとく降り注ぐ蝉の大合唱に打たれながら、自転車を止めて立ち尽くした。

 真夏のカンカン照りがまぶしい。まぶしすぎる。おかげで何も見えやしない。


 陽炎かげろうを吐くアスファルトも、行く手に見え始めた益岡ますおか公園の燃えるような緑も、花壇の花も、雲も、城濠のせせらぎも、すべてが光に溺れて輪郭を失い、頬を伝って流れ出す。こんなはずじゃなかった。俺はただあの人に歩叶への償いの気持ちがあるのかどうか確かめたかっただけだ。

 そしてもしもあの人が歩叶と歩み寄れなかった過去を悔いて、叶うことならもう一度娘との関係をやり直したいと願ってくれていたのなら、三年前の彼女に電話して、どうか歩叶を助けてやってほしいと頭を下げるつもりだった。


 そうすれば歩叶も長年母親に対して抱き続けた負い目や鬱屈を克服し、ふたりは本当の親子になれたかもしれない。それこそが歩叶にとっての真の救済ではないのかと、日記を読んでそう思った。ただ命が助かるだけでは、歩叶が抱えた問題は恐らく解決されない。どうしても誰かと引き替えでなければ救えないというのなら、せめて彼女には心から「生まれてきてよかった」と思える余生を送ってほしい。


 そう願ってあの家を訪ねたのに、結局待っていたのはくそったれな現実で。


 そんな現実に殺されるしかなかった歩叶の、たった十八年間の孤独な人生を思ったら、俺もみっともなく泣き喚きたくなった。悔しくて悔しくてたまらなかった。


「どうして──」


 どうして誰も歩叶を助けてくれなかったんだ? 歩叶が一体何をした?


 誰にも望まれることなく生まれてきたくせに、生きる意味や幸せを必死に追い求めていた、そのおこがましさに対する罰だとでも?


 それが世界の答えだというのなら、俺は。


 俺は、やっぱり、歩叶を救う選択をする。


 たとえ世界が望まなくたって、俺が歩叶の生を望む。未来を望む。

 幸せを望んでやる。こんな無情な世の中に彼女を奪われたまま死んでたまるか。

 もちろんこれは俺のエゴだ。誰に頼まれたわけでもない。

 歩叶だってそんなもの、本当は望んじゃいないかもしれない。

 だが何と思われようが関係ない。構うものか。

 俺は俺の望むまま歩叶を救う。そして絶対に、死んでも彼女を幸せにする。


 自分のエゴを通すというのは、つまりそういうことだろう。

 やるからには全力でやり、全力で責任を取る。どうか生きてくれと勝手に願って押しつけるからには、彼女の前に生きるに足るだけの理由を並べて敷いてやる。

 そうして築いた道の先に、たとえば俺がいなくたって構わない。

 歩叶が生きて、笑っていてくれるなら。


 ああ、おかげでやっとふんぎりがついた。俺は消えかけていた闘志が再びまきをくべられて燃え上がるのを感じながら、眼鏡を上げて汗ごとぐいと目もとを拭った。

 大丈夫だ。今度はちゃんと前が見える。とにかく今は、一旦どこかで涼を取りつつ作戦を練り直そう。こう暑くては回る頭も回らない。


 そう思い直して、人の思考を塗り潰さんばかりに鳴いている蝉の声に背を向けると、バイパス方面へ向かうべくハンドルを切った。が、刹那、道の向こうから見覚えのある車がやってきて、俺は思わずはっと動きを止める。

 すると向こうも俺に気づいたらしく、田舎の人どおりも車どおりもないのをいいことに、道の真ん中で堂々と車を止めた。かと思えばピカピカに磨かれた紺色の車体の窓を開け、半身を乗り出した運転手がひょいとのんきに手を上げる。


「おー、ユーセー、キグーじゃん! おまえ、LINEの返事もくんないで何してんだよ?」


 ……何故だかこいつに呼ばれると、俺の名前はいつも頭の悪そうなカタカナの羅列に聞こえる。そんな奇異な呼び方をするやつは今のところこいつしかいない。

 まったく大した腐れ縁だなと思いながら、俺も手を挙げて「よう」と応えた。


「悪い、望。だがいいところに来てくれた」

「へ?」


 と、相変わらず金髪じみて赤い髪をぎらぎらさせながら、十数年来の悪友はきょとんと間抜けな顔をした。白石しろいしは本当に狭い町だ。こうして道端で自転車を停めているだけで、今、一番会いたかった相手に会えるとは。

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