2023年8月21日(月)
アポなしでの訪問にもかかわらず、柔和な笑みで俺を迎えた
玄関の引き戸を開けて虹彩に俺を映したとき、彼女の目は確かに「待っていましたよ」と
そして今、俺はおよそ一週間ぶりに通された
と同時に茶托の脇に添えられた、華やかだが見るからに日持ちのしなさそうな生菓子が、あの日と同じ違和感を俺に投げかけた。やはりこの家は最初から急な客人をもてなす準備を万端に整え、待ち構えていたようだ、と。
「本当にすいません。何の連絡もなく、いきなりお邪魔したりして……」
「いいえ、いいのよ、気にしないで。平日は大抵、家にひとりでいることが多いから、お客さんはむしろ大歓迎。話し相手ができて嬉しいわ」
「そう言ってもらえると有り難いですけど……」
などと他愛もない世間話を交わしながら、未華子さんは育ちのよさが滲み出た所作で冷たい茶を口へ運んだ。つられて俺も湯飲みへ手を伸ばし、青い差し色の入った
「ところで……先週渡した
瞬間、今日の平城家訪問の核心をやにわに
次いで思わず顔を上げれば、座卓の向こうの未華子さんはさっきまでと変わらない様子で微笑んでいる。途端に冷たい汗が背筋を流れた。何故だろう。
最初に玄関で迎えられたときから、まるで
「どう? あれから中身には目を通してみてくれた?」
「……はい、読みました。受け取ったときは、相当覚悟を決めないと読めないかもしれない、と思ったんですが……先週のうちに一応、全部」
と俺が正直に答えると、たちまち未華子さんの眼が瞬いた。
「そう、もう読んでくれたのね。ありがとう。これできっと歩叶も浮かばれるわ」
「そう……だと、いいんですけど……実は日記を読んでいて、いくつか気になったことがあって……今日はそれについてお
「あら、何かしら。私に分かることだといいけれど」
「……いえ。たぶん、あなたにしか分からないことですよ」
「え?」
「この日記の最初の方に、歩叶さんからあなたへの私信がありましたよね。もしこれを見つけても、俺にだけは絶対に見せないでほしいって。なのにあなたはどうして俺に日記を寄越したんですか? 歩叶さんの願いを無視してまで」
言いながら俺は例の手帳を取り出して、見せつけるように座卓へ置いた。
日記の内容は一週間前、偶発的に起こった過去改変──
だとしたら未華子さんはそれを知りながら、敢えて日記を俺に託したということになる。俺はまずその理由が知りたかった。血はつながっていないとはいえ、十八年間も家族として共に過ごした
しかしほどなく未華子さんから呈出された答えは、そんな俺の淡い期待を真っ向から打ち砕くものだった。
「そうね。確かに歩叶は、日記をあなたに読まれることを望んでいなかったかもしれない。だけど私はあなたに真実を伝えるべきだと思ったの。あの子がずっと言いたくても言えずにいたことや、本当はあなたを嫌ったり憎んだりなんてしてなかったんだってことを……」
「それは……もちろん俺だって、歩叶さんから別れを切り出された理由をずっと知りたいと思ってました。けど真相を教えるだけなら、別に日記まで渡す必要はありませんでしたよね。あの日……
「私の口から伝えただけじゃ安い気休めにしか聞こえないかもしれないと心配だったのよ。全部ちゃんと歩叶の本当の気持ちだと知ってもらうためには、直接日記を見せるのが一番だと思ったの。あの子の未来は閉ざされてしまったけれど、あなたの人生はこれからも続いていく。なのに誤解や納得できない気持ちを抱えたまま生きていかなければならないなんて、あまりに不憫だと思って──」
「だけど俺は、正直知るべきじゃなかったのかもしれないと思いましたよ。歩叶さんが自分の全部を
「でも歩叶も本心では、あなたから一生誤解されたままなんて嫌だったはずよ」
「じゃあ結局、あなたのしたことは誰のためだったんですか? 死んだ歩叶さんのため? それとも俺のためですか?」
「私はふたりのためを思って」
「だったらなおさら、あなたは歩叶の遺志を尊重するべきだったし、俺に真実を伝えるにしても、事前に意思確認くらいしてくれてもよかったんじゃありませんか? 歩叶が隠したがってた秘密を暴いてでも本当のことを知りたいかと、念を押してくれてもよかったんじゃないですか」
「優星くん。私は」
「ちなみに日記にはこうも書いてありました。歩叶が
俺が手帳の上に手を置きながらそう言えば、たちまち未華子さんの顔色が変わった。顔面に貼りつけられていた品のよい婦人の微笑は剥がれ、
そんな彼女の豹変を目の当たりにして俺は悟った。
ああ、そうか。やはりこの人は、俺に共犯者になってほしかっただけなのだと。
「……未華子さん。俺は別に、あなたが歩叶を殺したとは思ってません。だからあなたを責めるつもりもありません。あなたの立場や気持ちを思えば、全部仕方のないことだったと思います。でも──あなたが俺にしたことは、罪滅ぼしでも何でもない。ただ罪悪感から逃げるために、俺と歩叶の関係を利用しただけです。つまりあなたの行動は俺のためでも、歩叶のためでもない。全部、自分のためですよ」
「何ですって」
「それを俺のためだとか、歩叶のためだとか、もっともらしく言い訳しないで下さい。あなたは何も悪くない、歩叶が殺されたのはあなたのせいじゃないと言われたいだけなら他を当たって下さい。残念ですが俺じゃご期待には添えません。歩叶のことは確かに仕方のないことだったかもしれませんが、少なくとも今のあなたは、死んだ娘への償いよりも自分の保身ばかり考えている卑怯者だ」
「どの口が……!」
と、刹那、藪の中のけだものがついに正体を現した。
薄化粧の乗った顔を赤黒く染めた未華子さんは、手に取りかけていた湯飲みを思わずといった様子で取り落とす。儚げな悲鳴を上げて硝子が卓上を転がった。
が、零れた中身が座卓を濡らすのも構わず、逆上した彼女は
「なんて失礼な子なの。歩叶のことはあなただって同罪でしょう! あなたもあの子の真意に気づかないまま、見殺しにしたんだから! なのによくもそんな偉そうな口がきけるわね!」
「ええ。おっしゃるとおり、俺も同罪ですよ。だからあなたは俺を選んだんですよね。日記を見せれば俺も同じ罪の意識に
「黙りなさい!」
「大丈夫です、もう帰りますから。ただ、最後にひとつだけ──この日記のことですけど、旦那さんは知ってるんですか?」
俺がサコッシュのストラップに手をかけながら尋ねれば、再び未華子さんの顔色が変わった。直前までのぼせたように赤らんでいたはずの顔面が、今度はサーッと蒼白になり、黒目がぶるぶると震え出す。ああ、やっぱりなと、俺は思った。
「あの人には言わないで!」
直後、彼女は悲鳴に似た叫びを上げて日記へと手を伸ばしてくる。
が、俺も何となく察しがついていたから、奪われる前にサッと手帳を取り上げてサコッシュへと押し込んだ。そうしながら席を立つ。もうこの家に用はない。知りたかった答えは知れた。無論、俺が望んだ答えにはほど遠いものだったけれど。
「ちょっと! どこに行くのよ!」
「帰ります。ここへはもう二度と来ませんし、旦那さんにも話すつもりはありませんから安心して下さい。お邪魔しました」
「待ちなさい! 日記を……あの子の日記は置いていって!」
「俺に持っていてほしいと言ったのはあなたじゃないですか。今後も責任を持ってお預かりしますよ。俺はもう、自分のしたことから逃げたくないので」
最後にそう言い捨てて、俺はついに
けれども俺は振り向かず、ただ唇を噛んで平城家をあとにする。門前に停めさせてもらっていた自転車に
真夏のカンカン照りがまぶしい。まぶしすぎる。おかげで何も見えやしない。
そしてもしもあの人が歩叶と歩み寄れなかった過去を悔いて、叶うことならもう一度娘との関係をやり直したいと願ってくれていたのなら、三年前の彼女に電話して、どうか歩叶を助けてやってほしいと頭を下げるつもりだった。
そうすれば歩叶も長年母親に対して抱き続けた負い目や鬱屈を克服し、ふたりは本当の親子になれたかもしれない。それこそが歩叶にとっての真の救済ではないのかと、日記を読んでそう思った。ただ命が助かるだけでは、歩叶が抱えた問題は恐らく解決されない。どうしても誰かと引き替えでなければ救えないというのなら、せめて彼女には心から「生まれてきてよかった」と思える余生を送ってほしい。
そう願ってあの家を訪ねたのに、結局待っていたのはくそったれな現実で。
そんな現実に殺されるしかなかった歩叶の、たった十八年間の孤独な人生を思ったら、俺もみっともなく泣き喚きたくなった。悔しくて悔しくてたまらなかった。
「どうして──」
どうして誰も歩叶を助けてくれなかったんだ? 歩叶が一体何をした?
誰にも望まれることなく生まれてきたくせに、生きる意味や幸せを必死に追い求めていた、その
それが世界の答えだというのなら、俺は。
俺は、やっぱり、歩叶を救う選択をする。
たとえ世界が望まなくたって、俺が歩叶の生を望む。未来を望む。
幸せを望んでやる。こんな無情な世の中に彼女を奪われたまま死んでたまるか。
もちろんこれは俺のエゴだ。誰に頼まれたわけでもない。
歩叶だってそんなもの、本当は望んじゃいないかもしれない。
だが何と思われようが関係ない。構うものか。
俺は俺の望むまま歩叶を救う。そして絶対に、死んでも彼女を幸せにする。
自分のエゴを通すというのは、つまりそういうことだろう。
やるからには全力でやり、全力で責任を取る。どうか生きてくれと勝手に願って押しつけるからには、彼女の前に生きるに足るだけの理由を並べて敷いてやる。
そうして築いた道の先に、たとえば俺がいなくたって構わない。
歩叶が生きて、笑っていてくれるなら。
ああ、おかげでやっとふんぎりがついた。俺は消えかけていた闘志が再び
大丈夫だ。今度はちゃんと前が見える。とにかく今は、一旦どこかで涼を取りつつ作戦を練り直そう。こう暑くては回る頭も回らない。
そう思い直して、人の思考を塗り潰さんばかりに鳴いている蝉の声に背を向けると、バイパス方面へ向かうべくハンドルを切った。が、刹那、道の向こうから見覚えのある車がやってきて、俺は思わずはっと動きを止める。
すると向こうも俺に気づいたらしく、田舎の人どおりも車どおりもないのをいいことに、道の真ん中で堂々と車を止めた。かと思えばピカピカに磨かれた紺色の車体の窓を開け、半身を乗り出した運転手がひょいとのんきに手を上げる。
「おー、ユーセー、キグーじゃん! おまえ、LINEの返事もくんないで何してんだよ?」
……何故だかこいつに呼ばれると、俺の名前はいつも頭の悪そうなカタカナの羅列に聞こえる。そんな奇異な呼び方をするやつは今のところこいつしかいない。
まったく大した腐れ縁だなと思いながら、俺も手を挙げて「よう」と応えた。
「悪い、望。だがいいところに来てくれた」
「へ?」
と、相変わらず金髪じみて赤い髪をぎらぎらさせながら、十数年来の悪友はきょとんと間抜けな顔をした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます