2023年8月21日(月)


「──ゆい。俺、さっきおまえに電話したよな。電話で今日は何日だって、確認したよな。なら、今すぐ俺にLINE入れてくれ。〝警察も父さんもダメだった。だから絶対に電話するな〟って、それだけでいいから。頼む……」


 祖母の部屋から自室へ逃げ戻った俺は、充電中の過去カメラを引っ掴むなり電話をかけた。相手は夜勤でいない母に代わって米を研いでいた結ではない。火曜日の晩、俺が神明社しんめいしゃから帰ったあとに、過去電話の実験として電話をかけた結だ。

 俺が三年前の父にかけた電話が原因で、清沢きよさわ家を取り巻く環境は大きく変わってしまった。何故かは分からないが父は死に、歩叶あゆかもまた助からなかった。


 その理由を探れるほどあのときの俺は冷静ではなかったから、過去がどういう風に姿を変えたのか、具体的なことは分からない。けれども恐らく、交番に電話をしたとき起こった事象に照らして考えるに、父もまた熊谷くまがいと関わったがために命を落としたのだろう。たとえば俺の望んだとおり、やつの正体に気づいた結果、本人を直接問い詰めたか免職に追い込んだかして逆恨みに遭ったとか、そんな理由で。


 だから俺は、俺によって為された過去改変をなかったことにした。

 過去が変わっても俺の部屋には平城ひらき家で受け取った歩叶の日記があったこと、そして何より過去電話の発信履歴に火曜の晩、結に電話をかけた形跡が残っていたのを見て取って、改変をリセットできる可能性に賭けたのだ。

 結果として俺のもくろみは成功した。パニックに陥りながらも震える指先で端末内日時を火曜の二十一時前に設定し、発信履歴からリダイヤルしてみたら、ちゃんとあの日の結──俺が実験電話をかけた直後の──につながった。


 当然ながら結には大層不審がられたが、必死の懇願は何とか伝わったらしい。

 妹は不承不承という様子ながらも通話を終えたのち、俺が伝えたとおりの言葉をLINEで送ってくれた。かくして未来の俺から過去の俺への伝言は無事成立したわけだ。三度目の時空の歪みを体験し、再び気を失ったあと、目を覚ますと自室はもとのとおりの生活感のなさを取り戻していた。


 テレビもテーブルもカラーボックスもない。俺はまた歩叶を失った過去から逃げ出した、あのみじめな時間軸へ戻ってきたのだ。そうと分かって慌ててリビングまで行ってみると、そこには当たり前のように父がいて、母がいて、妹がいて、何度呼んでも起きなかったからという理由で、俺を除け者にして夕飯を囲んでいた。

 その何の変哲もない光景を見た瞬間、俺がどれだけ安堵したかなど家族は知る由もないだろう。特に先月切ったと言っていたはずの髪を取り戻した結からは、


「おにい、やっぱこないだからなんかおかしいよ」


 と散々不平を浴びせられたが、俺はむしろ、あそこでくずおれて泣き出さなかったことを褒められてもいいくらいだと思った。

 まあ、結の悪態のおかげで機嫌を損ねたふりをして、本当に泣き出す前に自室へ逃げ帰ることができた件については感謝すべきかもしれないが。


『おーい、優星ゆうせい、生きてるか? 今度の土曜の件、考えてくれた?』


 そんなことがあって迎えた八月二十一日、月曜日。

 ぼんやりベッドに倒れ込んでいたら、枕もとに置いたスマホから短い通知音がして、見るとのぞむからLINEが入っていた。通知領域に表示されたメッセージは、数日前に受けた誘いに対する返答を求める内容だ。そういえば三日前にもLINEをもらって、目下既読スルー状態にあるのを忘れていた。

 あの日は二度目の過去改変に失敗し、LINEを返すどころではなかったから、一旦回答を保留にしたきりそのままになっていたのだ。


「土曜日ね……」


 とそれを見てひとり呟き、されどアプリを開く気力すらなくスマホを手放す。

 そうして再び仰向けの体勢に戻り、窓から射し込む忌々しい夏の陽射しを遮るために右腕で目もとを覆った。望からの誘いは次の週末、東松島市で開催される夏祭りに横山よこやまと三人で遊びに行かないかというものだ。

 来週には望も東京へ帰るから、その前に三人で思い出作りでもと、横山とふたりで話し合ったらしい。が、思い出云々というのは建前で、ふたりが今更ながらに歩叶の生い立ちを知ることとなった俺の心中を推し測り、少しでも気が紛れればと気遣ってくれているのだということは文面から嫌でも察せられた。


 そういうふたりの心遣いは素直に有り難いし、これ以上気を揉ませないためにも早く返事をしてやらなければという思いはある。だのに思考に反して体が動こうとしないのは、端的に言って今はそれどころではないからだ。

 三日前、過去改変による父の死を体験してから、正直俺の心は折れかけていた。

 可能な限り誰も犠牲にしない方法を探して歩叶を救う。

 つい数日前にそう誓ったばかりなのに、早くも挫折しそうだ。


 俺の意思薄弱なのは今に始まったことではない。けれども、たとえ自分の家族であっても過去を変えれば簡単に死んでしまう現実を前にして、恐れるなという方が無理な話だった。一応、あの日の試みによって過去改変をリセットできることは分かったが、それだって繰り返すたび成功するとは限らない。前回はたまたま結が言うことを聞いてくれたからうまくいった、というだけの話だ。


 もしあれが失敗していれば、父が死んだままの歴史が現実として固定されてしまうところだった。そう思うと恐ろしくて恐ろしくて、父を頼ってもダメならばと用意していたプランC──三年前の白女はくじょに直接電話で密告する作戦──や、プランD──三年前の熊谷の住居を特定し、やつの妻子と接触する作戦──を試す勇気さえ枯れてしまった。


 そもそも今までの二回の失敗を踏まえるに、ひょっとすると死んだ人間を生き返らせようとするならば、代わりに誰かが死なねばならないという必然が世界には存在するのではないか。もしそうだとすれば、俺は歩叶の身代わりとなって死ぬ人間を最低ひとり、選ばなければならない。


 だがそんな権利が果たして俺にあるのだろうか?


 あまりにも不幸な死を遂げた恋人を取り戻したいと言えば聞こえはいい。

 けれど突き詰めてしまえば、それも結局は俺のエゴだ。

 歩叶から直接助けてほしいと頼まれたわけではないし、むしろこれは俺が俺を救済するために勝手にやっていることだろうと指摘されればぐうの音も出ない。

 そんな俺に、どうして歩叶の身代わりとなる人間を選ぶことなどできるだろう。

 彼女が生き返るなら喜んで命を差し出してもいいという人間がどこかにいるなら話は別だが、果たして歩叶はそうまでして再び生きることを望むだろうか──


「……」


 この三日間、堂々巡りを繰り返す思考がまたふりだしに戻ってきた。

 が、そこで俺はふと思い至り、ようようベッドから体を起こす。そうして勉強机の椅子にかけてあるサコッシュへ手を伸ばした。気持ちに整理をつけるため、しばらくのあいだ封印し、見ないように努めていた歩叶の手記を取り出してみる。

 机の下から引き出した椅子に腰かけ、パラパラとページを繰った。

 一応これの中身には、先週のうちにひととおり目を通したつもりだ。


 当時十七歳の女子高生が書いたにしては大人びた字でつづられた、彼女の日々の記録と様々の心情、想念、人生観。しかしそのうちの大半は、実の親にも必要とされなかったくせに、親戚とはいえ他人に違いない叔父や叔母の世話になって生きる自分への苛立ちや失望、諦念、罪悪感、それを誰にも打ち明けられない孤独……そういう行き場のない自問や内省ばかりだった。


『私って、何のために生まれてきたのかな。何のために生きてるのかな。生きていてもいいのかな。心から〝生きたい〟と思ったこともないのに。そう思える理由を探すために生きてるんだとしても、毎日がこんなにつらいなら、そんなもの、別に見つからなくたっていいと思う日もある』


『私はたぶん、誰かに愛してほしかったんだ。存在を許してほしかったんだ。だからずっとみんなから慕われる人間を演じてきた。もう誰にも嫌われたくなかった。捨てられたくなかった。でもそうやっていつも仮面をつけて〝普通〟の〝いい子〟のふりをして、みんなを騙し続けることにも限界を感じてた。だっていつか化けの皮が剥がれて、暗くてわがままで恨みがましい本当の私を知られちゃったらどうしようって怖かったし。毎日、家でも学校でも、自分じゃない誰かになりすまし続けるのって、すごく疲れる』


『本当は優星くんやリコに何もかも打ち明けて、楽になりたいって思ったこともある。でもやっぱり無理だった。打ち明けて、今まで築いてきた関係が壊れちゃったら……もしもふたりから腫れものを扱うみたいにされたら、私はきっと耐えられない。だってそれって、やっぱり私はおかしいんだ、普通じゃないんだって現実を、あのふたりから突きつけられるってことでしょう?』


『優星くんの前ではいつも少しだけ、本当の自分でいられたから。そんな私を嫌いにならないで、むしろ肯定しようとしてくれた優星くんが好きだった。やっと見つけた居場所だと思った。失いたくなかった。だけど結局、本当のことを黙ってるってことは、優星くんを騙してたのと同じことで……だからきっとこうなっちゃったんだろうな。罰が当たったんだろうな』


『こんなことなら最初から、ずっとひとりきりでいればよかった』


『誰にも依存しないで生きていける強さが、私にもあればよかったのに』


 そういう歩叶の述懐を目にするたび、俺の心臓は頼りない軋みを上げた。

 恐らく俺は、この手記を一読した今でもきっと、生前歩叶が感じていた孤独や不安や生きづらさを真の意味では理解できていないと思う。

 何故なら俺には血のつながった父がいて、母がいて、自分には他人に誇れるものが何ひとつないなんて贅沢な劣等感を抱えながらも、およそ幸せと呼んで差し支えない人生を送ってきたからだ。

 そんな俺が仮に彼女を取り戻せたとして、果たしてその苦しみに寄り添うことができるだろうか。孤独を癒やしてやれるのだろうか。これは手記の内容を眺めた上での憶測だが、恐らく歩叶が本心から求めていたのは──


『ひょっとするとお母さんは、この手記を見て驚くかな? 私が養子だってことはまだ話してないはずなのに、って。でも安心して下さい。お父さんや親戚の誰かから聞き出したわけじゃないから』


『あれは私が小学四年生に上がったばかりの頃……確か梅雨の時期だったかな? 船岡ふなおかの伯母さんが昼間、うちに遊びに来てた日。その日、私は学校帰りに友達の家に寄ってくるって、何日も前からお母さんに言っておいたんだけど。当日になって友達と都合が合わなくなって、まっすぐ家に帰ったんだ』


『あのときお母さんは伯母さんとのお喋りに夢中で、私が帰ってきたことに気づいてなくて。だから私は偶然、ふたりの会話を立ち聞きすることになった。もう遠い昔のことのはずなのに、今でもはっきり覚えてる。お母さんはこう言ってた。〝私ももう年齢的に自分の子を持つのは諦めたけど。それでも歩叶を見ていると、ときどきたまらない気持ちになるの。やっぱり養子なんて取らなきゃよかった。この子さえいなければ私も自分の子を産めたかもしれないのにって、思わずにはいられなくて〟って、他にも家族の前では言えずにいた気持ちを、全部』


『あの日、私はまたこっそり家を出て、すっかり日が暮れてから、友達と遊んできたふりをして帰った。帰る頃には伯母さんはいなくなってて、お母さんは何にも気づいてないみたいだった。盗み聞きがバレてないと分かって、私はすごくほっとした。だけど同時に傷ついた。たぶん私は、お母さんに気づいてほしかったんだと思う。そして、さっきの話は全部嘘だと、嘘でもいいからそう言ってほしかった』


『でもふたりの話を聞く前から何となく、子ども心に変だなって思うことはあったの。うちのお母さんは他の子のお母さんみたいに私を叱らないし、甘やかさない。まるで余所の家の子に接するみたいに、私にもどこか他人行儀なんだよなって、心のどこかで感じてた。それがうちのお母さんなりのしつけなんだろうって、一応納得はしてたんだけど。でもそうじゃないよね。違うよね。だって私はお母さんの本当の子どもじゃない。血もつながってない。それじゃあ他人行儀にされて当然だよね。だって正真正銘の赤の他人だったんだから』


『私が物心つく頃には、お父さんとお母さんの関係は冷え切ってたから、うちの両親はずっと前からそうだったんだろうって思ってたけど。そうじゃなかった。全部私のせいだった。お父さんは自分の子どもを持つことを諦めて私を引き取ってくれたけど、お母さんは違った。諦め切れてなかった。だってお父さんとの間に子どもが欲しくて欲しくてたまらなくて、だからつらい不妊治療だってずっと頑張ってたのに。なのに突然、まったく知らない人の子を育てることになって、そのせいで夢を諦めないといけなかった』


『私は今も、実の母親に会ってみたいなんてこれっぽっちも思わない。自分が生んだ子を平気で捨てて逃げるような、無責任で残酷な人になんか会いたくもない。だけどお母さんだってきっと、そんなろくでもない親の血を引く子どもなんか育てたくなかったよね。目障りで目障りで仕方なかったよね』


『お母さん。たくさん、たくさん、迷惑かけてごめんなさい』


『生まれてきてごめんなさい』


 いくつかのページに渡って綴られた歩叶の懺悔ざんげを読み返し、最後に俺は、ぱたりと無言で手帳を閉じた。今、この胸の内で渦を巻く感情に、何と名前をつけたらいいのか分からない。憐憫れんびん? 悲哀? 同情? 怒り? 悔恨? 辛苦?

 どれも違って、しかしそのすべてを内包した何か。

 そうとしか形容のしようがない。けれど、はっきりと理解できることがひとつある。俺はそれだけを携えてついに腹を決め、立ち上がった。


 行こう。もう一度、平城家へ。

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