2023年8月17日(木)


 ──可能な限り、誰も犠牲にすることなく歩叶あゆかを救える方法を探そう。


 昨日の父との話し合いでそう決意した俺は、今、実家のリビングでひとり、過去カメラをかざしていた。画面の中には六人がけのダイニングテーブルに座って夕飯を囲む五人の家族。両親と妹と先日霊山へ旅立った祖母、そして姿は見えないが確かに存在していた高二の俺だ。端末内日時は二〇二〇年の二月二十三日、午後七時十三分。やっと過去の父を見つけた。


 うちの父は、仕事のある日は基本的に帰宅時間がまちまちだ。

 ちょうど今のような夏休みとか、冬休みの間は学校が休みだから、だいたい夜の七時までには帰ってくるのだけれども、生徒たちが日々青春を謳歌し、さまざまな悩みを抱え、ときには問題を起こす開校中となるとそうもいかない。

 ただでさえ繁忙な業務の合間合間に、生徒や父兄への個別対応が割り込むなんてのは日常茶飯事なわけだから、帰宅時間が定まらないのもむべなるかなだ。


 おかげで過去の父を画面に捉えるのはなかなかに苦労した。平日だと父は遅くに帰宅してからひとりで夕飯を食べることも多いから、どの時刻に設定すれば見つけられるやら、試行回数がとんでもないことになりそうだったのだ。

 ゆえに俺は、父が唯一確実に家族と食事を取る休日を狙って過去カメラを回し、やっとのことでちょうどいい日付に辿たどいた。


 三年前の二月といえば、俺が歩叶にフラれた翌月のことだ。

 当時、俺の失恋は家族の間でも暗黙の了解となっており──思えばあのときも、父が俺と歩叶の様子が双方おかしいことに気づいて、声をかけてきたのがきっかけだった──母やゆいには何となく気を遣われている感があった。

 けれどそんな気まずい時期だったからこそちょうどいい。


 俺はキッチンからもリビングからもよく見える位置に掲げられた壁かけ時計を見やり、出払った家族が帰宅するのはまだまだ先であることを確認した。

 両親はいつもどおり仕事へ行ったし、結は今日も今日とて塾で不在。

 つまり今、実家には俺ひとりだ。だから多少怪しい行動をしていたところで、誰に見咎みとがめられることもない。俺はリビングのソファに腰かけて、背凭せもたれに顎を乗せながら、画面の中の家族の食事が終わるのをひたすらに待った。


 スピーカーからは既になつかしい祖母の声がする。どうやら母が看護師として勤める病院に近所の何とかさんが入院することになったとか、そんな話をしているようだ。そこから十五分ほど経過したところで、相変わらずカメラにはさっぱり映らない当時の俺が食事を終えて退場し、次いで結、父という順で食卓を離れた。

 母と祖母はよくふたりで食事の片づけを分担していたから、どちらもしばらくはリビングに残るだろう。その様子を画面越しに確認した現在の俺もようよう体を起こし、過去カメラを起動したまま立ち上がって父を追う。

 この日の父は夕食後、すぐに二階へと上がり、書斎に足を向けたようだ。


「あ、やべ」


 ところが二〇二三年八月十七日午前十一時現在、書斎は部屋の主たる父が不在のために、厳重に封印されている。試しにノブを回してみるも、案の定開かない。

 ということは、三年前の父を書斎の中まで追跡するのは不可能だ。

 そう悟った俺は慌てて過去カメラを掲げ、今にも扉の向こうへ消えようとしている父の背中をタップした。途端にカメラの映像は電話の発信画面へと切り替わり、俺は祈るような思いで受話器を耳へ押し当てる。


『──もしもし?』


 無機質なコール音がしばらく鳴り響いたあと。

 不意に電子音が途切れて、現在いまとちっとも変わらない父の声が鼓膜を打った。

 それを聞いて心底胸を撫で下ろしながら、しかし同時に激しく緊張する。

 歩叶救出作戦、プランBの発動だ。

 俺はなるべく当時の俺の陰鬱とした喋り方を真似ようと努めながら口を開いた。


「あ……父さん?」

『……なんだ、優星ゆうせいか? どうした、わざわざ電話なんかかけてきて』

「いや、ちょっと……面と向かってだと話しにくいことがあって。今、このまま話してもいい?」

『ああ、いいぞ』


 どうやら父は今、電話の向こうにいるのが絶讃思春期こじらせ中の我が子であると信じ、少しも疑いを持っていないらしい。ゆえに俺も、ごくりと固唾かたずを飲む音が通話に乗らないよう細心の注意を払いながら話を進めた。


「ありがと。休みの夜なのに、ごめん」

『いや、それは気にしなくていいが、何かあったのか?』

「うん……あの、さ。歩叶のことなんだけど」

『……平城ひらきさんがどうかしたのか』

「うん。実は、気になる話を人伝に聞いて……俺、先月、理由も分からないままいきなり歩叶にフラれたって話したじゃん」

『ああ。そう言ってたな』

「その理由ってのが……ちょっと、分かったかもしれなくて。なんか、歩叶……ストーカー的なこと、されてるみたいなんだよね。白女はくじょの先生に」

白女うちの教員が?』

「うん。名前は、確か……熊谷くまがい。熊谷沙也人さやとって教師らしいんだけど」

『熊谷……演劇部顧問の熊谷先生か』

「そう。そいつが去年から、歩叶の周りをうろうろし出して……だから歩叶は、俺や父さんに迷惑がかからないように気を遣ったんじゃないかって言うやつがいるんだ。そう言われると、確かに歩叶ならありえるかもなって……だとすると、別れる理由を答えてもらえなかったのにも納得だし」

『……』


 とにかく父に話を信じてもらわないことには、プランBは成立しない。

 ゆえに俺は可能な限りそれらしい根拠を並べ立てながら、同時にそろり、そろりと足音を忍ばせ自室へ向かった。電話の向こうの父は考え込んでいるのか、話を聞いて沈黙している。さすがにすぐには信じてもらえないか、と苦々しい思いで唇を噛みながらも、物音を殺して自室のドアを開け、中に入った。


 何しろ過去電話がまた電池切れを起こして、通話が途切れたりしたら大変だ。

 ゆえに急いでベッドまで行き、枕もとの充電ケーブルを端末につないだ。

 一昨日買った電池式の充電器では心もとないが、倍速充電可能なこのケーブルにつないでおけば、少なくともバッテリーの消費が充電速度を上回るなんて心配はいらないはず。俺は一度耳から話した画面の右上で、電池のアイコンがしっかり「充電中」になっているのを確かめてから、改めて話を続けた。


「でも、俺や父さんが問い詰めても、歩叶はたぶん〝違う〟って言うと思うんだ。あいつは何でもひとりで背負い込もうとするところがあるから……」

『……そうだな。あの子の性格なら、確かにそう言うかもな』

「うん。だから俺、どうしたらいいか分かんなくて……まさか白女に乗り込んでって、熊谷本人に直接くわけにもいかないし」

『そうか……難しい問題だな。少なくとも熊谷先生は、そういうことをしでかしそうな人には見えないんだが……何しろ既婚者でお子さんもいたはずだし、教員の間でも愛妻家って評判だ。その熊谷先生が……』

「け、けどそいつ、白女生からも結構人気なんだろ? 若くてノリがよくて、話しやすい先生だって……」

『うん……それは確かにそうだ。生徒の中には、本気で熊谷先生に好意を寄せてる子もいるみたいでな。前に教頭先生から、そういった生徒の相手をするときはくれぐれも言動に注意するようにと、忠告を受けてたのは覚えてる』

「なら、さ。女子校で、常に女子生徒からちやほやされて、本人もちょっと勘違いしちゃってる……みたいなのも、ありえなくはないんじゃないの? 自分はすべての白女生から好かれて当然だ、みたいな、思い込みっていうか……」

『さすがにそこまで思い上がるような人ではないと思うが……まあ、しかし長年教師をやってると、世間との間に感覚のズレみたいなものが生まれるのは確かだ。大学を卒業してすぐ教員になった先生なんかは特に、一般社会をほとんど知らないまま〝先生、先生〟と呼ばれ続けるわけだからな』

「つまり自分は特別だ、とか、偉いんだ、とか思い込むってこと?」

『中にはそういう人もいる、という話だ。熊谷先生がそうだとは思えないが……』


 ……くそ。やはり何の証拠もなくこんな話を信じてもらうなんて無理か。

 実際、父は三年前の事件のあとも、しきりと熊谷のことを「そんなことをするような人には見えなかった」と言ってたし。

 過去改変後の熊谷が歩叶を殺したあとで平然と生徒に会い、何の疑いを持たれなかったことを考えても、真人間に化けたやつの擬態はさぞや巧妙だったのだろう。


 けれど俺もここで退くわけにはいかない。やつが事件を起こすまでまったくボロを出すことなく善良な教師の仮面を被っていられたのは、ひとえに自分がやましいことをしているという自覚があり、自覚があるからこそその汚点を隠しおおせるにはどうすればいいかと、客観的計略を巡らせることができたからだ。


 そういうやつの本性を、何としても父に知らせないと。

 今度は事件を止めてくれと哀願するわけじゃない。ただ父がここから年末まで、疑いの眼差しでもって熊谷の動向を注視してくれるだけでいい。

 そうすれば父もきっとどこかで違和感に気づくはずだ。何しろ三年前の報道が真実なら、やつの外面に騙されて毒牙にかかった生徒は歩叶ひとりじゃない。

 事件が起きる前であっても、叩けばきっと大量のほこりが出るはず。


 だとすれば。だとすればだ。


 事件が起こるよりずっと以前に、何とかしてやつの化けの皮を剥がす。それが叶えば歩叶が殺される未来も変えられるのではないか。何せ長年、常習犯的に生徒に手を出していたなんて事実が明るみに出れば、やつは教師ではいられなくなる。

 そうして熊谷を免職に追い込んでしまえば、そもそも事件は起こらない。

 これが俺の矮小わいしょうな頭脳によってひねされたプランBの全容だ。

 そして俺は、父ならばきっと熊谷の正体を暴き、歩叶のために──ひいては未来あるすべての白女生こどもたちのために、為すべきことを為してくれるはずだと信じた。


「父さん」

『……うん?』

「俺は熊谷って人のこと、直接知ってるわけじゃないから、確かなことは言えないけど……だけどもし歩叶が何か抱え込んで困ってるなら、助けてやりたいんだ。別にそれでよりを戻そうとか、そういうんじゃなくて……やっぱり俺、今でも歩叶が好きだから」


 昨日は泣きながらでなければ吐き出せなかった本心を、今日はちゃんと素面しらふで言えた。父はこの気持ちを理解して、受け入れてくれる。昨日、ふたりきりで話してそう確信できたからこそ、俺は父を頼ることに決めた。今回は事件発生の直前に干渉するのではなく、長い時間をかけて熊谷の乱心を阻止する。だから父にも危険は及ばないし、昨日の巡査部長のようなことは起きないはずだ。その分、計画がうまく運ぶかどうかはより不確かで、俺はただ父を信じることしかできないけれど。


『……分かった。そういうことなら、しばらくは注意して平城さんの様子を見ておこう。彼女のクラスの担任にも、機会を見て話しておくよ』


 やがて祈るようにスマホを握り締めた俺の指先に、そう答えた父の声がわずかな震動となって伝わった。吐く息が途端に震えそうになるのを、ぐっとこらえる。


「……うん。ごめん、いきなりこんなこと頼んだりして……」

『いや、気にするな。熊谷先生の件も何かの間違いだとは思うが、火のないところに煙は立たないと言うし……一応、そっちも気にかけてみるとするよ。何か分かれば、すぐにおまえにも連絡する。それでいいか?』

「うん……父さん、ありがとう」

『こっちこそ。もしもおまえの聞いた話が本当なら、いずれ大事になるかもしれないからな。そうなる前に何かしら手を打てるなら、打った方がいいに決まってる。学校のためにも、生徒のためにもな』

「うん」

『とにかく、おまえもまた気になる話を聞いたら教えてくれ。ただし何の根拠もない噂話を、先走って周りに言い触らしたりはしないようにな』

「うん、分かってる。歩叶のこと……頼むよ。どうかあいつを助けてやって」

『ああ。任せろ』


 電話越しに聞こえた父の力強い答えは、またも鼻にツンときた。

 けれども俺はどうにか平静を装って、他に二、三言、言葉を交わしたのちに通話を切る。すぐに充電を確認してみると、バッテリー残量は通話を始めた直後の状態からほとんど変わっていなかった。

 いかにバッテリー消費の激しい過去カメラといえど、やはり充電コードをつなぎながら使用すれば、途中で強制終了の憂き目に遭うことはないようだ。


 これはまたひとつ有用な使い方を見つけられたな、と思いながら、俺は通話終了と同時に現れたカメラの撮影画面も素早く閉じた。すると次の瞬間、にわかにガツンとやられたような衝撃が頭に走り、またも視界が歪み出す。

 目に映るものすべてが輪郭を失い、ぐにゃぐにゃになって、平衡感覚が狂い出した。強烈な眩暈めまいに似た症状に俺は立っていられなくなり、思わず込み上げてきた吐き気に口を押さえながらベッドへと倒れ込む。

 ああ、この感覚は間違いない──昨日、交番の前で倒れたときと同じ。


 すなわち、過去が変わったのだ。


「──ぃ……おにい……お兄、起きてってば!」


 刹那、呼ばれる声で我に帰った。

 はっと両目を見開けば、いつの間にか自室の白い壁が西日色に染まっている。

 どうやらまたも気を失っていたらしい。ということは昨日のアレも、やはり熱中症ではなく過去改変の影響だったということか。俺は朦朧もうろうとしながら何とか体を起こし、冷房が効いているはずなのに汗に濡れた前髪を掻き上げた。

 そうして不快な頭痛と耳鳴りをやり過ごし、虚ろに目を向けた先にはTシャツ姿の結がいる。ずいぶんご立腹な様子で眉は吊り上がり、黒いショートヘアも心なしか逆立っているようだ──いや、待て。ショートヘア? 違う。

 こいつはつい昨日まで、セミロングの髪をよくひとつにまとめていたはず……。


「結……おまえ、髪、切ったのか」

「はあ!? お兄、寝ぼけてんの? 髪切ったのは先月の話ですけど!」

「先月……?」

「そんなことより、ごはん炊いといてってLINEしたのに何でのんきに寝てるわけ? 昼前に雨降ったのに、洗濯物も全ッ然取り込んでくれてないし!」

「雨……? いや、昼前に雨なんか降ってなかったはず──」


 と言いかけたところで、俺の意識は唐突に覚醒した。何故なら窓の外を見ようと視線を巡らせた拍子に、室内の異変に気がついたからだ。


 ──テレビ。


 ベッドと窓の間の壁際に、見慣れたローボードに鎮座する二十六型テレビの姿がある。だがあれは俺がひとり暮らしを始めたときに仙台へ持っていったはず。

 いや、テレビだけじゃない。テレビの前に置かれたローテーブルも、その上の据え置きゲーム機も、勉強机の隣に佇むカラーボックスも、壁にかかったコルクボードも。全部、全部、全部、気を失う直前までは確かにそこになかったはずだ。


 だって、これじゃまるで──俺がまだ実家ここに住んでるみたいじゃないか。


「……結。今、西暦何年だ?」

「は?」

「今は西暦何年の、何月何日だ?」

「はあ……あのさ。お兄、いつまで寝ぼけてるわけ? 今日は二〇二三年の、八月十七日です!」

「日付……は、変わってない……じゃあ、なんで──」

「ていうかさ、洗濯物! お兄のせいで全部洗濯し直しだから、罰として洗濯機回してイチから干して! あとごはんも今から炊くから、晩ごはんは八時くらいになりますんでよろしく!」

「それは別にいいけど、母さんは?」

「お母さんなら今日は準夜勤だって言ってたでしょ!」

「準夜勤? パートなのに?」

「はあ? ……お兄、マジでいい加減にして。あたし一応受験生なんだから、休みの日くらいもうちょっと真面目に協力してよ! 今のままじゃ特待生で合格なんて絶対無理……」

「特待生って、おまえ、そんなの目指してたっけ……?」

「……もういい。めんどい。喋りたくない。とにかく洗濯よろしく!」


 投げつけるように言うが早いか、結は足取りも荒く部屋を出ていった。

 が、一体何がどうなっているのやら、過去改変前の世界の記憶しかない俺にはさっぱりだ。いっそ過去が変わると同時に記憶も上書きされてくれればいいものを、神が創り給うたと思われる過去カメラもそこまで万能ではないらしい。


 とにかく今の結との会話で分かったことは、日付こそ改変が起きる前のままだが実家を取り巻く状況はだいぶ変わっているらしいということ。

 この部屋の状態を見るに俺は恐らく今も実家暮らしをしていて、パートタイムの看護師として働いていたはずの母はフルタイム勤務に戻っている。そのせいか母が夜勤で不在の日の家事は、俺と結とが分担してこなしているようだ。

 しかし家庭を持ってからは家のことと仕事を両立したいと言ってパート勤務に切り替えたはずの母が、どうしてフルタイムに戻っているのだろう。


 というか、歩叶はどうなったんだ?


 遅蒔おそまきながらようやくそこに思い至り、俺は慌てて自前のスマホを引っ掴んだ。

 そうして即座にLINEを開いてみるも、トーク履歴に歩叶の名前はない。

 電話帳にもない。ふたりで撮った過去の写真も、電話の着信履歴もない。

 ない。ない。ない。スマホの中には見当たらない。歩叶の生きている痕跡が、ただのひとつも。途端にぞっと冷たい予感が背筋をなぞった。


 まさか俺はまた失敗したのだろうか?


 過去が変わったあとの俺は、どういうわけだか大学へ進学したあとも白石しろいしで実家暮らしをしているようである。それはつまりこの町から逃げ出す必要がなくなったということで、だったら歩叶は今も生きている──救えたのかもしれない、と思ったのに、違うのだろうか。ああ、くそ。もっと詳しく状況を把握したい。

 が、今はまず、かなり苛立っていた様子の結の機嫌を取るのが先決か。


 過去が変われば天気も変わる。父に過去電話をかける前は降っていなかったはずの雨のせいで、ダメになったという洗濯物とやらを片づけに行かなくては。

 家の中の変化をもっと探れば、状況が見えてくるかもしれないし。

 俺はそう言い聞かせてはやる気持ちをどうにか抑え、足早に部屋を出た。

 廊下をざっと見渡した限りでは、二階の様子はさして何も変わっていない。

 階段を下りた先のリビングも、大まかな家具の配置などはすべて改変前と同じ。


 過去が変わる前は家事と言えば皿洗いくらいしかしなかったはずの結が、至極不機嫌そうな顔つきで台所に立っていること以外、特に異変らしい異変はない。

 俺は黙然と流しで米を研ぐ妹を後目にリビングを出た。

 洗濯機の在処ありか、すなわち洗面所があるのは玄関までまっすぐ続く廊下の途中だ。

 が、ちょうどその洗面所の扉の向かいには、我が家で唯一の和室がある。

 仏間兼祖母の寝室として使われていた部屋だ。引き戸はぴしゃりと閉じられて、室内の様子はうかがれない。けれども俺はそこでふと、


「……まさか、ばあちゃんがまだ生きてるなんてことはないよな?」


 と、一抹の淡い希望を抱いてしまった。

 何しろ過去が変わったのだ。だとすれば祖母の寿命にも多少の変化が起きて、先日の死が回避された、なんてことがあるかもしれない。

 もし、もしもそんな奇跡が人知れず起きたとすれば、間違いなく歩叶も救える。

 過去が変われば人の生き死にも変わる。それを今度は誰かの死ではなく、生存によって確かめたい。にわかに沸き起こった衝動にあらがえず、俺はすぐさま祖母の部屋の引き戸へ飛びついて、ノックもせずにがらりと開けた。


 が、残念なことに待っていたのはがらんどうだ。仏壇の手前には祖母の遺骨が安置された小さな祭壇があり、線香のにおいが微か宙空を漂っている。

 葬儀からまだ間もないという理由で、遺品整理はまだ簡単にしか済ませていないはずなのに、何だか妙にからっぽに映る物寂しい景色だった。祖母が愛用していた折り畳み式のちゃぶ台も、座椅子も、嫁入り道具の仙台箪笥たんすも、まるで室内にあるものすべてが主人の死にうちひしがれて、ひっそり泣いているみたいだ。


 そして俺には、彼らにかける言葉の持ち合わせがなかった。ゆえに亡霊のごとくぼうっと戸口に佇んだまま、無言で引き戸を閉めようとする。

 ところがそこでふと気づいた。気づいてしまった。

 最後に何となく目がいった祭壇の上の祖母の遺影。その隣に置かれた仏壇には、未だ四十九日を迎えていない家族に寄り添うように別の遺影がふたつあった。


 そう、だ。


 それを目にした途端、俺は思わず叫んでいた。まったくの無意識に、言葉のていをなさない言語を発して、あとずさりながら腰を抜かした。

 途端にガタガタと全身が震え出し、今度こそ正気を失いそうになる。

 何故なら仏壇の上の遺影は、祖母より十年も先に亡くなった祖父と。


 ついさっき電話で話したはずの、父のものだったから。

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