2023年8月16日(水)


 バイト先には昨夜のうちに電話して、仙台に戻るのはもう少し先になりそうだと店長に伝えた。夏休みの学生たちが毎晩のように押しかける居酒屋の書き入れどきに、欠勤が続いてしまうのは店の皆に申し訳なかったが、今の俺にはどうしてもしろいしを離れられないわけがある。


 未華子みかこさんから歩叶あゆかの日記を預かった翌日。真夏の陽射しの下、俺はまたゆいの自転車を借りて白石駅へやってきていた。駐車場のはずれにぽつんと佇むバス停のすぐ傍で、サドルを腰かけ代わりにしたまま車道の向こうへ目を注ぐ。そこには白石城を模した造りの、漆喰しっくいの壁がまぶしい建物があった。何も知らない人間が見れば立派な瓦葺かわらぶきの屋根をいただいたやぐらに見えなくもないそれは、白石で唯一の交番だ。


 朝の天気予報によれば、本日の最高気温は三十五度。

 このうだるような暑さにもかかわらず、窓も戸口も閉め切られているところを見ると交番内は冷房が効いているらしい。おまけに窓にはブラインドが下がっているせいで、どうにも中の様子が観測しづらい。けれども羽根スラットが完全に閉じているわけではないから、辛うじて屋内に人影があることも確認でき、俺は誰にともなく、


「……これならいけるはずだ」


 と呟いて、汗ばんだ手で一層きつくハンドルを握り締めた。俺が今日、単身ここへやってきたのは他でもない──過去を変える決意を固めたためだ。

 昨夜、呼ばれるように向かった神明社しんめいしゃの境内で、俺は三年前の歩叶と会話した。

 それによって、過去カメラの真の力と使い道をようやく理解した。


 今、俺がサコッシュからおもむろに取り出したこのスマホは、未知なる力によって過去とつながっている。原理はまったくの不明だが、根っからの文系で研究者肌でもない俺は、何がどうなればそんな事象を引き起こせるのか、なんて科学的な部分には興味がない。ただ、こいつを使えば過去を変えることができる。

 重要なのはその一点のみだ。

 何故なら過去カメラの機能を駆使すれば、三年前に殺された歩叶を救えるかもしれない。彼女を救うことさえできるなら、他のことはどうだって構わないのだ。


 歩叶と別れてからというもの、俺はひたすら逃げ回るだけの人生を送ってきた。

 自分だけを可愛がってきた人生と言い換えてもいい。おかげで俺は本当に大切なものを失い、救うべき人を──歩叶を見捨てた。守れなかった。あんなに好きだった彼女を。叶うことなら、ずっと傍にいたいと願っていたはずの彼女を。

 それが大いなる過ちだったと知った今、俺は過去をなかったことにしたい。

 そうしてもう一度やり直したい。彼女を裏切った償いとして。

 だから俺は今日、ここへ来た。どうすれば歩叶を救えるかと考えに考えた結果、最適解と思われたのが「警察を頼ること」だったからだ。


「本当は俺が自分で助けに行けりゃよかったんだけど……」


 と、星屑のカバーを開きながら、やり場のない悔しさと共にひとりごちる。

 実は昨夜、俺が真っ先に考えたのは「過去の自分に電話をかけて、歩叶を救いに行かせる」というものだった。

 ところが初めてこのスマホを拾ったとき、あるいは花火大会の会場でもそうだったように、どういうわけだか過去カメラの映像には当時の俺の姿が映らない。


 ただカメラを現在いまの自分へ向けると当時の姿となって映るようだから、試しにその状態で画面をタップしてみたものの、結果は何の反応も得られなかった。

 ならばと結にカメラを持たせ、俺がまだ白石にいた頃の部屋の様子を撮らせてみたりもしたのだが、やはりそこに当時の俺は映らない。ひょっとすると過去カメラは操作者の過去は映らないようにできているのでは、との仮説から、俺ではない誰かに撮影させればいいと思ったのだが、話はそう単純ではなさそうだ。


 おかげで俺は過去の自分と連絡を取るという作戦を見直さねばならず、頭をひねりに拈った末に「警察に頼る」というごくシンプルな答えへ行き着いた。

 つまり二〇二〇年十二月二十四日、歩叶が殺される直前の交番に電話をかけ、から事件を通報するのだ。白石女子高校の教師が生徒にストーカー行為を働き、まさに今日、殺害しようとしている、と。


 事件の詳しいあらましについては当時の報道と横山よこやまから仕入れた記憶、及びネットの海から掻き集めてきたものを、歩叶の日記の余白に細かく書き留めてきた。

 正直、大学のレポートだってこんなに詳細に調べてまとめたことはないぞと内心苦笑しながら、改めて事件をなぞってみる。


 事件発生日時はクリスマスイヴの午後四時頃。

 当時白女はくじょは冬休みの真っ只中だったが、受験生を対象とした冬季講習が開かれており、参加希望者が集まって自主的に補習を受けていた。

 歩叶もそのために休み返上で登校した、真面目な受験生のひとりだったようだ。

 ところがそんな勤勉さが仇となり、結果として彼女は殺されてしまった。二十四日の授業が終わったあと、進路指導という名目で呼び出された生徒指導室で。


「当日、授業が終わったのは午後三時四十分頃……ほとんどの生徒は授業が終わると同時に下校して、校舎内にはほとんど人がいなかった……」


 と、俺は事件の概要を記した自らのメモを指先でなぞり、ぼそぼそと唱えながら改めて時系列を確認する。そうすることで昨夜、朝方までかけてまとめた情報を寝不足の頭に叩き込んだ。しかしまったく不幸なことは、この事件当日、歩叶は本来なら親友の横山と共に登下校する予定であったことだ。


 当時、歩叶と横山は志望する学科こそ違えど同じ大学を目指していて、冬季講習にも毎日ふたりで出席していた。ところが事件のあった日は横山が熱を出して授業を欠席し、結果歩叶はひとりで登校することになったのだ。

 無論犯人の熊谷くまがいが歩叶を呼び出したのも、いつも隣にいる横山の不在を好機と見込んでのことだったのだろう。だがそのせいで三年前、歩叶の死を告げるために電話を寄越した横山は、壊れそうなほどに泣きじゃくっていた。


 ──あの日、私が熱なんか出さなければ。いつもどおり歩叶と一緒に登校してれば、きっとこんなことにはならなかったのに、と。


 そう言って電話の向こうで泣き崩れた横山の慟哭どうこくを、茫然と聞いていることしかできなかった苦い記憶が心臓に爪を立てる。あのあと俺は横山を気にかけるどころではなくなり、薄情にも自分から連絡を取ることをしなかった。

 今になって思い返せば返すほど、当時の自分に対しては怒りと失望の念しか湧いてこない。自分のせいで親友が死んでしまったと思い込んでいた横山は、ひとりで悲劇の主人公ぶっていた俺などより何倍も、何十倍もつらかっただろうに。


 だがそんな横山を俺に代わって支えたのが望だったのだろう。こう考えてみるとあのふたりが今、互いの将来を見据えて交際する関係にあることは何ら奇妙ではないような気がする。三年近い間を置いて知らされたときには驚いたものの、俺から見てもお似合いだ。歩叶だって生き返ったらきっとそう言う。だから俺はその答え合わせをするために、ついに手帳を閉じて、過去カメラを交番へ向けた。


「頼む……」


 無意識のうちに口の中でそう唱える。カメラの画面に映った三年前の交番は、灼熱のいまとは真逆の寒々しさで半ば雪に埋もれていた。

 あの年、白石はホワイトクリスマスだったんだなと今更ながらに思い出す。

 ということは中で暖房を効かせているのか、やはり交番の戸口は閉じられたままだ。ブラインドの向こうにも人影は見えない。

 しかしパトロール中でもない限り警官がひとりも詰めていないということはないだろうと計算して、俺は緊張に震える指先で、トンッと軽く画面に触れた。


 するとたちまち画面が明転し、白石の市外局番である0224から始まる番号が表示される。間違いない。事前にネットで確認した交番の電話番号だ。

 今朝実家を発つ前に、過去カメラの発信機能は固定電話にも有効であると確かめておいたのが功を奏した。自転車をカーポートから引き出そうとしたときにふと思い立ち、カメラで映した実家をタップしたところ、何と家電いえでんにつながったのだ。


 ということは交番でもこれを応用できる。炎天下の陽射しと気温に耐えながら、警官が外に出てくるのを根気よく待ち続けるのだと腹をくくっていた俺は、それだけで早くも救われたような心持ちになった。で、今、やはり過去カメラ──ならぬ過去電話はあの交番に通じている。俺は固唾かたずを飲んで端末を耳に押し当てた。

 一コール待ち、二コール待ち、そして三コール目が鳴り終わるかというところでガチャリと受話器のはずれる音がする。


『はい、白石駅前交番です』


 ──通じた。


 今朝の実験で可能だと分かってはいたものの、本当に成功したと脳が理解するや否や心拍数が跳ね上がった。事前に設定した端末内日時は二〇二〇年十二月二十四日、午後十五時三十分。事件が起こるのはこの電話からおよそ三十分後のはずだ。

 交番から白女までの距離はたったの一キロ足らず。

 パトカーを使えば五分で着く。とすれば直前の通報でも間に合うはず。俺は声が上擦りそうになるのを懸命にこらえて、一度ごくりと唾を飲んでから、言った。


「あ、あの……警察に相談したいことがあるんですけど、今、いいですか」

『はい。どんなご用件でしょう?』


 と、抑揚のない語調で答えたのは壮年くらいの男性の声。決して親切そうな印象を受ける喋り方ではないが、露骨に面倒くさそうにされたり、悪戯いたずら電話かと警戒されたりしている風でもない。それを幸いと、俺はなおも緊張しつつ言葉を続けた。


「じ、実は、知り合いがストーカー被害に遭っていて……警察に相談するよう伝えたんですが、本人は誰にも知られたくないと言って聞かないんです。でも、話を聞けば聞くほど状況が悪くなっている気がして、心配で放っておけなくて……」

『なるほど。ストーカー被害、ですか……そちらの被害に遭われているのは女性ですか、男性ですか?』

「女性……というか、女子高生です。白石女子高校の生徒で、名前は平城ひらき歩叶。今は高校三年で、両親と一緒に八幡町はちまんちょうに住んでいます」

『ほう。八幡町にお住まいの平城歩叶さんが、ストーカーの被害に遭われているんですね?』

「はい。しかも相手は、平城さんが通っている高校の教師で……名前は熊谷沙也人さやとといいます。その熊谷が今日、平城さんを殺そうとしていると知り合いが……」

『殺そうとしている、ですか? 白女の教員が、自校の生徒を?』

「はい、そうなんです。白女では冬休み中も受験生を集めた授業をやっていて……平城さんもそれに通っているので、今も学校にいます。もうすぐ授業が終わる時間ですが、熊谷は放課後に平城さんを殺すつもりだと……」

『……失礼ですが、あなたのお名前は?』

「え」

『いえ、すみません。通報を疑うわけではないのですが、念のため通報者のお名前も聞いておかないと』

「と、匿名じゃダメなんですか? 時間がないんですけど」

『いえ、ですが万一何かの間違いということがあっては困りますから、ご連絡先くらいはうかがっておかないと……どうしてもということであれば一度、110番に通報していただけますか?』

「も、もうすぐ事件が起きるかもしれないんですよ!? 名前は理由があって教えられませんが、悪戯なんかじゃありません! 本当です!」

『いえ、それは分かるんですが、本当に緊急性のある通報なのであれば、110番にかけていただいた方が警察われわれとしても迅速に動けるんです。交番への通報ですと、まず私から署の方へ連絡を取って、上の指示を仰がないといけませんので……』


 ……なんてこった。俺は照りつける陽射しと絶望にあぶられ、眩暈めまいを覚えた。

 これが世に言うお役所仕事というやつか。フィクションの世界では往々にして警察というものがさも無能であるかのように描かれがちだが、まさか現実世界でも同様に無能だなんて誰が想像できただろう。今から人が殺されるかもしれないと言っているのに、いちいち上の指示を仰がなきゃ動けないって?


 それじゃ何のために交番に警察がいるのか分かりやしない!


 だいたい緊急性のある通報なら110番へという理屈は分かるものの、過去電話の発動条件を考慮すれば、三年前の警察へ110番通報するのはおよそ不可能だ。

 何しろ電話番号が「110」の建物や人など存在しない。とすれば過去電話を使っての110番通報は理屈上できない、ということになる。


 だからこちらは交番に電話しているというのに、まるで気のきかない警官だ。

 白石みたいな田舎じゃ殺人や強盗なんて大きな事件は滅多に起きやしないから、市民だけでなく警察まで平和ボケしてしまっている。

 田舎の交番勤務の仕事と言えばパトロールか道案内か徘徊はいかい老人の保護くらいなものだと、経験上そう決めてかかっているのだ。

 しかし警官がこんなていたらくでは、到底歩叶を救えそうもない。


 俺がどれだけ必死に訴えたところで、名前も名乗らない怪しい通報には耳を貸さないということか。あるいは犯人である熊谷の「教師」という肩書きが、ただそれだけで一定の社会的信頼を担保されたものだからか。はたまた警察と教師という、公務員同士のよしみによるかばてか。とにかく俺は失望した。

 これで歩叶を救えるという確信が、希望と共にガラガラと音を立てて崩れ去る。

 おかげで目の前が真っ暗になり、耳鳴りまでし出した。

 極限状態に追いやられた喉がからからに渇く──どうすればいい?


『もしもし? もしもし、どうされますか?』

「……」

『今すぐ対応が必要ということであれば、私も一応署へは連絡します。ですが本当に殺人が起きる可能性があるのなら、やはり110番へ──』

「……もう、いいです」

『はい?』

「助けていただけないのでしたら、もういいです。110番通報はしません……というか、できないので」

『何故できないんですか? 今かけていただいているお電話から、110番へダイアルしていただくだけでつながりますよ』

「それができないから交番に連絡したんです。とにかく、歩叶を……平城さんを助けて下さい。お願いします……」


 言うだけ無駄だろうという諦めの気持ちに包まれながら、最後にそう告げて電話を耳から離した。受話器の向こうでは警官がまだ何か話している様子だったが、構わず無言で通話を切る。ところが親指で通話終了のアイコンをタップした瞬間、予期せぬ異変に襲われた。


 先程から聞こえる耳鳴りが一気に音量を増し、膨れ上がって、頭の内でガンガンと鳴り始めたのだ。まるで内側から頭蓋を割らんばかりの大音響に、俺は思わず額を押さえた。が、なんだと考える暇もなく、今度はぐにゃりと視界が歪む。

 まるでムンクの『叫び』の世界に迷い込んだような感覚だった。

 視界に映るすべてのものが輪郭を失い、色彩が混ざり合い、ゆっくりと攪拌かくはんされるように回転を始める。おかげで平衡感覚が狂い、同時にひどい眩暈と吐き気を覚えて、次の瞬間、俺は意識を失った。


 一体何が起きたのだろうか。次にふと気がつくと、俺はしきりに肩を叩かれ、誰かに呼びかけられていた。自分が気を失っていたことにも気づかず朦朧もうろうまぶたを開けば、左半身がにぶい痛みを訴える。おまけに肌の触れているところが熱くて硬い。

 どうやら俺は気絶した拍子に自転車ごと倒れ、鉄板のごとく熱されたコンクリートの上に投げ出されたようだ。


「おい、君、しっかり! 大丈夫か!?」


 果たしてどれほどのあいだ意識を失っていたのだろう。

 まったく意図しない眠りから覚めたのち、俺はたっぷり十数秒かけてようやく事態を理解すると、おもむろに視線を動かした。本当はすぐにでも起き上がりたかったのだが、倒れた際に頭でも打ったのか、体が重く意識にももやがかかっている。

 ゆえにまずは呼びかけてくる相手の姿だけでも確かめようと、頭部をわずか傾けて視線を上げた。するとそこには、鮮やかな空色が目を引く夏服姿の警官がいる。


 まさかさっきまで電話をしていた相手かと思いかけ、いや、違う、あの電話は今ではなく三年前にかけたのだったと、数拍かけて思い直した。中年に差しかかりつつあると見える男性警官は、俺が目を開けたのを見るや束の間ほっとした様子を覗かせる。状況から推測する他ないものの、恐らく彼は近くで自転車の倒れた音を聞き、まさか交番の真ん前で交通事故ではあるまいなとちょっと窓の外を見たか何かした際に、倒れた俺の姿を見つけて駆けつけてくれたのだろう。


「あ……すいません……俺、もしかして……倒れました……?」

「ああ。見たところ出血はなさそうだけども、頭を打ったんじゃないか? 頭痛や吐き気は? 救急車、呼んだ方がいいか」

「いえ……大丈夫です。ちょっと、眩暈を起こしただけなんで……」

「眩暈を起こしたって、そんな悠長な。この暑さん中、帽子も被らず自転車こいできたんだべ? だとしたら熱中症かもしんねえ。やっぱり救急車を……」

「いや……本当に、平気です。お騒がせしてすいませんでした……」

「待て待て。君、ここから家は近いのか?」

「まあ、はい……自転車で十分かからないくらいですけど」

「じゃあ帰る前に少し交番うちで涼んでいきなさい。一応水分もちゃんと取らないと。帰る途中でまた倒れたら洒落しゃれになんねえかんな」


 と、警官は小皺こじわの畳まれた額に自身も汗をかきながら、しきりと俺に一服を勧めた。俺も自分の身に何が起きたのか分からないまま、とりあえず大丈夫と答えてしまったが、言われてみれば確かに熱中症という線はありえる。

 昨夜はどうすれば歩叶を救えるか、という思考に没頭するあまりほとんど眠れなかったし、心なしかまだ耳鳴りもするようだ。

 ……ここはひとまず警官の指示に従っておくのが賢明だろう。


 観念した俺は誘導されるがまま交番に入ると、味気もへったくれもないパイプ椅子に座らされ、警官がどこからともなく運んできた氷入りの麦茶を馳走ちそうになった。

 交番の中は想像どおり冷房が効いていてとても涼しく、冷茶が喉からすうっと落ちていく感覚も相俟あいまって、生き返ったような心地がする。


 おかげで思わずふーっとため息が漏れて、安堵と共に天井を仰いだら、執務席に戻った警官も胸を撫で下ろしたような笑いを零した。現在交番内にいるのは俺と彼だけのようで、白い壁に囲まれた空間には低い空調のうなり声と、片隅に置かれたラジオから流れるローカル放送ばかりが響いている。


「どうだ、少しは落ち着いたかい」

「はい……すみません、麦茶までご馳走してもらっちゃって」

「なぁに、いざってとき市民を危険から守んのが警察われわれの仕事だからね。よかったらほら、塩飴しおあめも。うちもパトロール中に熱中症起こしたりしないようにって、上から口酸っぱくして言われてんだ。だからこの時期はいつでも持ち歩いててな」

「……ありがとうございます」

「まあ、けど、見たところ大事なさそうでがったよ。ただ、私も倒れた瞬間を見たわけじゃないからね。もし頭を打ってたら、念のため病院で検査を受けといた方がいい。頭は打った直後は何ともなくとも、あとになって倒れたりすることもあるらしいからね。取り返しのつかないことんなる前に、用心はしといた方がいいよ」


 と、ところどころ地元のなまりが混じった口調で言いながら、人のさそうな警官は終始にこにこしていた。

 ちょうど暇を持て余したところに格好の話し相手を確保できたからか、はたまた警官としての己の仕事ぶりに満足しているのか、ずいぶん機嫌がよさそうだ。


 けれども俺は受け取った塩飴を包装ごと握り込み、危うく粉々に砕いてしまうところだった。何しろ先刻、歩叶を救ってほしいとすがった俺に当時の警官が突きつけた現実を思うと、今、目の前の彼が口にした台詞は皮肉以外の何ものでもないように思われてならない。無論声の感じや年齢からして、彼が三年前の電話を取った当事者でないことはほとんど確信に近く察せられるのだが、それでも俺の胸裏には、だった沼底の泥を掻き混ぜたような不信感と不快感とが広がりつつあった。


「……あの。親切にしていただいたついでに、少しおきしたいんですけど」

「ん、何だい?」

「お巡りさんは、いつからこの交番に勤めてるんですか?」

「うーんと、私は異動してきて三年目だから、二〇二一年の四月からだね。その前は柴田しばたの方の交番さいたんだけども、一年で白石に異動んなって……」

「……じゃあ、三年前はここにいなかったのか」

「三年前?」

「はい。二〇二〇年にここで勤務してた方の話を聞いてみたかったんですが」

「って言うと……なんでまた?」

「いえ。三年前の十二月に起きた事件のことを、どう思ってるのかなって」

「……」

「あの事件で殺されたの……俺の、同級生だったんです」


 俺は相変わらず意気地がなくて、歩叶のことを「恋人」とは呼べなかった。

 されど当時、少しも力になってくれなかった警察にちくりと針のような報復をしてやりたくて、思わずそんなことを口走る。

 まあ、とはいえこの警官が白石勤務になったのは事件後の春だというから、当事者でない人物に石を投げてみたところで当たりやしないだろう。

 そう思いながら一抹の虚しさと共に顔を上げ──そして俺は息を呑んだ。何故なら古びた事務椅子に腰かけ、じっと俺を見据えた警官の視線の温度が、さっきまでの親切心溢れるそれとは打って変わって凍土のごとき冷たさを帯びていたから。


「……ああ、そう。そいつは気の毒にね。けど、私が一年で柴田から白石に移されたのは、前任の巡査部長が自殺したからなんだよね。たぶんその人が君の言う〝二〇二〇年にここで勤務してた方〟でないかな」

「え……じさ、つ?」

「君、知らないの? 当時彼はここで、被害者の女の子が殺されるかもしれないって匿名の通報ば受けてね。そいつを署さ連絡する前に、万が一に備えるつもりで、犯人の教師がいた学校さ電話をかけた。だけどもそいつが裏目に出て、逆上した犯人に女の子が殺されたって、あの頃ニュースやなんかで散々騒がれてたべや」

「え……?」

「おかげで当時、我々も世間からえらいバッシングされてね。特に巡査部長は名前も住所も全部ネットに晒されて、相当ひどい思いしたらしいわ。だけども私ゃ同じ警察官として、彼は正しい行動をしたと思うけどもね。最善の選択ではなかったにしろ、精一杯市民を守ろうとした警察官が責められて自殺に追い込まれるなんざ、まったく世も末だわ」


 ──自殺。


 自殺。自殺。自殺。

 その言葉がぐるぐると頭の中を巡って、また意識が攪拌されるようだった。

 おかげで目の前の警官の話をうまく呑み込めない。

 三年前、匿名の通報を受けた警察官が自殺……?

 それは、つまり、俺がさっき起こした行動が過去を変えたということか?


 てっきりあの対応では、警察は動いてくれないと思っていたのに。

 ほんのわずかな、些細な変化が、事件のあらましを変えてしまった?

 少なくとも俺の知る三年前には、警察が犯人を刺激したなんて報道はなかったはず。むしろ歩叶は警察にも家族にも熊谷のことを話さずにいたはずだから……。


「まあ、とにかく、そういうわけなんでね。具合がよくなったなら、早く帰って病院に行くなり何なりして下さいね。あとからなんかあったときに、また警察の責任にされちゃたまんねえから」


 ところが思考がまとまる前に、俺は警官から暗に「出ていけ」と言われてしまった。茫然としながら見やった先に、先程までの親切な警官はもういない。

 彼はまるで俺が見えなくなったみたいに澄ました顔をして、何か書きものを始めてしまった。場違いに明るいラジオの音声が、無音の交番に響き渡っている。

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