2023年8月15日(火)
気づけば
……
ああ、そうだ。
ただやはり
やつが何を騒いでいたのだったか、また長寿庵からどういう道を通って自転車をこいできたのだったか、どうやっても思い出せない。こんな状態でよくガードレールも何もない田んぼに落ちることなく無事帰ってこられたなと、人間の帰巣本能とでも呼ぶべきものにぼんやり感心しながら、俺はようよう実家の玄関をくぐった。
「あら
そうしてまっすぐリビングへ足を向けると、L字型のソファに腰かけた妹の
そちらに気を取られたところへ、今度は対面キッチンの向こう側から夕食の支度に追われる母に声をかけられ、俺は束の間、亡霊のごとく戸口に立ち尽くした。
「どうしたの、ぼーっとして。久しぶりに友達とはしゃいで疲れちゃった?」
「うん……まあ、そんなとこ」
「だけど優星、今週末には仙台に帰るんでしょ? その前に家族でどこか食事にでも行くかって、今朝お父さんが言ってたよ。あんた、何か食べたいものある?」
「いや……今は、特に何も」
「じゃあ明後日くらいまでに考えといて。お父さんももう帰ってくると思うけど」
「うん」
「すぐに夕飯できるから、寝ちゃわないでね」
「うん……」
と終始上の空な返事をしながら、俺は母のいる台所に背を向けて、リビングの隅から伸びる階段を上がった。そんな俺の横顔をソファの上の結が
勉強机やベッドなど、大きすぎて仙台へ持っていくのが億劫だからと置いていった必要最低限の家具しかない部屋は、入り口に佇んで見渡すと、何だかがらんどうの牢獄に見えた。今朝まではごく普通の部屋に見えていたのになと思いながら、汗と共にまとわりつくサコッシュを体から引き剥がし、そのままベッドへ座り込む。
──あなたたち、歩叶がうちにもらわれてきた子だってことはもう知ってる?
徐々に薄暗さを増す室内で、俺は電灯やエアコンといった文明の利器の存在をすっかり失念したまま、脳裏に響く
……知らなかった。歩叶があの人の実の娘じゃなかったなんて。
未華子さんの話によれば、何でも歩叶は平城夫妻が親族里親として引き取った遺児だったらしい。血縁上の母親は、未華子さんの夫である
このふたりは当初仙台で同棲していたが、佐由梨さんが妊娠したのをきっかけに籍を入れた。ところが臨月が近づいてきた頃に、相手の男が突然行方を
ただでさえ生まれて初めての妊娠でたくさんの不安を抱え、精神の均衡を欠いていたところに、夫の蒸発という悲劇が重なったのだから無理もない。結果佐由梨さんは無事元気な女児を出産したものの、入院中の産院から
父親にも母親にも捨てられた彼女は、一旦仙台の乳児院へ預けられ、遺児として役所から「歩叶」の名と戸籍をもらった。その後、行政の調査で母方の親族として恒雄さんの名前が挙がり、市から連絡が入ったそうだ。
恒雄さんはそこで初めて姉が結婚していたことや、我が子を産みっぱなしにして失踪した事実を知った。というのも佐由梨さんは十代の頃から素行に問題があり、家族との不仲を理由に家を飛び出して以降、やはり消息不明となっていたそうだ。
けれども事情を知った恒雄さんは、生まれた途端ひとりぼっちになってしまった姉の子を憐れみ、平城家で引き取る決意を固めた。
折よく、と言ってしまってよいものかどうか、平城夫妻は当時子宝に恵まれないことに悩んでいたところだったから、これも何かの縁だと思い切ったらしい。
かくして歩叶は平城家の養子となり、叔父の恒雄さんを父として、その妻である未華子さんを母として育った。十歳を数える頃には既に自分が夫妻の実子でないことも承知していたらしい。未華子さんからそう聞かされたとき、俺は生前の歩叶の言動すべてに合点がいったような気がした。
どこか大人びていて、されどときどきひどく寂しそうで、誰にも言えない秘密を抱えていた女の子。それが平城歩叶という少女の正体だったのだ。彼女の生い立ちについては俺はもちろん、親友の横山さえ「知らなかった」と青ざめた顔をしていたから、きっと家族の他に知る者はひとりとしてなかったのだろう。
そんな秘密と孤独を抱えたまま歩叶は死んだ。
十八歳と言う儚さで、たったひとりで。
気づけば窓の外の日は落ちた。周りは山と田んぼと畑ばかりで、ほとんど車も通らない
そうして一体どれほどの時間、無音の闇の中に座り込んでいただろうか。
俺は不意に、長いあいだ
たかだかA5サイズの、どこにでもある普通の手帳だというのにそれは重い。
とてつもなく、重い。
ひょっとするとこれが人の魂の重さだったりするのだろうか。
だとすれば、かつて世界には死人の体重測定を繰り返し、魂の重さは二十一グラムだと割り出した医者がいたそうだがそいつはとんだヤブ医者だ。
この手帳に染みついているのは、歩叶が俺と別れてから世を去るまでの、ほんの数ヶ月間の
それだけでこんなに重たいものが、たったの二十一グラムであるはずがない。
人ひとりの人生とは、命とは、そんなに軽いものじゃない。
いや、あってたまるか。
「……くそっ」
そういう感情から生まれた行き場のない悪態が、いよいよ俺の背中のネジを巻いた。埃にまみれた体を奮い立たせて、部屋に昼白色の明かりをともし、家の前の道路に面したカーテンを閉める。そこでようやくエアコンの存在も思い出し、ほとんど自分に言い聞かせるような気持ちで、起きろ、とリモコンを叩いた。
途端にエアコンが吐き出した「ピ」という返事に背中を押され、俺もついに覚悟を決める。再びベッドを椅子代わりにして座り込み、一度深呼吸をしてから、息を止めて手帳を開いた。何も呼吸を止める必要はないだろうと自分でも分かってはいたのだが、限界まで膨らませた両の肺で圧迫しておかないと、恐怖と緊張で心臓が破裂してしまいそうな、そんな予感が働いたのだ。
ところが俺の惰弱な心臓は、無惨に弾け飛ぶ未来こそ避けられたものの、手帳のページを数枚繰ったところで早くも悲鳴を上げてしまった。
まるで歩叶の人柄から滲み出たインクで
次の瞬間、俺は打たれたように息を吸い、立ち上がると同時にサコッシュを引っ掴んだ。開いたままの口に手帳を突っ込み、ジッパーを閉める間も惜しんで部屋を飛び出す。階段を駆け下り、母と妹が談笑するリビングを突っ切って玄関へ続く廊下へ出た。直後、
「えっ。ちょ、お
と、面食らったような結の声が追いかけてきたが振り向かない。
そのままスニーカーを両足に引っかけて、自転車の鍵をひったくり、まとわりつくような夏の湿気の中へと走り出た。夜の
サドルを跨ぎ、爪先で蹴り上げるようにしてライトのスイッチをオンにするや、俺は思い切りペダルをこいだ。力の限り──あの神社を目指して。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます