2023年8月15日(火)


 歩叶あゆかの実家は、益岡ますおか公園からほど近い八幡町はちまんちょうの一角にある。

 位置的にはちょうど白高はっこうの第二グラウンドの裏側だ。

 グラウンドを挟んだ向こう側は市内で最も交通量の多い白石しろいしバイパスだというのに、ちょっと脇道へ入った途端、そこは喧騒とは無縁の古い住宅街になる。

 歩叶が中学を卒業する頃に平城ひらき家は、この八幡町に空き家を買って引っ越した。


 それまでは確か東中ひがしちゅうの学区内である寿山ことぶきやまに一軒家を借りて暮らしていたと記憶している。歩叶にしてみれば、益岡公園を突っ切って北へ二十分も歩けば高校へ通える立地へ移り住んだわけだから、二倍の距離がある寿山から通うより遥かに通学が楽になって大助かりだったことだろう。


「……で、ユーセー。なんか流れでオレたちまでついてきちゃったわけだけど、これ大丈夫かな?」

「いや、むしろ俺ひとりで上がり込む方が気まずいし……今更おまえらだけ帰るのも不自然だろ」

「だけど未華子みかこさん、なんでひとりで歩叶のお墓参りに来てたんだろう……旦那さんが休みの間にふたりで行ったりしなかったのかな?」

「平城ちゃんのオヤジさんって何してる人だっけ?」

「えっと、確か農協の……」


 と、俺とのぞむ横山よこやまの三人が額を寄せ合い、目下こそこそとそんなやりとりを交わしているのがまさしくその平城家だ。清林寺せいりんじに歩叶の墓参りへ行った帰り道。

 墓前で歩叶の母親の未華子さんと思わぬ再会を果たした俺たちは、彼女に半ば懇願される形で現在、平城家の茶の間に上がり込んでいた。


 生前歩叶の暮らしていた一軒家は決して新しくはなく、むしろそこはかとなく昭和を感じさせる二階建ての日本家屋だ。

 確か未華子さんは若い頃から茶道だか華道だかを習っていると昔聞いた覚えがあるから、平城家のつくりが全体的に和風趣味なのは彼女の影響かもしれない。

 案内された茶の間も当然のように畳敷きで、真ん中には見るからに使い込まれた座卓がひとつ。と言ってもくたびれているという意味ではなく、むしろ年季の入った分だけ色艶いろつやに味や貫禄が出ているように感ぜられた。


「ごめんなさいね、急にお招きしたりして。上がっていって、なんて言っておいて大したお構いもできませんけど」


 しかしこういう和風仕立ての部屋の片隅に、見るからに最新式の薄型テレビなんかが置かれてあると、何ともちぐはぐな光景に見えるものだななんて感想を抱いていると、帰宅するなり奥へ引っ込んだ未華子さんがついに戻った。

 途端に俺たちはサッと居住まいを正し「いえ、お構いなく」と揃って遠慮する。


 けれども奥の台所からやってきた未華子さんの手にはお盆があって、夏を感じる竹網代たけあじろ茶托ちゃたくと、青い差し色の入った磨りガラスの湯飲みと、ちょっとお高そうな茶請けが乗っていた。「大したお構いもできない」と謙遜していたわりには、いつでもお客人をもてなす準備はできていますと言わんばかりの遺漏のなさだ。


 でなければ当たり前の顔をして、地元老舗しにせ和菓子店の銘菓めいかが漆器に乗ってやってくるなんておかしい。俺は差し出された冷茶入りの湯飲みを恐縮して受け取りながら、仙台駅の土産屋みやげやでしか見たことのない菓子が卓上に揃い踏みしているさまを、何とも不可解な心地で眺めた。


「だけど本当に久しぶりね。安里子ありこちゃんはときどき見かけてたけど、それでも会うのは去年キューブであったクリスマスコンサート以来かしら」

「ええ、そうですね。私も普段は仙台に通ってるので、今じゃ市内にいないことの方が多くて……」

「そうよね。望君は東京で、優星ゆうせい君も今は仙台でひとり暮らしをしてるのよね?」

「はい……と言っても学生寮で、ひとり暮らしというよりは、友達と一緒に住んでるような感覚ですけど」

「いいじゃない、素敵な思い出になりそうで。仙台での生活にはもう慣れた?」

「そうですね、だいぶ慣れました。久々に白石に帰ってきたら、車なしじゃどこにも出かけられなくて困ってるくらいには」

「あらあら、そうなの。やっぱり仙台みたいな都会に馴染んじゃうとね。田舎暮らしは不便よねぇ」


 と口もとに手を当てて笑いながら、未華子さんはゆったりとした婦人用のブラウスの肩を揺らした。俺もそれに笑い返しながら、しかし妙だなと一抹の違和感を覚える。何しろ俺が未華子さんと最後に会ったのは、歩叶と別れるより以前──つまり三年以上も前のことだ。


 なのに未華子さんは俺がいま仙台で暮らしていることをどこで知ったのだろう。


 まあ、田舎のコミュニティの狭さを思えば、他人の家の情報が住民の口を介して筒抜けになるなんてのは日常茶飯事かと納得もいくのだが、とはいえ歩叶と別れてから三年の月日が流れた今もなお近況を気にかけるほど関心を持たれていたのかと思うと、何だか妙に居心地が悪かった。


「だけど、今日は本当にありがとう。昔のお友達がみんなで手を合わせに来てくれて、歩叶もきっと喜んでると思うわ」

「いえ。望や横山さんはともかく、俺は歩叶さんとは高二の頃に別れたきりで、今日まで全然ご挨拶にもうかがわなくて……」

「いいえ、気にしないで。こちらこそせっかく葬儀に来ていただいたのに、あのときはろくにお話もできなかったのをずっと申し訳なく思っていたの。特に優星君には歩叶が格別にお世話になったのだから、ちゃんとお礼をするべきだったと……」

「いや、俺は、お礼を言われるようなことは何も……むしろ肝心なときには何もできませんでしたし──」

「そんなことないわ。優星君はずっと歩叶の心の支えだった。たった十八年の人生だったけど、あの子が笑って過ごせたのは優星君のおかげよ。本当にありがとう」


 刹那、俺の自虐を遮るような勢いで未華子さんが言った。

 俺はそれに面食らってしまって口をつぐむ。まるで歩叶の心を全部覗いてきたかのような、確信めいた口調だった。ひょっとしたら未華子さんは、生前の歩叶とそういう話をする機会があったのかもしれない。けれどやっぱり何か妙だ。


 実はこの正体不明の違和感は、清林寺で未華子さんと偶然の再会を果たしたときからずっと思考に絡みついていた。はっきりと言葉にするのは難しく、ただ漠然と何か変だなと思うばかりなのだが、しかしその存在を確信したからには、自分が何を妙だと感じているのか掘り下げてみる必要がある。


 ──そもそも、だ。


 さっき横山も言っていたが、未華子さんは何故たったひとりで清林寺に現れた?


 ちょうどお盆の時期だから娘の墓参りへやってくること自体に不思議はないが、今年は盆の入りが日曜で、だったら休日に夫婦揃って供養に行くのが普通ではないかと思う。加えて墓前で俺たちを見つけたときの未華子さんの反応も妙だった。まるで幽霊にでも会ったかのような驚きようで、はて、平城未華子というご婦人は人前でこんなに感情をあらわにする人だったかなと、記憶との齟齬そごを感じている。


 おまけに気を取り直してからはやたらとにこにこしているし、昔の印象より饒舌じょうぜつだ。もちろん三年もあれば人が容易に変容し得ることは俺とて承知している。

 けれど娘を殺された母親の変わり方としては、何だかどうもしっくりこない。

 彼女も長い歳月をかけて事件から立ち直ったのだと前向きに解釈するとしても、それなら歩叶との関係はどうだったのだろう。少なくとも俺は、歩叶の口から直接そうと聞いたわけではないものの、平城家の親子関係は世間一般の人々が「家族」と聞いて想像する温度よりずっと冷え込んでいるのかもしれないと思っていた。


 何故なら歩叶は自分の親の話を好んでしたがらなかったし、何より家に帰りたくないというような素振りをたびたび見せていたからだ。おかげで俺は、ひょっとすると歩叶は虐待を受けているのではないかと疑ったことさえあった。


 もっともその疑惑は、平城家と家族ぐるみの付き合いをしていた横山によって否定された──少なくとも横山家の人々には、平城一家は絵に描いたような理想の家族に見えたらしい──が、だとしても歩叶は、本心では親との間に一線を引いていたのではないかと思われてならない。だのに今、俺の目の前にいる彼女の母親が、あたかも娘のすべてを知っているかのように語るのは何故だろう?


 そこまでひと息に考えて、ようやく違和感の輪郭が見えてきた。

 無論すべては根拠のない憶測から生まれた疑問であって、そもそも俺の予想や感じ方が誤っていると言われれば反論の余地はない。しかしやはり何か腑に落ちず、こうなったらいっそ本人に直接尋ねてみるべきかと腹を決めかけたところで、


「実は今日、あなたたちに声をかけたのはね。どうしても見せたいものがあったからなの」


 と、未華子さんの方から思いがけない告白を受けた。

 それを聞いた俺たちは仲よく目を丸くして、互いに顔を見合わせる。


「私たちに見せたいもの……ですか?」

「ええ。ちょっと待っていてね」


 そう前置きするが早いか、未華子さんはやおら腰を上げて、再び奥へと引き取った。かと思えば、茶の間と台所とを仕切るガラスの格子戸の向こうから五分と経たないうちに戻り、もとの場所へと座り直す。戻った彼女の手には一冊の手帳が携えられていた。あれがくだんとやらだろうか。そう思ってじっと固唾かたずを飲んでいると案の定、未華子さんはその手帳を卓の上へ差し出した。


 十代くらいの女子が好んで持ち歩きそうな、星柄の合成皮革をまとった手帳を。


「これって……」


 と横山が身を乗り出した刹那、俺は冷房の効いた室内に座していながら、どっと汗が噴き出すのを感じた。何せ未華子さんが呈出してきた合成皮革には見覚えがある。淡いベージュ色の上に、金から銀へ変わりゆく無数の星屑が降るデザイン。

 まるで同じだ。俺が今、足もとに置いたサコッシュの中に大事にしまっているあのスマホ──すなわち歩叶が生前使っていたスマホカバーと。


「もしかして……日記帳か何かですか?」


 ところがほどなく横山の発した質問が俺の正気を呼び戻した。ああ、そうだ。

 今し方目の前に置かれた手帳は、確かにデザインこそ例のスマホカバーに酷似しているが明らかにサイズが違う。ぱっと見た感じ、A5サイズくらいだろうか。

 スマホに比べるとだいぶ大きいし、皮革の下には薄型の端末ではなく紙が挟まれているのがひと目で分かる。

 厚さは大学ノートを二冊重ねたくらいで、スケジュール帳かと推測するにはやや厚い。だから横山もとっさに日記帳という発想が出てきたのだろう。


「ええ、そう。これは……歩叶が亡くなる直前までつけていた日記」

「……え?」

「事件のあと……警察の捜査が終わって、ようやく気持ちに区切りがついた頃に、あの子の部屋で見つけたの。これをぜひ、優星君に持っていてもらいたくて」

「お……俺に、ですか?」

「ええ。本当はもっと早くに渡せればよかったんだけど、私がこれを見つけた頃には、あなたはもう白石を出てしまっていたから……だから今日までずっと待っていたのよ。優星君にこの日記を読んでもらえる日を」


 まったく予想だにしていなかった事態の連続だった。おかげで俺はどう反応してよいやら分からずに、正座したまま手帳を見つめて固まってしまう。


「ちょ、ちょっと待って下さい。平城ちゃ……あ、いや、歩叶さんが亡くなる直前までつけてた日記ってことは、ひょっとしなくともユーセーと別れたあとの日記ってことですよね? なのになんでそれをユーセーに渡すんですか? こいつは、その頃にはもう歩叶さんとは……」


 けれども石になったかのように沈黙する俺の様子を見かねたのか、望が勢い込んで未華子さんに詰問きつもんした。すると彼女は、そんな質問が飛んでくることなど初めから織り込み済みだとでもいうように、顔色ひとつ変えないで望に一瞥いちべつをくれる。


「ええ、もちろん分かっているわ。歩叶は優星君と別れてから、一度も連絡を取り合ったことはないってね。だけどこれは……この日記は歩叶の遺書なのよ。だからこそ優星君に持っていてほしいと思ったの」

「遺書? でも、歩叶は──」

「そうね。あの子は教師に殺された。自殺でもないのに遺書だなんておかしな話よね。でも、私にはそうとしか思えないのよ。日記を読む限り、歩叶は……どうも事件が起きる前から、自分の死を予感していたみたい。それで、死ぬ前に自分の心の内を日記という形で遺しておきたいと考えたと……」

「そう……書かれてたんですか? この日記に?」


 と横山が問い重ねると、未華子さんもついには黙って深く頷くばかりだった。

 事情を知ったふたりは困惑の眼差しを互いに交わし合ったあと、最後は無言で俺を見つめてくる。歩叶が俺と別れたあとの、最期の数ヶ月間をつづった日記。


 二週間前までの俺なら、そんなものを差し出されたところでただちに拒絶していたことだろう。一体あの星屑の表紙の下にはどんな恨み節が綴られていて、俺を容赦なく責め立てるのかと想像を巡らせ、怯えて逃げ出したに決まっている。


 だけど今の俺はもう、自分が傷つけられることを何より憎んでいたピカピカの十七歳じゃない。だから今日もここへ来た。パンドラの箱の奥深くに封印していた眼鏡をかけて、レンズの向こうできらきら光る彼女の思い出と向き合うために。


「……分かり、ました」

「ユーセー」

「俺が持っていても構わないのなら……有り難くいただいていきます。すぐに中身を読めるかどうかは、分かりませんけど」


 友人ふたりが心配そうな視線を投げかけてくる中、俺はやっとのことで答えを絞り出した。そうして顔を上げた瞬間の──あの未華子さんの妖しい目の輝きを、なんと形容すればよいのだろうか。


「本当? 本当にもらってくれるのね?」


 狂悦きょうえつ。最も適切な言葉を探したとき、真っ先に浮かんだのはその二字だった。

 果たしてそんな日本語がこの世に存在しているのかどうかは知らない。

 されど一番しっくりくる二文字はやはりそれだ。

 未華子さんは瞬きを忘れた眼を爛々らんらんとさせて俺を見ていた。

 口もとは嬉しそうに笑っているが、にこりと細められるどころか見開かれた双眸そうぼうのせいでどうにも狂気を帯びて見える。本人はうまく笑っているつもりなのかもしれない。けれども俺は、得体の知れない寒気がした。


「ありがとう。ありがとう、優星君。歩叶もきっと喜ぶわ。たとえ中身は読まれなくたって、あなたの手もとに置いてもらえたなら、きっと……だけどひとつだけ、あらかじめ伝えておきたいことがあるの」

「な、何でしょうか……?」

「あなたたち──歩叶がうちにもらわれてきた子だってことはもう知ってる?」


 瞬間、俺たちは五感がひっくり返り、世界が暗転するような衝撃に打たれた。


 ──もらわれてきた子。


 それはつまり、たったいま眼前で目を見開いて笑っている女性と歩叶とは、血縁と呼ばれるものの上において、親子でも何でもなかったということだ。

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