あの夏、三年前の君を取り戻した奇跡について語ろう
長谷川
2017年6月9日(金)
君と初めて言葉を交わしたのは、そう、中三の梅雨の時期だった。
その日、確か俺は部活仲間の
中学最後の総体が終わり、部活を引退して間もなかった雨の金曜日。
地区大会で敗退し、さっさと引退する羽目になった寂しさと、途端に現実味を帯びて立ち現れた高校受験の四文字を振り払うかのように、俺たちはバカをやってひとしきり騒いだ。で、利用時間が終わり、さあ帰ろうというときに、望がふと思い立った様子でトイレに寄る、と言い出したのだ。
一方特に催してもいなかった俺は「じゃあ先に外出て待ってるよ」と何の気なく告げた。体育館でひとしきり汗をかいたあとで、火照った体に早く風を浴びたかったからというのも大きい。そうして望と一旦別れ、キューブの正面駐車場へと至る自動ドアを潜ったとき、俺は雨音の中にひっそりと佇む背中を見つけた。
それが、君だった。
だけど君を見つけた瞬間、最初に脳裏をよぎった言葉は、あ、
先週衣替えしたばかりの、白地に青いラインが爽やかな半袖のセーラー服。
その
「あれ……平城さん?」
だからそこにいるのが同じクラスの女子だと気づいたとき、驚いて思わず名前を呼んでしまった。口に出すつもりなんてさらさらなかったのに、何故だろう。
当時の俺は間違っても自分から女子に声をかけるような性格ではなかったから、思い返すたび不思議に思う。
けれども俺が名前を呼んだ瞬間、雨のせいでいつもより早く町を覆い始めた夕闇の中、パッと宙を舞った黒髪の軌道の美しさは、今でもはっきりと覚えている。
「あ──」
自動ドアから駐車場に向かって張り出した屋根の下、振り向いた君はたったいま目が覚めたみたいな顔で俺を見つめた。直後に訪れた数瞬の沈黙は、たぶん、君の脳内で俺の顔と名前を照合するために費やされた時間だったのだろうと思う。
その段になって俺もようやく、うっかり声をかけてしまった気まずさと気恥ずかしさが込み上げてきて、とっさに顔を背けかけた。が、俺の視線が真ん丸に見開かれた瞳から外れる寸前、薄紅色に色づいた君の唇が呼んだのだ。
「えっと……
と、ほんの少し自信がなさそうに、されど俺から目を逸らさずに。刹那、俺たちの頭上で屋根を叩く雨音が盛大な拍手に聞こえたのは、君が名前を覚えていてくれたことへの驚きと感謝と、いかにも田舎の中学男児らしい
「あ、う、うん、そう。清沢……清沢
「あ、よかった。名前、間違えてたらどうしようって、ちょっと自信なかったの」
「はは、俺も。平城さんは……今、帰り? ここで誰か待ってるの?」
「……ううん。そういうわけじゃ、ないんだけど」
君は重い湿気の中でも淀まず響く声色でそう言って、再びすうっと前を向いた。
つられて視線を向けた先には、一台の車も停まっていないがらんどうの駐車場、及びその空白を埋めるように降りしきる雨のみがある。
──あ、もしかして、とそこで俺は思い至った。
ひょっとしたら君は傘を忘れて、ここで雨宿りしているのではないか、と。
確かにその日は朝から晴れ間が覗いていて、雨の予報は夕方からだった。だからうっかり傘を忘れ、雨脚が弱まるのを待っているのかもしれない。そして奇しくも当時、俺は傘を二本持っていた。というのも生来のずぼらな性格ゆえに、俺は年がら年中学校鞄の底に折り畳み傘を忍ばせていて、しかしそれとは別に雨の日は普段使いのビニール傘も持ち歩くという、何とも奇妙な習性の持ち主だったのだ。
これはひとえに、鞄の奥深くに眠る折り畳み傘をいちいち引っ張り出すのがめんどくさいという無精が原因なのだけれども、まさかそんな理由でほったらかしていた
されどおかげで女子にいい顔ができる、と己のだらしなさを内心褒めそやしながら、俺は安いビニール傘をひょいと君に差し出した。
「あの、これ」
そうして俺が声をかけると、君は差し出された傘と俺とを交互に見やり、とても不思議そうな顔をしたのを覚えている。
「よかったら、使う? 俺、折り畳みも持ってるから」
「……あ、うん、ありがとう。でも、大丈夫。私も傘、持ってるから」
「え?」
と、そこで俺が盛大な肩透かしを食らったことは言うまでもなかった。しかしよくよく見れば確かに君の手の中には、赤地に白い花模様が描かれたレトロな風情の傘があって、それが目にとまった瞬間、俺の頬にはぼっと熱がともった。
せっかく女子の前で格好つけられると思ったのに──否、そもそも当時の俺は何故あんなに目立つ傘の存在を見落としたのか。そんな動揺と恥ずかしさが一気に押し寄せてきて、とっさに眼鏡を押さえながら、俺は「あっ、ごっ、ごめん」と謝った。自分でも情けなくなるほどに上擦った、あまりに無様な謝罪だった。
次いで俺は、よく見ると俺みたいによれよれでみすぼらしいビニール傘を引っ込めながら、言い訳をしようとしたのだと思う。てっきり雨宿りをしてるのかと思ってとか、傘を持ってるのが見えなくてとか、早口で
「どうして清沢くんが謝るの?」
と至極不思議そうに尋ねてきたものだから、俺を慌てふためかせた羞恥心や困惑といった感情は驚きに上書きされてしまった。おかげで少し冷静になれたのは大いに助かったのだけれども、
「え、あ、そ、そっか……ごめん」
と、戸惑いながら答えたんだ。すると君は、今度は目の前で奇跡でも起きたみたいな顔をして、次の瞬間には笑い出した。曇天の下でもまぶしいくらい白い指を口もとに当てながら、それはそれは
「ふふ、あははっ、清沢くん、慌てすぎ。謝らなくていいって言ってるのに」
「あ……ご、ごめん。なんかこれ、癖でさ」
「人に謝るのが?」
「うん」
「そんなに謝って回らなきゃいけないほど悪いことでもしたの?」
「い、いや……そういうわけじゃないんだけど。言われてみたら、自分でもなんでかよく分かんないや」
「そっか。じゃあ、清沢くんはきっと優しい人なんだね」
「えっ?」
「だって、自分でも理由が分からないくらい自然に謝れるって、無意識のうちに相手を傷つけたり、気まずい思いをさせたりしないようにしてるってことじゃない? そういう人って、根が優しいんだと思うなあ」
「そ……そう、かな? あんまり考えたことなかったけど……」
「あ、急に変なこと言ってごめんね。私も癖なんだ。人の気持ちとか性格をいちいち掘り下げて考えちゃうの」
「そうなの?」
「うん。私、演劇部だから。台本を読んでるときなんかも、役に入り込むために登場人物の気持ちとかすごく考えちゃって。そのせいでよく変な子だって笑われる」
「へえ。平城さん、演劇部なんだ」
「え……知らなかった?」
「あ、うん。俺、運動部だから、文化部のことはあんまり」
「……そっか。知らなかったからか」
「え?」
「ううん。こっちの話」
君は髪をそっと耳にかけながらそう言うと、嬉しそうに微笑んだ。
当時の俺には、何が君の琴線に触れたのかさっぱり分からなかったけれど。
でも、まるで太陽でも見るみたいに細められた両の瞳を見つめていたら、何だか妙に照れ臭くって、うつむく他なかった。おかげで俺は見逃した。
直後の君がどんな顔で再び前を向いたのかを。
「……うん。でも、おかげでやっと帰れそうかも」
「え?」
「ありがとう、清沢くん。じゃ、また来週」
そう言うと君はもう一度俺に微笑んで、パッと赤い傘をさした。
かと思えば呼び止める隙も与えずに、梅雨の雨の只中へと踏み出していく。
白昼夢みたいな出会いだった。以来、俺は君に興味を持った。
気がつけば教室ではつい君を目で追っていたし、運よく言葉を交わす機会に恵まれた日は、まるで雲の上でも歩いているような気分になった。
そう、要は君に恋してしまったのだ。自分でも笑えるくらい単純に。
だのに肝心なところで根性なしの俺は、告白の舞台に卒業式を選んだ。
中学を卒業したら君は地元の女子校へ、俺は男子校へ進学する。
つまり卒業式の日に告白すれば、たとえフラれてももう会うことはないわけで、それなら失恋の傷も浅くて済むだろうと思ったのだ。
まったく男らしさのかけらもない予防線だった。けれども思春期真っ盛りだった当時の俺には、ほとんど生きるか死ぬかに近い一大決心だった。
だからあの日、そっと頬を染めながら頷いてくれた君の笑顔を、俺はこの先も一生忘れないと思う。そして叶うことなら、もう一度取り戻したいと強く願う。
たったひとりで死んでしまった君を救えるのなら、俺はもう、何を失っても構わないから。
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