第3話 断罪の果て



 ――どうか、心安らかに。


 カイムはそれ以外の言葉を、エマに寄せる事が出来なかったのだろう。


 涙が止まらなかった。それも熱い涙。


 これは過ちなのだろうか。一番大切な人を悲しませてしまった。けれど、この憎しみはどうすればいいのだろう。


 胸の奥で今もなお身を焦がすようなほむらが燃えている。


 この焔を消せるものなど有りはしない。


 ――双生児を殺さない限り。


 何故あれ程の暴虐をしても、今尚生きる事を許されるのか。全てを食い尽くし、犯し穢していく。その、おぞましく美しいさまは、まさに死を総べる王。死そのものが顕現けんげんしている。それも残虐な死を。


 エマの両親は使徒に殺された。その姿は相当酷かったらしく、エマはジェイドに長い事、口をつぐまれていた。エマが十七歳になった時、事実を知らされた。両親は直ぐに死なないようなやり方で甚振いたぶられてから、食われたのだという。


 その日、エマは吐いた。真実を打ち明けたジェイドを恨みもした。それはどこにもぶつけられない怒りから来るものだった。エマでは使徒すら殺す事が出来ず、綺士や王など見る事さえ出来ないのだ。


 この怒りをどうすればいい。


 よりによって王が猟犬の棲家に現れ、エマにも手の届くところにきたのだ。襲ったのは罪だろうか。あれ程、穢れた生き物はいない。それでも許されないのか。


 分かっている。


 許されない。許されないのだ。


 エマの気持ちなど関係ない。


 全ては大義の為に。これから死に行く幾万幾億の命を救う為に。


 ――それでも私は、過ちを犯すだろう。


 エマが瞼を落としてから、どれだけの時が過ぎたか分からなくなる頃、扉がノックされた。掠れる声で返事をすると、扉が開き、エマは普通より高い位置にある顔へ薄く笑ってみせた。


 茶髪茶眼の大男が眉根を寄せてエマを心配そうに見詰めている。


「ハルヒコ、仕事はどうしたの。そんなところに立っていないで部屋に入って来たら」


 ハルヒコ・ホンダは影の猟犬ゴーストハウンドの一人だ。東洋人と西洋人のハーフだが、身長はゴーストで二番目に高くジェイドに次ぐ。その恵まれた体格で格闘技を得意としているのだが、人以外にはあまり意味が無いのが欠点だった。


 ハルヒコは促されるまま、ベッドの側に置いてある椅子に座った。ハルヒコが座ると椅子が子供用の小さな椅子に様変わりしてしまう。


「チェスカル副隊長に聞いて来たんだ。エマが医療棟にいると。理由は知っている……済まない、余計なお世話だと思ったんだが、どうしても」


「ハルヒコは相変わらず気遣い屋ね。心配してるって素直に言ってくれてもいいの。嬉しいわ。来てくれて。余計なお世話だなんて思わない……独りでいると考えてしまうの。色々な事を。とても悪い事ばかりで、押し潰されてしまいそうになる」


「俺で良ければ、いつでも側に居て話相手になる。力不足かもしれないが、居ないよりはマシだって言って貰える様になれれば。俺は何を言っているんだろうな」


「ありがとう、ハルヒコ……私、そう言ってほしかったのかもしれない、カイムに」涙が睫毛に溜まる。


 カイムはエマのものではない。カイムは組織のものなのだ。――いては王のもの。あまりにも大きな役割を負った、ノヴェクの血族、その主。エマ個人がカイムを繋ぎ止められるはずがない。分かっていながらなお、カイムを想う。


 今、側に居て欲しいと願っても、カイムはけしてエマに振り向かない。既に双生児を戴いているのだから。王以上の大事はない。それがこれ程に苦しい。


 ――憎むべき王は、大切な人の最も愛しい人になる。


 それは酷く怖気おぞけを震う。


 ハルヒコは眼を一時いっとき瞑ると、優しく微笑んだ。


「カイム様は例えエマの側に居られなくとも、いつもエマの事を想っているはずだ。誰よりも強く」


「私は自分で思っていたより、ずっと欲張りだったみたい。カイムは私を絶対に見てくれない。私とカイムの想いは重ならないの。だから永遠に満たされたりしない。王はカイムを奪って行く」


「双生児が死ねば全てが終わる。カイム様も解放されるだろう。俺は双生児を討ち滅ぼす。その為にゴーストに居るのだから。エマ、信じて待っていてくれ」


「そうしてあなたも帰って来なくなる。いつまでも待って、待ち続けて。私を独りにしてしまう。皆、死んでしまった。何一つ遺さずに居なくなって、何事もなかった様に日常が過ぎ去って、いつの間にか過去になって行く。もう、双生児には何一つ奪われたくない」


「それでも、俺は戦いたい。失いたくないから戦うんだ。それ以外、道はない」


「ごめんなさい、私、もう疲れたの。眠らせて」


 ハルヒコは振り返りつつも部屋を去った。


 失わない為に戦う。そして、失われて行くのだ。


 何度も繰り返される言葉は呪詛のようにエマを蝕んでいた。堂々巡りの思考に溺れ、エマは虚空に手を伸ばすと、唇に冷ややかな感触を思い出して指でなぞってみた。


 まるで死者とくちづけを交わしたかのような冴え冴えとした感慨。


 死の王。


 ヨルムンガンド――ヘルレイア。


 ヘルレアはエマよりも背が低くて、寄り掛かった身体は華奢で幼いとさえ言ってよかった。それなのに抱える力は強く、けして揺らぐ事はなかった。それは死でありながら、同時に確かな生でもあった。あまりにも苛烈で、抗う事が難しい生。何者にも侵されない生命。


 まなじりから大粒の涙が重みを持って溢れ落ち、嗚咽を誘った。


 エマの刃など通りはしないのだ。


 憎しみも痛みも、全て王に対しては無力で何の意味のないものでしかない。エマなど取るに足りない、何の価値のない人間だ。だからこそカイムに求められた事はないし、これからもそれはないのだ。





「東占領区へは二度と行くな」


 ヘルレアの強い声に室内は静まり返った。カイムが東占領区への進行に付いての話を、切り出して直ぐの事だった。


「戦力差に付いては、結局、王頼りですが、関係筋は僕達で調査可能です。東占領区に入らずともクシエルの動向はある程度ですが探れます。ステルスハウンドの諜報員は優秀ですから。上手く行けば巣にまで辿り着けるかもしれません」


「違う。あれは堕綺羅ダキラかもしれない」


 ヘルレアがその言葉を口に出した瞬間、部屋に居る全員が息を呑んだ。それは王の口から聞くには、あまりにも禁忌に等しい言葉だったからだ。


 カイムとチェスカルが逡巡する中、ジェイドがヘルレアへ歩み寄る。


「馬鹿な。そんなものが……もし本当に堕綺羅ならば数百年振りの凶事だぞ」


「私自身、信じられない。だが、あの時事故車の近くで、綺士が頭をもがれて殺されていただろう。綺士に対して、あの殺し方が出来るのは双生児か同じ綺士だけだ。そして、あの綺士は、死んで数十時間以上経ってなおも、綺士としての原型を留め続けて、その上で人間に戻っていなかった可能性が高い。それが、どういう事か分かるはず」


 綺士及び使徒は、死んだ瞬間から人へと戻って行く。完全に人の姿に戻るのには個体差があるものの、動かしようのない絶対的な真理であった。しかし、王自らの手によって真理から逸脱させられる綺士がいる。


 死してなお、人には戻れない――。


 それは綺士が、王に最大級の罪を犯した証だった。


 ジェイドが渋い顔で腕を組んでいる。その姿には僅かな焦りが滲み出ていた。思案顔でヘルレアを見据えた。


「しかし、それはまだ、ただの憶測に過ぎないのだろう。正確な死亡時刻などは王にも分からないはずだ。そもそも綺士殺しも堕綺羅が理由だとは限らない。王に命じられて、綺士同士で殺し合ったのかもしれない……それも異常だが。その方が堕綺羅よりも可能性が高い」


「成功を急ぐあまり危機的な可能性を無視して、お前は堕綺羅の道連れになる気か。東占領区の状況は普通ではなかった。ジェイドは爆散された現場をその目で見た筈だ。はっきりと言おう、あれは偽巣ぎそうの滅殺痕だ。あれは手始めにしか過ぎない。クシエルがどこまで堕綺羅の罪を責め立てるか分からないが、堕綺羅のつがいになった血族縁者は確実に根絶やしにされるだろう」


 ――堕綺羅。


 それは王に背いた綺士に下だされる烙印。


 綺士は王へと忠誠を誓う。王命に背かず、全身全霊を捧げる、と。人と綺士、ニ形を授けられたその時に、盟約を結ぶ。


 綺士には最大の禁忌がある。王に付き従うべき綺士が背反して、王の様に振る舞い、営巣の真似をする事だ。それを偽巣という。偽巣を営む綺士は、それ以降堕綺羅と呼ばれる。


 堕綺羅は王に知られた瞬間から、最も優先するべき抹殺対象とされ、偽巣のある土地は包囲される。


「今ならまだ、僕達に救えませんか。他の組織に協力を仰いで――あるいは連合軍に願い出て。堕綺羅の罪から人々を断ち切れないのですか」


「それはヨルムンガンドを殺すという意味か。既に分かっているはずだ。お前達にヤツを殺すことはできない。だいたい、連合軍だと? 先代を忘れたというのか。爆撃で殺し損ねた代償は如何ほどだった。どういう経緯で生まれた連合軍だと思っている。あいつらが動くわけがないだろう」


「現実が見えていませんでした。連合軍は有ってないようなものですね」


「私はクシエルと戦ってみて実感した。いくら人間の技術が発達しようとも、人間がヨルムンガンドを殺すことは


「できない、ではなく、許されない、か……」


 カイムは顔を拭う。


「先代の王、レグザイア――レグザは当時の人間が持ち得る力の限界を、軽々と踏み越えていきました。そして、報復の傷は今なお深く残されています。

 現在においてヨルムンガンドは国家不可触とされ完全に忌まれているのです。

 それ故に、僕達のような古き組織が重武装を暗黙のうちに許されました。これが我が組織の近代に至る認識です。

 そして、僕達とて当時から足踏みしているわけではありません。十分とは言えませんが、猟犬の一般兵でも使徒を殺せるだけの力を手に入れました。だから、信じたのです。綺士を殺せると。王にすら手が届くと。

 ですが、これは馬鹿げた夢物語だったのです。僕達は王へ一歩も近付いてさえいませんでした」


「悪夢のなかで見る夢物語も、所詮は悪夢に過ぎなかったというわけだ。ヘルレアがクシエルに出会った瞬間、俺達の夢は覚めた」


「本当に堕綺羅ならば、これから時化しけが起こる。そうすればいずれ白黒はっきりする。人は近付くことさえまともにできなくなるだろう――東占領区で病が流行るのはそう遠くない」


「東占領区の動向を監視し続けます」


「時化の瘴気は土地を穢し大気を穢す。人は穢れに当てられればいずれ使徒になる。堕綺羅断罪の土地で起こる時化は、自然発生的な時化と比べ物にならない程穢れが強く範囲も広い。だからたとえ私が成熟した王で、断罪にさえ対抗出来る力を持っていたとしても、堕綺羅への制裁には関わらないだろう。それだけ時化は厄介なんだ。一度穢れれば落とすのは困難だという。後々災厄を招くのは明らかだ」


 今まで控えていたチェスカルは、うつむいていた。


「……無力ですね。王や綺士による意思の介在する死に、時化による自然発生的な使徒がもたらす死。逃げ惑う人々を思えど、我々が関われば関わるほど使徒を増やしていくという悪循環」


 いつの間にか部屋は色を失い、暗く重たい空気に包まれていた。カイムは言うべき言葉が見付からず、ただただ平然と話を続けるヘルレアを見ているしかない。


 ヘルレアは凜とした様子そのまま、机に着くカイムへ目線を下げて来た。ヘルレアとほとんど見合う形になると、青い瞳が無感動に開かれているのが見えた。


「堕綺羅と偽巣を葬ったと推測すると、これからクシエルは総力でもって殺しにかかる。ヤツ自らが殲滅に手を下す以上、終わりにそう時はかからない」


「分かりました……ステルスハウンドの役割は終わったのです。もう東占領区に関わる事はありません。――捨て置きましょう」


 カイムは拳を握り込む。


 これはステルスハウンドの罪であり、同時に決断を下したカイムの罪だ。対双生児組織としてありながら、双生児による災禍である堕綺羅への断罪に人々が巻き込まれて、殺されて行くのを黙認したのだ。


 しかし、カイムは守らねばならないのだ。組織を、組員を、親しい人々を、いてはヘルレアを。


 人は平等ではないと言う。カイムに取ってもそれは同じで、それはあまりにも明確で、残酷に突き付けられた現実だ。


 ヘルレアはカイムの額を指で弾いた。ヘルレアの顔には何も浮かんでいなかったが、何となく苦く笑みを返すと、王は鼻で笑った。


「カイム、自分の言葉で自分自身を傷付けることはない。背負わなければならないのは、お前だけではないだろう。一人で背負ってる気になって格好つけるな」


 カイムはヘルレアの氷のような容貌にどこか気遣う色を見て、王の奇妙なを密やかに微笑む。


 ジェイドは勢いに任せ、大股を広げ床に座り込んだ。


「あのカップケーキを出してくれたご老人達も、堕綺羅の犯した罪によって、罰を受けるのだろうか」


 ヘルレアは何も言わなかった。


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