2章 猟犬の掟

プロローグ2

 *



「違う、俺は……」


 彼女はその大きな声に怯えた。


 寝室のベッドで毛布にくるまり、彼女は息を呑んで再び声が上がるのを待った。だが、いくら待っても次ぐ男の声は聞こえなかった。


 窓には厚いカーテンが掛かっていて外は見えない。父親と母親に絶対に外へ出てはいけないし、見てもいけないと言い含められていた。


 ぐっと唇を噛んで耳を塞ぐ。


 ――何もない。何も起こっていない。


 彼女は涙ぐんで毛布を頭まで被った。


 高く澄んだ音がした。ベルの音が聞こえる。玄関が開いたのだ。


 心臓が痛い程、締め付けられた。彼女は毛布から顔を出し周囲を覗った。暗闇の中、薄っすらと見慣れた自分の部屋が見えた。彼女は毛布を被ったままベッドを下りると、兄が起き出して来て彼女と手を繋いだ。僅かに扉を開ける。二人は廊下を覗き込むと、玄関口付近――自分達からは奥まった場所にある居間――その扉から微かに漏れ出る光へ向かう事にした。


 廊下には夜間照明が灯っている。彼女達は絨毯敷きの廊下を密やかに歩いた。


 何か言い合う声が聞こえる。父親と母親が喧嘩をしているようだった。彼女は足音を立てないように、慎重に声のする部屋へ向かった。


 居間への扉は閉ざし切っていない。彼女は気付かれないように扉をそっと覗いてみる。


「どうしてあなたがこのような事をしなければならないの」


「仕方がないだろう。俺はこの村の人間だ。一人だけ隠れている事など出来はしない」


「でも、こんなの酷過ぎる」


 母親が泣いている。彼は母親の肩に手を置いている父親を見た。服が血にまみれている。彼女達は見てはいけないものを見てしまったと、急いで部屋に戻りベッドに丸くなる。


「お兄ちゃん、何が起こっているのかな?」


「大丈夫だ、気にするな」


 兄が彼女の元へ来ると、頭を撫でてくれる。彼女がもっと小さかった頃の事を思い出した。


「いいか、僕達はまだ子供でしかない。大人の言葉に従って護られるしかないんだ。でもね、もし、誰も信じられなくなったら、自分の命を一番に考えるんだ。父さんでも、母さんでも、兄ちゃんでもない。いいね?」


「お兄ちゃん?」


「さあ、もうおやすみ。明日起きられなくなるよ」


 兄が彼女へ掛け布団を掛けてくれる。彼女が手を差し出すと、兄が握り返してくれる。その手は、暖かく優しい。それでも、兄が手を離すと、彼女の心臓は握り潰されそうなくらい痛かった。


 彼女は眠れるように祈った。祈って、祈って、それでも、その祈りは彼女の信じる神には届かなかった。


 部屋がほんのり明るくなり、朝になった。彼女は兄に起こされて、着替えをすると、手をつないで廊下を歩く。彼女は本当に小さな子供のようになった心持ちがしていた。


 しかし、実際のところ彼女はで思う程、大きくはなかったし、この兄と手を繋ぐ二人の姿というのは、傍から見れば可愛らしいものであった――。


 昨晩のように、居間への扉をゆっくり開いて中を見る。母親が忙しくテーブルとキッチンを行き来していた。昨日と同じ様子は微塵もなかった。


 あれは夢だったのではないかと思い始めた。酷い悪夢だ。


「お母さん、おはよう」


「二人共、おはよう。今日はねぼすけさんじゃなくて偉いわね」


「妹の面倒くらいはもう見られるさ」


「はいはい、さあ、朝ご飯よ。座って」


「……お父さんは?」彼女は精一杯不安の色を隠した。


「お父さんは会長さんの用事で出てるから、気にしないで食べちゃいなさい」


 彼女は自分の体が固くなるのが分かった。兄の手を強く握る。兄が握り占めた手の上からぽんぽんと手を叩いた。


 彼女の顔を見て頷くと、食卓の席へと座らせた。





 彼女がもう少し小さな頃、ある本を読んでもらった事がある。


 神様は悪者を罰する為に、人間を食べてしまうのだという。善良な者は赦し、食べずに見逃してくれる。それを今、総ての人間が順番を待っているさなかにあるのだという。


 何をしたら悪者なのか。何をしたら赦されるのか。それとも、一度犯した罪は赦されることがないのか――。


 その絵本は既に本棚にはなかった。


 兄が床で本を読んでいる。彼女は兄をただ見ていた。


 ――父も母も兄も、罰せられるような罪は犯していない。大丈夫、大丈夫なはず。


 彼女はじっとそればかり考えていた。それ以上考え事が進まず、堂々巡りしていた。恐ろしかったのだ。家族が食べられてしまうことが。


 ――神様に?


 違う、本は嘘だ。


 神様などいない。でも、悪魔はいる。この村に悪魔が入り込んだのはいつからだろう。


 本当のところ、彼女は知っているのだ。でも、見ない振りをしていた。分かっている。自分を誤魔化し続けていた。


 人が入れ替わる。それは何の前触れもなく、ごく当たり前のように違うモノへ変わっていく。


 そして、大人は彼女を何も分からない子供だと思って、誤魔化しきれると考えている。


 ――でも、それは本当に?


 全ては嘘に塗れている。実際のところ大人は、子供でしかない彼女も、既に異常の片鱗に気付いていると知っている。


 ――この村の誰もが嘘つきだ。


 痛い程、分かっている。


 嘘をつかずにはいられなかったのだ。


 それは、彼女と同じように誰もが恐れているからに他ならなかった。


 異常を感じ始めた頃、村人が助けを求め村を離れた事を知っている。けれど、誰一人助けを連れて来ることもなく、その本人すら帰って来ることも無かった。


 ただ単に逃げたのだと思いたい。でもそれはあまりに都合が良すぎる考えでしかなかった。


 村を離れたその人は家族を置いて、年若い妻と乳飲み子を置いて、一人逃げてしまったというのだろうか。





 昼近くなる頃になっても父親は帰って来なかった。そのまま日は刻々と傾き、没する頃に玄関の扉が開いた。


「お帰りなさい、お父さん」


「……ただいま、いい子にしてたか」


 父親は、彼女と兄の手を取り居間へと行く。居間では母親が夕食の支度を終えていた。父親が彼女を食卓の席へ座らせると、兄も席へ導いた。


 父親は食卓へ着く。


 彼女は食前のお祈りを父親が始めるのを待った。しかし、待っても一向に父親はお祈りを始めなかった。


 兄が父親を見る。


「父さん、お祈りはしないの?」


「ああ、そうだね。今日は母さんにしてもらおうか」


「そう、分かりました」母親はいつものお祈りを淀みなくすると、食事が始まった。


 だが、父親だけは食事を始めない。


 父親の様子がおかしい。彼女は気づかれないようにしつつ、父親から視線を外さなかった。三人が食事をする姿を一心に見ている。


「今日は何をしていたんだい?」


「二人で本を読んでいたよ」


「そうか、いい子にしていたね……母さんの料理は美味しいな」父親は一口も食べてはいなかった。


 彼女はいつの間にか、掻き込むように食事をしていた。父親を、周りを見ることを止めていた。自分の食事を素早く終えると、兄の様子に集中した。


 食事を終えたら直ぐに部屋へ戻ろう。ここに居てはいけない。何かが起こっている。


 兄は彼女が食事を終えるのを見計らったように、彼女の手を引いて部屋から連れ出した。就寝の時間には大分早いものの、兄は彼女に寝る支度を促した。彼女は何も言わず兄に従う。


 彼女には、それが兄のできる精一杯の日常を守る行動のように見えた。


 兄は子供部屋の鍵を閉めた。


「お兄ちゃん、一緒に寝てくれる?」兄の裾を握り締める。


 彼女は泣きそうになっていた。二人は分かっていたのだ。もう既に、兄妹は自分の置かれた異常事態に気づかない年頃ではなかった。兄は彼女を静かに抱きしめた。


「ごめんな、守ってやれなくて。ここから連れ出してやる事も出来ない……」


 二人は一つのベッドに入る。眠れそうもなく、ただ時計の音だけが部屋に動きを添えていた。その音がなければ、おそらく時間すら止まっているような気になっただろう。父親と母親が立てる物音を、ベッドに入って一度も聞く事がなかった。いつもならついつい漏れる笑い声が聞こえる時間だ。あまりに静かに過ぎる。


 彼女はいつの間にとしていた。兄と手をつないで一緒にいる安心感ですっかり緊張が緩んでいた。


 兄が彼女を揺すっている。


「……起きるんだ」


「どうしたの、お兄ちゃん?」


「誰かがノックしてる」


 彼女は飛び起きて、扉を見る。


 誰かが静かに扉を叩いている。兄は立ち上がると、叩かれ続ける扉の前に行った。あまりに密やかで優しいノックだからか兄はノブを握る。


「誰? 父さん? それとも、母さん?」


「大事なお話があるの。開けてくれるかしら」


「母さん……? 僕、眠いからこのまま聞くよ」


「分かったわ。いい、静かにしていてね。お兄ちゃん、もう近頃の異変に気付いていたでしょう。今日帰って来たあれは、父さんではないわ」


「え、母さんも変だと思ったの?」


「そう、母さん分かったの。今から一緒に逃げましょう」


「逃げる……」


 彼女の背後からノックの音が聞こえる。窓硝子を優しく叩いている。


「お兄ちゃん、誰かが窓を叩いてる」


「……二人共、無事か」


「父さん……」兄は窓へ振り返る。


 彼女がカーテンを引いた。


 夜闇の中、父親が窓の外に立っていた。暗くてその表情は分からない。


「いいかい、話をよく聞くんだ。もう、この村は駄目だ。逃げなければ」


「お、お兄ちゃん。どうすればいいの」


 兄は扉の前に居る母親へ聞こえないようにするためか、なるべく窓へ近づいて喋る。


「父さん、母さんはどうしたの?」


「母さんは先に家を出て、他の人と一緒に待ってる。安心して来なさい」


 父親は母親が無事だといい、母親は父親がおかしいと言う。


 彼女は判断を間違えばどうなるかもう分かっている。


 そもそも悪魔ならば何故、無理矢理にでも部屋へ入って来ないのだろうか。何も二人を起こす手間を掛ける必要は無いはずだ。何故か、両親は未だ静かに子供部屋の外で待っている。でもこれは大人が普通の行動を取っているだけだ。我が子の子供部屋へ乱入する意味不明な行動を取っているわけでもないのだ。何もおかしいところはない、両親の言っていることがおかしい以外――。


 もし、二人が悪魔なら騒ぎになるのを恐れている?


 それとも実のところ、本物の両親が何らかの勘違いをしていて、騒ぎ立てる必要がないから?


 これには訳あって父親は母親に、母親は父親に、互いの行動を知られたくない故の密やかな行動なのだろうか。


 本当は悪魔などいなくて、全てが齟齬を起こして奇妙な状況に陥っているだけとしたら――。


 そんなに都合のいいことが起こるものだろうか。


 悪魔の実態は誰も知らない。もしこれが、悪魔の手口だとして、こうして誰も気づかない間に連れ出して食っているとしたら、騒ぎを起こしたくないのも分かる。


 こうして一人一人いなくなるのだ。


 だから誰も悪魔を見たことがない。


 手のひらがびっしょりと汗をかいていた。


 今は既に、人であろうが悪魔であろうが騒ぎを起こしたくない状況なのだ。


 ――誰も信用ならない。


 彼女は深呼吸を一つしてから兄の手を握る。すると兄は、彼女の手をしっかり握り返して、優しく微笑んだ。


「リデラ、何があっても兄ちゃんを信じてくれるか?」


 彼女は兄を見上げ、静かに頷いた。


「お兄ちゃん、ずっと一緒だよ」

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