第19話 北への兆し
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「本当に行くのかい。まだ居てくれてもこちらは構わないんだよ」
「これ以上、一緒にいると別れが寂しくなりますから」ヘルレアはざくりと新雪を踏んだ。
吹雪はまだ完全には収まっていないものの、少しだけ和らいだ横降りな雪の中、玄関先でヘルレアは老夫婦と別れを名残惜しんでいた。ジェイドはヘルレアのそういった健気な姿を見慣れつつあった。こちらが本当の王で、尊大な王は幻だったのではないかと思えるくらい違和感がないのだ。双生児の皆が皆、真実にこれだけ穏やかな振る舞いをする生き物だといいのだが、所詮、これは偽物にしか過ぎず、人を騙すための演技をしたヘルレアだ。
化けの皮が剥がれれば何が出るか――。
ヘルレアは老夫婦と握手を交わすとジェイドを振り返り、行くぞ、と老夫婦に聞こえない様にぽつりと言った。
村の外れまで少し来ただけで、厚く積もった雪で足を取られて重かった。雪は一夜でかなり降り積もり、方向感覚を狂わせるが、王は全く迷う様子はなく正確に北へ向かっているのだ。ジェイドはたまに機器を使って移動方向の確認を行っているが、王が方角を変えた事は一度もなかった。つまりその気配は同じ地点から動いていないという証だ。
王が出るか、綺士が出るか、まだ曖昧な状態にあるがどちらにしろ、いつにない程確信へ迫っているのは間違いなかった。
「本当に別れを惜しんでいる様に見えたから驚いた」
「ちょっとした礼に、夢をみせただけだ。別段、気にする様な事でも奇異に思う事もあるまい」
「奇異に思うな、とは無理な事を言う。王がこれほど他者に寄り添う方法で、人の心を掴むとは思わなかった」
「侮るな。知性が伴えばそれに相応しい行動を取れるものだ。無駄を増やさないように動いただけだ」
「ならば、片王はどうなんだろうな。あれもお前の様に老夫婦と手を取り合う事が出来るのか?」
「私は、私だ。
「俺は素直に殺されるつもりはないぞ。いざとなったら道連れにしてやる。ただでは死なん」
「お前の主人は私を生かそうとしていたぞ。猟犬共も一枚岩とはいかないようだとみえる。柔な連中だ。それで王を頂点として、絶対服従の綺士が連なる化け物どもを倒せるのか?」
「化け物どもの代表たる王自身に、心配される程、ステルスハウンドは脆くない。俺達の組織は既に何百年も続いている。これからも在り続ける。双生児がいる限り」
「何百年とは、どれだけ屍を積み上げて来たんだろうね。お前達の主人こそ骸の玉座で、血を啜る化け物ではないか。あのカイム自身こそ、いか程に同類を虐殺して来たか」
「知ったような口を利くな。お前にカイムの何が分かるというんだ。死体を積み上げる事に何も感じない爬虫類どもが人間の何を知っている」
「いかに取り繕うとも人間とて所詮、獣よ。同族を喰らい合い、身の内を滅ぼす姿を楽しみにしているぞ」
「人はそれ程、愚かではないと俺は信じている。だからこそ、ステルスハウンドは存在するんだ」
「身内
ジェイドは黙り込んだ。自分の中に絶対とするものがあり、曲げられない何かがあるが故に、過ちを犯す。過去、身に覚えがあるだけ胸に痛い。昔と同じ過ちは繰り返さないと常に思い続けていても、どうしようもなく同じ轍へはまり込んで、軌道を変えられなくなる時は来るかもしれない。そんな時に指標となるのがステルスハウンドの――猟犬の主人、カイムの役目でもあるが、その主人こそが道を踏み外す時が来るとしたら。誰がその歯止めとなるのか。
二人は村を出て、森へと入った。一晩、申し分なく整えられた床で休んだジェイドは、確実に体力も気力も回復していて、ヘルレアの早い足運びにも着いて行けている。吹雪は変わらずジェイドを消耗させるが、ヘルレアという先を歩く目印が正確にあるだけ、歩く事に集中出来て森をなんとか進んで行けた。
真っ白に覆い隠された森は、同じところを歩いているのではないかと何度となく錯覚させる。枝葉の向こうに透ける空は重い鉛色で、それすら雪に掻き消され掛けている。陽光はほとんど意味をなさず、雪に閉ざされた森は薄暗く吹雪く音だけが耳元を嬲り続けた。
ジェイド達は昨日と変わらず黙々と森を歩いていた。ジェイドには雪が吹き荒ぶ森の中を、元気にお喋りして歩ける程、無分別な体力を持っていない。ヘルレアも別段、口を利くこともなく前を行く。そうして、機械的に足を動かし続けていると、刻々と日差しは僅かながらに変化し、午後に差し掛かろうとしていた。
前を歩いていたヘルレアがジェイドを大きな一つ手振りで招いた。ジェイドは少しだけ早足で近寄ると、王の背後に岩が張り出している場所があり、雪が積もる事なく根や岩が露出していた。
「少し休むぞ……気配に動きはないから案ずるな」
「王一人で動いた方が、何においても捗るな」
「約束を忘れたか? 雑魚どもはお前達猟犬に任せると言った事を。私がいくら王と呼ばれる存在でも、相手に数があれば厄介な事に変わりはない。その何百年と続くという猟犬の血を示せ」
ジェイドはそこいらにある張り出した木の根に座り、両手を擦り合わせた。王といえば岩が屋根になって直接雪が吹き荒ばないが、雪が積もっている場所に平気で胡座をかいて座り込んでいる。
「何もそのような場所に座らんでも」
「何がおかしい?」
ヘルレアは本気で、ジェイドが言っている意味が分からないようだった。王は人間基準に考えると体温自体がデタラメだ。外気と体温が同じだと言うのだから、雪に触れたところで冷たさを感じないし、雪自体が王に触れて溶ける事もないから、濡れるという心配がない。なので、いくらでも雪の上に座れると寸法なのだろう。
ジェイドは常識外れの王に頭を抱えた。数日前ヘルレアに触れた時は単に冷たいと思っただけだが、実際その影響と行動をみてみると、分かってはいたが、人外甚だしい。ヘルレアは今もジェイドの言葉を気にせず雪に埋もれるように座っている。
「よく人間社会で生きてこられたな」
「なんだ、改まって。私はこの年まで全ての時を人間に紛れて暮らして来た」
「王の周りは鈍い奴ばかりだったのか。さぞかし居心地が良かっただろう。
ヘルレアは哀しげに微笑んだ――ジェイドにはそう感じられた。だが、その色は直ぐに儚く消えてしまい、彼は見間違いではなかったのかと、ヘルレアの顔を見詰めてしまう。ジェイドはヘルレアから目が離せなくなっていた事に気付き、目を逸らした。
王の、その表情は老夫婦に対してしたような演技ではないと、直感で察した。
――王にも過去はあるのだ。
その当たり前の現実にジェイドの気持ちが付いていかない。人間社会に馴染んでいたとしたら、親しくなった人間もいただろう。何より人へ対する優しさを示していただろう事実がやるせなかった。
これはジェイドのエゴだ。
「……戻れるものなら戻りたいと思っているよ。ただそれには大きな代償を払わなければならない」
これは、ジェイドへの言葉ではない。ここには居ない誰かを思い、口にした
「お前を迎い入れる人間がいるというのか?」
「逆に聞こう。ジェイドはそれを本当に聞きたいのか。怪物の王たる私から人間との馴れ合いを聞き出して、それで好奇心を満たして意味はあるのか」
「何を聞いたところで俺に取って王は、殺戮と破壊の使者である事に変わりはない。それは永遠に、だ。どのような話をされても変わるはずもない。意味というなら、ただ人へ慈悲を与える姿を知れば知る程、憎しみが募るというだけだ」
「私に取って喜ばしい話ではないな。好かれたいとは思わないが、最低限一緒に歩けるくらいでないと、これ以上進めなくなる」
「安心しろ。公私混同はしない。いつかは銃口を向ける時が来るが、それは今ではない」
カイムの思惑は十分に承知しているつもりだ。即ちジェイドの短慮は主人に背く行為に他ならない。いずれヘルレアを敵として排除する時が来たとしても、それはステルスハウンドの、それもカイムの意志でなくてはならない。利用出来るのなら双生児さえ利用していかなければ、この戦争は立ち行かないのだ。
ヘルレアは人間を脆いといった。ならばその弱さ故の戦い方をしなくてはならない。
「先程の道連れにしてやるとの、勢いはどうした」
「言葉の綾だ。よもや本気にしているのではあるまいな」
王はくつくつと笑った。
「そういう事にしておこう」
日が中天を過ぎた頃、吹雪もかなり和らいで視界が広くなり、樹木の先まで見通しが利くようになった。これでかなり円滑に事が運ぶようにジェイドには思われた。
「天候が回復して来たな。足元が悪い事には変わりはないが、これで少しは歩き易くなるだろう」
「図体のデカいお前を、おぶらなくてすみそうで私も良かったよ」王は悪戯っぽく笑う。
「その節は世話になった。あまりにも乱暴に運ぶから、身体中が痛くなったけどな」ジェイドはあまり有り難くなさそうな口調で、呟いた。
「馬鹿話してないで、そろそろ動くぞ」
王は立ち上がると尻を叩いて雪を落とした。ジェイドも王に続くと岩の庇から歩き出した。
風も穏やかになり、獣の唸り声に等しかった重たい音も、紗を切り裂くような薄く軽いものに変わっていた。風が柔らかい分、身体の冷え方がまるで違い、切り刻まれるような痛みがなくなっていた。
ジェイドが王の背後を歩いていると、王は何の脈絡もなく立ち止まってぶつかりそうになった。
「どうした。急に立ち止まったりして……」
「静かに」王は目を瞑り動かなくなってしまった。
ジェイドはしばらく王の言う通り黙っていると。風の中に混じって重低音が間延びした音が微かに聞こえて来た。何か言おうとした時、ヘルレアは振り返ってジェイドの顔を見つめた。王の青い瞳は淡く微光を灯して、爛々としている。ジェイドは息を飲んだ。何か危険な事が起ころうとしている。
王にばかり気を取られていると、周囲からどこからともなく風に運ばれて耳に届いて来たのが、はっきりとした雄叫びのような声である事が分かった。
牛の鳴き声を更に低くしたような、腹に響く遠吠えが空気を震わせ始めた。
「おそらく、綺士だ」
「おそらくとは、どういう……」
「私も、初めて出会うんだよ」
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