第8話 凍て付いた足跡
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ジェイドが、ふっと、ヘルレアを見ると、猟犬共から一人離れて佇んでいた。
ヘルレアが暮れに差し掛かる北の空を、無言で一心に眺めている。ジェイドが側へ行っても何の反応もせず、静止している。
青く澄んだ泉のような瞳が、あてどもない空の一点を注視していた。その空はどこまでも重い雲が垂れ込め、薄墨を刷いたような色合いをしている。この土地では快晴になることは稀で常に
空を写し取ったかのような運河の水面も暗く、静かに揺れていた。
「王の気配が見えるのか?」
ジェイドは何も見えないと分かっていながら、眼を細めてヘルレアと同じ場所を見続ける。
「近づけば近づく程、王の気配は明確になっていくものだ。確かにあちらで力を行使した気配を感じる。でも、それは綺士かもしれない。あまりにも距離が遠すぎるので判断が難しい」
「綺士でも見つかれば王の力を削ぐことになる。それは、それで構わん」
オルスタッド達が訪れているはずの発展途上国エリストニア。ジェイド達はまずその地に降り立った。二班六人という最小限の人員が任務に当たり、ジェイドのいる班にヘルレアが組み込まれている。二班は国内を別々に探索することが最も効率的と考え、チェスカルを長とする班とは別行動となっている。
ジェイドの部下である班員のエルドは、電子端末の地図を手に、アパートを指差すと、端末を見ながら頷く。
「この場所が蛇が出没した場所で間違いないです」
三階建てのアパートは運河に向かい合い建っている。築年数がかなり経過しており、雨垂れの跡が幾つも下がっている。蛇を掃討したという協会員との待ち合わせ場所も、このアパートであった。
正面玄関には立ち入り禁止のテープが貼られてあるものの、周囲は掃き清められ、植木も剪定されており手入れはそれなりにしているようだ。
正面玄関には誰も居らず、アパート周辺は静まり返ってる。
ヘルレアはテープを切って、ジェイド達を横切り、構うことなくアパートへ入ってしまい、仕方なくジェイドはその背中を追った。
建物の中は外観よりも小綺麗にしているが、どこか暗さが残っており古さを隠し切れないでいる。
ヘルレアは目的の場所が分かっているのか、誰に問い掛けることなく廊下を進んで行く。アパートにはエレベーターがなく三階まで徒歩で上がって行った。三階の階段ホールまで上りきると、直ぐに異常の痕跡が見て取れた。壁の漆喰が抉られ、あちらこちらが崩れたり亀裂が入っている。床は穴が空き階下床が見えている所もある。
「随分と暴れ回ったようだ」ジェイドは壁の崩れた漆喰に触れる。
「けれど、よくこれで済んだとも言えるでしょう」班員であるユニス・カロルが穴から階下を覗いている。
ユニスは金髪碧眼で、その上柔い髪質の綺麗な巻毛だった。個々の特徴を言葉であげつらうと、王子様風なのだが、こちらもやはりエルドと同じで体格が良くゴリゴリ過ぎて、女子職員に残念がられている。
ヘルレアは先に進むと、部屋の前に止まった。その部屋は扉がひしゃげ特に破壊が酷かった。
「くだらないことをしていないで、早く出て来い」ヘルレアは声を張り上げた。
ジェイドは慌てて銃を構え周囲を警戒する。階段ホールから一人の男が顔を出した。気配を全く感じなかった。
「随分とキツいお嬢ちゃんだ。あんた等がステルスハウンド? 子供連れとは驚いた」
男は強いパーマを当てているようで、焦茶の髪は取っ散らかっている。その顔は皮肉げに笑っている。長身で細身のその男は壁に寄り掛かり、気取ったように足を組んだ。
「もう少し気配を上手く隠すことだな。ジェイド、お前も連れの人数が多いからと行って、状況把握をおざなりにし過ぎだ」
男は面食らっている。
「それはそのジェイドさんという人に酷でしょう。俺は気配を隠すのが商売みたいなものだ。お嬢ちゃんの方がどうかしている」
「なら、同業者にしては頼りないものだな。生業と言うには粗雑に過ぎる」
男は不機嫌そうに舌を鳴らした。
「同業者かよ。猟犬が普通の子供を連れているわけもないか」
王と言いかけたジェイドは協会の男がいる事で思い直し、一応ヘルレアと呼んだ。ヘルレアの名前が既に浸透してしまっていたら意味はないし、そもそも王の顔立ちが尋常ではないので、ヨルムンガンドと知られてしまいかねないが。
「同業者とはどう言う意味だ」
意味はそのままのようだが改めて慎重に問い掛けてみる。
「私も協会員と言う事だ」
ジェイドは絶句した。王はかつて幼い頃に協会に捕らえられ、教化させられたのだと聞いている。自由になった現在は協会の一、人員として動く事があるというのだ。ここまで協会はヘルレアに変化をもたらしたのか。殺戮と破壊の権化という認識しかジェイドにはない。それは組織の一員として社会生活に溶け込んでいたという事に他ならない。
「俺はアッシュ・エニロイだ。一応、よろしく。空気も悪くなった所で、ひとまずちゃっちゃと説明しちゃいましょうかね」
数日前、突如異形が暴れていると民間から協会に連絡が入った。当初、魔獣や妖獣の類とされ、協会員である男が派遣されたのだという。実際急行してみればその性状から、最も質の悪い“蛇”で男も困惑したらしい。初めて立ち会うので倒せるかどうか分からなかったが、それと認識した時点で逃げるに逃げられない状況になっていたという。一体だったのでなんとか倒せたものの、自分の力量ではそれが限界だったのだと。
「酷いものだった。俺は獣系専門で狩りをしているんだが、まるで比べ物にならない。使徒の知能は獣よりは高く、身体機能は妖獣を上回る。魔獣の最高位とは言わないが、それに類する能力はあった。幸い時節が俺の見方をしたからいいものの、一つ間違えば今頃骸になって転がっている所だ」
ヘルレアはこの男を頼りないと言ったものだが、力量を図るならかなり上位にはいる部類だ。初めて出会った蛇と戦い倒した上、無傷のように見て取れる。ヘルレアを基準としたらどんな猛者でも人間程度では叶うわけがない。王はそれを分かっているのかいないのか不明だ。
「残念だがオルスタッドとかいう、男は訪ねて来ていない」
「妙な事だな。オルスタッド達は久々に出て来た蛇を調べるために来たというのに、いったい何をしていたんだ」
「蛇一匹よりも重大な事柄に出会ったのかもしれない」ヘルレアはさっさと階段を下って行った。
「力になれなくて悪いな」
協会員の男と別れてジェイド達はアパートの正面玄関に来ていた。
「やはり西アルケニアか東占領区に入国するしかないか。王の判断に任せることになる。オルスタッド達の救出が最優先事項だが、場合によってそれは変更を余儀なくされることを留意してくれ」
「私は東占領区に行くべきだと思う。東占領区は自治区と名のつく独裁地域と言われ長年閉鎖的な状態にある。奴が隠れ蓑にするには最適な場所と言えるだろう」
「王、あなただったらそうするのか?」ユニスが眉を
「止めるんだ。お前はカイムの何を見て来た」
ユニスはジェイドの叱責に俯いた。
班全体が苛ついている。ヘルレアの存在は戦闘員としては申し分ないどころではないが、班に同行する者としては最悪だ。長年仇敵として追い続けてきた相手なのだ。ジェイドは無理もないと思っている。ジェイド自身も到底受け入れ難い現実だからだ。ステルスハウンドに籍を置く者で、双生児に好意を抱く者など居はしない。ヘルレアの同行はカイムの提案だと念押しをされた。数多くの犠牲を払ってきたカイム自身が望むようにしたいとジェイドは思い続けている。それは、今回も変わりない。
エルドが、ユニスの肩を叩く。
「東占領区に行くとしても、あの区域は元々が侵入困難な上に、現在は戦争状態にあります。区域周辺の警戒はこれ以上ない程高まっているのは間違いないでしょう。侵入するのに最適だと思われるのは、区域南東にある大河を越えて行く道程です」
「私に異議はない。求めるところは
「明日、エルドの提案に則って行く。エリストニア捜索はチェスカル等に任せる。道程は厳しいものになるだろう。とにかく今日はもうベースに戻って立て直しだ」
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「王と行動するのはこれ以上無理だ」ユニスは苦々しく呟く。
夜半、今後の計画を立てるために、ジェイド、ユニス、エルドの三人が宿屋の一室に集まっている。ヘルレアは別室で休んでいた。
「王と共にいるのが辛いのはお前だけじゃない」
二人のやり取りをジェイドは黙って見ている。
王といるのが苦しいのは確かだ。だが、二人は分かっているはずだ。だからこそ王と共にオルスタッド捜索に動いている。ステルスハウンドには他に道がない。心情とは相容れないが、これは間違いなく幸運な事なのだろうとジェイドは思う。
「ユニス、ここまで長い間耐えて来たんだ。ここで自ら足を踏み外してどうする。俺達にとって今は正念場だ。そうは思わないか」
「……そうなのかしれません。あれ程求めた王がこのような形で側近くに来たことが、内心受け入れられないのは事実です。けれど、これ以上の機会が今後訪れることもなきに等しいのは確かでしょう。ですが悔しくてたまらないのです。未熟な自分には王の存在が苦痛でならない」
「もし組織の意向に相容れないならば、この場で去ることだ」
「隊長、ユニスの気の迷いです。私も同じ気持ちを抱いています。隊長あなただって同じなのではないですか」
「俺は組織の意向、即ちカイムの意志を絶対にして動く。王を害すると言うなら、俺は仲間であろうと排除しなければならない」
「……感情的になり過ぎました」
「これではもう話にならない。一旦頭を冷やそう」ジェイドは部屋を出た。
気持ちが分からないわけではないのだ。出来るならその想いを汲んでやりたい。
ジェイドが頭を冷やそうと外への廊下を歩いていると、ヘルレアが一人で歩いて行くのが見えた。ジェイドはその背後をかなりの間隔を持って追い掛けた。
そろそろと慎重に追跡すると王は運河の前で止まり、一人で運河を見つめている。こうして見ると本当に単なる十代の子供だ。その外套を着た背中は小さく、守ってやらねば直ぐに折れてしまう野の花そのものだ。それなのに自分達はこうも翻弄されている。
「私に何か用でもあるのか」
かなりの距離を置いたのに王はお見通しだ。
「逃げたのかと思った」
「どこにも逃げ場所などない……それが分かってここに居るというのに、今から遁走してどうする。私は一日程度、行動しただけでは体力の消耗はないし、眠ることも今の私には差して意味はない。用がない時は私の自由にさせてもらう」
「それは構わない。騒ぎを起こさない限りは」
「なら私の話し相手になってくれるか」
「暇潰しの相手か? 俺はカイムのように王の相手ができる程、人間が出来てはいないぞ」
「殺したくなる?」ヘルレアは静かに笑む。
沈黙が降り、ジェイドは息を吐いた。
「問わずとも分かるはずだ。カイムの意向がなければ、直ぐにでも撃ち殺せるというなら、撃ち殺してしまいたいくらいだ」握った拳が震えている。
「意向か……カイムはどんな男だ? 私にはお坊ちゃんの優男にしか見えなかった」
「あいつに興味があるのか。あの、お人形さんと言い放ったカイムに」
ヘルレアは吹き出した。声高く笑うと、涙を拭く。
「確かにそう言ったな。ジェイド、お前と比べたらお人形さんだろうカイムは。そう思ったことはないか」
「一度も思ったことはない」
「随分と心酔しているみたいだな」
「妙な言い方は止せ。ただ長く共に戦って来た、それだけだ」
「王の番になりたくないか」王は悪戯っぽく笑う。
ジェイドは王をじっくりと見つめた。その口から放たれるのは物騒な言葉ばかりだが、美しい子供だと思う。誰もが魅了される容姿を持ちながら、白い陶器のような手は血まみれだ。
「試しているのか……カイムはどう言うか知らないが、俺は御免だ。俺はカイムのようになれない。いや、誰もあいつのようにはなれないさ」
「番になる事を切望する人間は少なくはない。お前達もその一つなのだから、今の言葉は歓迎されると思ったのだが」
「戯言は止せ。俺が拒否すると分かっていて言ったのだろう」
「お前はカイムによく似ているな」
ヘルレアは目を細めて優しく微笑んだ。
「どこが似ていると言うんだ。俺はあいつほど気も長くない」
「カイムは愚かではなかった――と、だけ言っておいてやろう」
ヘルレアは踵を返し路地へ消えて行った。
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