第42話 墓参り

 八月十三日。なりを潜めていた暑さが、少しぶり返した。見上げると、雲がない。透き通るような青い空が広がっていた。ここ北摂霊園は山の上にある。風が吹いていて、とても見晴らしが良かった。谷間を見下ろすと、まるで自分が鳥になって、大空を飛んでいるような気分になってくる。暑さすら心地よかった。


 高井田家の墓に向かって、父親が手を合わせている。僕も、父親に倣って手を合わせた。首を垂れる。墓の中には、お爺ちゃんとお婆ちゃんが眠っている。お爺ちゃんは、僕が生まれる前に亡くなったので、会ったことはない。お婆ちゃんは、僕が大学に合格した年に亡くなった。お婆ちゃんは、僕の事をとても可愛がる人で、大学の合格も一番に喜んでくれた。それなのに、心不全で突然に亡くなってしまう。当時、あまりの悲しさに号泣したことを思い出した。


 僕が幼い頃から、両親は仕事が忙しかった。なかなか家に帰ってこない。だから、僕は、お婆ちゃんに育てられたようなものだ。そんなお婆ちゃんの事を思い出すと、何だか懐かしい想いに胸が塞がれる。目を固く瞑った。「ありがとう」と呟く。


 導師をしていた父親が、読経を終えて顔を上げた。振り返り、僕たち家族と、西村家の貴子たちを見回す。


「今日は、墓参りに来てくれてありがとう。親父も母親も、喜んでくれていると思う。この後は、席を用意しているから、みんなで美味しいものでも食べよう」


 カシャ!


 僕は、カメラのシャッターを切った。喋っている父親を写真に収める。父親が振り返り、僕を見つめた。


「マサル、皆の記念写真を撮ろうか」


 僕は、頷く。皆に呼びかけた。


「じゃ、そこに大きな木があるから、その周辺に集まってもらいましょうか」


 皆が移動を始めると、僕は走り出した。先回りして、カメラを構える。墓参りに参加した一人一人の表情をカメラに収めていく。笑っている顔、おどけている顔、澄ましている顔。墓参りに集った皆の表情が、瞬間瞬間に変化していく。僕は、見逃さずに次々にシャッターを押していった。忙しく、動き回る僕を見て、貴子が笑った。


「お兄ちゃん、カメラを持つと、ほんと人が変わるんだから~」


 西村の叔母さんが、貴子の言葉を受けて、一緒に笑い出す。


「ほんとね~。貴子が小学生の頃は、あんたをモデルにして良く撮っていたじゃない」


 貴子が、僕の事を悪戯っぽく睨んだ。


「休みになると、いつもいつも私を連れ出すんだから~」


 僕の母親が、そんな貴子を見てお礼を述べる。


「でもね~、貴子さんのお陰なのよ。マサルが大学に行けたのも。改めて、お礼を言いたいわ。ありがとうございます。それにしても貴子さん、しばらく見ないうちに、なんだかお嬢さんになっちゃって。本当に綺麗になったわよ~」


 貴子が、澄ましてみせた。


「そんなことないです」


――そんなことある。


 僕は、心の中でそう呟いて、シャッターを押した。風に吹かれて、貴子の長い髪の毛が揺れている。見え隠れする貴子の横顔から、整った鼻梁と長いまつ毛が見えた。貴子が顔を上げる。真っすぐに空を見上げていた


 記念撮影が終わった。これから、駅前にある料亭に向かうことになる。僕は貴子と話がしたかったので、思い切って話しかけた。


「ねえ、貴子」


 貴子が振り返る。


「なに? お兄ちゃん」


 貴子が、僕を見上げる。僕の心拍数が上がった。


「よ、良かったら、駅前まで、ぼ、僕の車に乗らない? ホンダシビック1500RSLっていってね、そのー、普通のシビックよりも排気量をパワーアップした車なんだよ。それにね、シビックは、」


「良いわよ」


「アメリカで賞を取ったくらい世界的に認められていて……えっ!」


 僕は、驚いて貴子を見る。


「車の事はよく分からないけれど、良いわよ。お兄ちゃんの車の横に乗せてよ」


 僕は、ぎこちなく頷いた。


「ど、どうぞ」


 貴子をシビックの助手席に誘導して、ドアを開ける。貴子は、僕を見て会釈をした。


「ありがとう」


 頭を下げて、ゆっくりと身体を滑り込ませる。貴子が座ったのを確認して、僕は声を掛けた。


「閉めるよ」


 貴子が、助手席から僕を見上げた。微笑んでいる。


「ええ」


 バタン!


 助手席のドアを閉めると、僕は慌てて運転席に回り込んだ。ドアを開ける。


「入るね」


 貴子が、僕を見て笑った。


「遠慮しなくても良いわよ。お兄ちゃんの車なのに……」


 貴子が、悪戯な目で僕を見つめる。十四歳の貴子に、僕は振り回されっぱなしだ。緊張しながら、運転席に座る。ドアを閉めた。直ぐ隣に、貴子を感じる。貴子から甘い香りが漂ってきた。なんだか酔ってしまいそうだ。


「エアコンを掛けるね」


「ええ」


 貴子が頷いた。僕は、キーを回してエンジンを掛ける。


 ブロロロン!


 エンジンが吠えた。貴子が乗車したことで、僕のシビックも喜んでいるような気がする。二速にシフトを入れて、クラッチを合わせる。滑らかにシビックが滑り出した。北摂霊園は北摂の山の中にある。帰りの山道は連続するカーブが、右に左へとくねっていた。僕のシビックの滑らかな走りに、貴子が笑顔を見せる。


「ねえ、お兄ちゃん」


「なんだい」


「窓を開けても良いかな」


「えっ、良いけど。暑かったかな? もう直ぐしたらエアコンが利き始めると思うんだけど……」


「ううん。風を感じたいの。ほら、天気が良いじゃない」


「ああ、そうだね。そのドアに付いているハンドルを回すと、窓が開くから」


「分かった」


 貴子が、ハンドルを回した。ガラスの窓が下がっていく。僕も運転をしながら、ハンドルを回した。車内に風が流れ込んでくる。確かに、気持ちが良い。貴子は、顔を少し出して、風を楽しんでいた。長い髪の毛が風に乱れて遊んでいる。貴子が喜んでいることが、僕は素直に嬉しかった。ニンマリと笑顔を浮かべていると、貴子が僕に問いかけてきた。


「ねえ、お兄ちゃん。二人っきりって、随分久しぶりよね」


 僕は、グルリと目を動かす。


「そ、そうだね。いつ以来だろう?」


 浮かれていた所為で、少し思考がまとまらない。貴子が微笑んだ。


「摂津峡以来よ」


「ああ、そうだね」


 そうだ。貴子を連れて摂津峡に行ったんだ。無邪気に遊んでいる貴子が、あの大きな岩に上った姿が思い出される。そして、貴子は岩から滑り落ちた。当時の情景が、まるで昨日の事の様に思い出される。胸が疼いた。あの日以来、貴子は幾ら誘っても、僕と一緒に出掛けなくなってしまったのだ。なんだか、今すぐにでも貴子に拒絶されるような気がした。不安な気持ちが、僕の中で膨れ上がる。僕は運転をしながら、貴子に謝った。


「あの時は、ごめん。貴子に怪我をさせてしまったね」


 貴子が、僕の方に振り向く。


「どうしたのよ、暗い顔をして。お兄ちゃんが、謝ることはないわ。登ったのは、私だもの」


「でも、結果的に怪我をさせてしまったし……」


「うーん。怪我はしたけれど、お兄ちゃん、私の事を必死で助けてくれたじゃない」


 助けて……。貴子の膝から流れる、ルビーのような赤い血を思い出す。僕は、大きく深呼吸をした。


「でも、あの後、貴子、凄く……怒っていたから……」


 貴子が、驚いたような声をあげた。


「えっ! 私、怒っていないわよ」


 僕は、眉をひそめる。


「でも、話しかけても、一言も返してくれないし。それに、その後、僕がどんなに誘っても、写真のモデルを引き受けてくれなかったじゃないか……」


 貴子が口を尖らせて、肩をすぼめた。


「あの時、私は怒っていたんじゃなくて、恥ずかしかったの」


「恥ずかしかった?」


「そうよ」


 それっきり、貴子が口を噤んだ。僕も、問いかける言葉を失ってしまう。二人して黙ってしまった。シビックが、緩やかなカーブに差し掛かる。僕はハンドルを左に切った。スピードが出ていたシビックは、堪えきれずに右外に滑り始める。


 キキキー!


 タイヤが鳴いた。狭い車内の中、貴子の身体が大きく右に投げ出される。貴子の肩が、僕にぶつかった。僕は、ハンドルを握りながら硬直する。岩から滑り落ちてきた貴子を抱きしめた時の感触を思い出した。幼い貴子の甘い体臭が、僕の鼻孔で蘇る。僕は、大きく息を吸った。シビックが、カーブを抜ける。真っすぐな道が始まった。貴子が小さな声で呟く。


「見たでしょう?」


 貴子の言葉が聞き取れない。僕は、聞き返した。


「えっ、なんて?」


「だから……見たでしょう」


 見た? 何の事だろう……。


「何を?」


 貴子が恥ずかしそうに、顔を赤らめる。


「あの時、私のパンツを……」


 僕はハンドルを握りながら、凄い勢いで首を振った。それに合わせて、シビックが蛇行を始める。


「キャ!」


 驚いた貴子が、小さな悲鳴を上げた。僕は、慌ててハンドルを握り直す。


「ご、ごめん」


 貴子が、僕を見て、笑い出した。


「アッハッハッ! お兄ちゃん、動揺しすぎ」


 今度は、僕が顔を赤らめる。


「神に誓って、僕は見てないよ。その……貴子のパンツは……」


 貴子が、口を尖らせる。


「恥ずかしいから、パンツって言わないで」


「ごめん」


 貴子が大きく息を吸った。


「あの時は、本当に恥ずかしかったの。お兄ちゃんは、一生懸命に私の事を助けてくれようとしているのに、恥ずかしくてお兄ちゃんの顔を見ることが出来なかった」


「そうだったんだ……」


「だからね、遅くなったけど、いま言うね」


「何を?」


「だから……助けてくれて、ありがとう」


 僕は、ハンドルを握りながら、自分の中の何かが、浄化されていくのを感じた。僕の目から、涙が流れだす。鼻水まで出てきた。


 グズッ。


 鼻水を啜ると、そんな僕を見て貴子が驚いた。


「どうしたの、お兄ちゃん。急に泣き出して……」


 貴子は、膝の上に置いていたポーチからハンカチを取り出した。運転している僕に、そのハンカチを差し出す。


「良かったら、これ、使ってよ」


 僕は言われるままに、そのハンカチを受け取った。目元にそのハンカチを近づける。貴子の、優しい香りが漂った。僕の中から、激流の様に何かが込み上げて来る。


「うわ~~~ん」


 僕は運転をしながら、声をあげて泣いた。涙がとめどなく溢れてきて、ハンカチで拭くどころではない。鼻水も、汚らしく流れっ放しだった。貴子は、呆気に取られて、僕を見ている。泣きながら、貴子に対する感謝のような気持で、僕は満たされてしまった。暫く運転を続けた。僕が泣き止んだ頃を見計らって、貴子が僕に問いかける。


「大丈夫? お兄ちゃん」


 僕は、鼻水にまみれたハンカチを握りしめながら、小さな声で呟いた。

 

「ごめん」


 貴子が首を横に振った。


「良いのよ、謝らなくても。ハンカチくらい、どうってことないのよ。人間、泣くこともあるわ」


「じゃなくて、ごめん」


 貴子が怪訝な表情を浮かべる。


「どうしたの?」


 僕は、ためらった後、意を決して口を開いた。


「肖像画を盗んだのは、僕なんだ……本当に、ごめん」


 貴子が、息を飲むのが分かった。言ってしまった。勢いで言ってしまったけれど、後悔はない。これで貴子に嫌われてしまった。でも、今の気持ちで隠し続けることは、僕には出来なかった。素直な気持ちで、貴子に打ち明ける。そうするしかなかった。


「うふふっ」


 貴子が笑った。僕は、驚いて貴子に振り向く。


「どうして、笑っているの?」


 貴子が、慌てたように、前を指差す。


「前! 前!」


 僕は、前を向く。慌ててハンドルを修正した。危うくガードレールに、車をぶつけるところだった。


「フ――!」


 大きなため息をつく。貴子が、横でクスクスと笑った。


「分かっていたわよ。お兄ちゃんが、私の肖像画を持っていたことは」


 僕は、ハンドルを握りながら、呆然とする。


「分かっていた?」


「そうよ。私に、隠し事なんて無理よ」


 僕は、口籠ってしまう。


「本当に、ごめん……返すよ」


 貴子が、両手を前に出して、伸びをした。


「うーん。どうしよっかな……その肖像画、お兄ちゃんにあげるよ」


「えっ!」


 僕は、驚いた声をあげる。貴子に、何か話しかけようとしたけれど、目的地の料亭に到着した。それっきり、話が切れてしまった。

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