第29話 割り切れない

 円周率は、三・一四一五九二六五……。


 僕は、勉強机に向かって、夏休みの宿題をしていた。取り組んでいるのは、算数ドリル。円の面積を求める問題を解いていた。四角形の面積は、縦と横を掛け合わせて求める。三角形の面積は、縦と横を掛け合わせて、それを半分にして求める。ところが、円の面積は少し変わっている。半径と半径を掛け合わせて、そこに円周率を掛ける。つまり、一片の長さが半径と同じの正方形があったとする。その正方形が、三つと少し。これが、求める円の面積になる。


 この円周率は、円の面積を求めるための鍵になる。わざわざπという記号が与えられている時点で特別な存在だ。先生が言っていたけれど、円周率の小数点以下は、循環することもなく延々と続いていくそうだ。終わりがない。


「フー」


 ため息をつく。昨日の出来事を思い出した。貴子お姉さんと、ジョージの問題も終わりが見えない。これからどうなっていくのだろう。大体、僕自身の心が割り切れない。諦める事ができなかった。


 ジョージは、お姉さんを怒らせた後も、デッサンを続けた。怒らせたのは初めの一回きりで、その後は、違う角度でデッサンが繰り返された。ジョージは、お姉さんに、自分が体験してきた様々な話を披露する。自転車旅行はもちろんの事、悲しい恋愛の話や、怖いヤクザの話を語ってくれた。どの話も面白くて、お姉さんは、様々な表情を見せる。笑った顔、悲しい顔、驚いた顔。そうしたお姉さんの表情を見つめては、ジョージは鉛筆を走らせる。クロッキー帳は、貴子お姉さんの似顔絵で、一杯になっていった。


 憂鬱な気持ちに沈みながら、算数のドリルを解いていると、隣の家の玄関が開く音がした。嫌な予感がする。僕は、子供部屋の窓から、外の様子を伺った。


――やっぱりー。


 貴子お姉さんが、麦わら帽子を被って、表に出ている。僕の家の呼び鈴を押すのかなと思って、身構えた。でも、違った。お姉さんは、僕の家の前を通り過ぎて、歩いていく。声を掛けようとしたのに、声が出なかった。


――お姉さん!


 僕は、強く窓を握りしめた。貴子お姉さんが、一人でジョージに会いに行こうとしている。その現実に、僕の胸は圧し潰されそうになってしまった。いや、でも、まだ分からない。買い物に行くだけかもしれない。いや、そうに違いない。


 気が付くと、僕は走り出していた。階段を駆け下りて、慌ただしく靴を履く。玄関を飛び出すと、門柱の陰に隠れた。前を歩く、お姉さんの様子を伺う。罪悪感に苛まれながらも、僕はお姉さんの尾行を始めた。


 お姉さんの足取りは、真っすぐにスーパーダイエーに向かっていた。路地を抜けると、ドブ川沿いの見通しの良い道に出る。隠れる場所がない。距離を開けて、用心しながら尾行を続ける。心臓がドキドキと暴れていた。身を隠しながら、僕は祈った。


――お姉さんが、ジョージの所に向かいませんように。


 道の先に、スーパーダイエーがある。右に曲がれば、ダイエーだ。左に曲がれば、小学校に向かうことになる。右に曲がって欲しい。右、右、右……。


――ああぁ……。


 僕の期待は、あっさりと裏切られてしまった。お姉さんは、迷うことなく左に曲がる。足取りが、心なし楽しそうにも見えた。交差点までやってきた僕は、お姉さんの後ろ姿を見送った。大きな溜息をついてしまう。 


 そりゃ、どんなに背伸びをしても、僕ではジョージに敵わない。そんなことは分かっている。でも、この気持ちを、どのように扱ったら良いのだろう。苦しくて仕方がない。振り向くと、視線の先にマナブのカメラ屋が見えた。自然と、カメラ屋に向かって歩き出してしまう。店のショーウィンドウには、貴子お姉さんのデッサン画が、額縁に収められて展示されていた。僕は、絵の中のお姉さんを見つめる。


 落ち込んでいた貴子お姉さんを、ジョージは元気にしてくれた。ジョージが居なければ、今でもお姉さんは家に引き籠っていたかもしれない。そう考えると、ジョージには感謝している。でも、そんなジョージの事が、どうしても憎い。自分の中で育ってしまった、この気持ちに、僕は抗うことが出来なかった。どうしたら良いのだろう?

 

 ジョージは、偉そうなことを言っても、ただの浮浪者だ。お姉さんと付き合うことは出来ない。だから、貴子お姉さんが、ジョージに会いに行かなければ良いのだ。肖像画の作成をやめさせることが出来れば、お姉さんはジョージとの接点が無くなる。ジョージを、何とかしてあの部屋から追い出したい。追い出すことが出来れば、全ては解決する。そんな風に思った。僕は、カメラ屋を後にすると、マサルお兄さんの家に向かった。ここから家は近い。マサルお兄さんに、事情を説明すれば、きっと力になってくれる。そんな風に思った。


 高井田の表札を掲げた家の前に立った。呼び鈴を押す。暫くすると、玄関が開けられて、マサルお兄さんが顔を出した。


「どうしたの? 小林君」


 急な訪問に、お兄さんが驚いた表情を浮かべる。


「貴子お姉さんの事で、相談があります」


 僕の、真剣な表情に、お兄さんは何かを感じてくれた。


「家に上がりなよ。話を聞かせてもらうよ」


 家に上がると、前回と同じように、二階のお兄さんの部屋に通された。部屋を見回すと、お姉さんの熊のヌイグルミがある。埃が掛からないように、透明の袋に包まれていた。まだ、返していないんだ……。視線を壁に移す。大きく引き伸ばされた、幼い頃の貴子お姉さんの写真が掛かっていた。海をバックにして麦わら帽子を被ったお姉さんが笑っている。見ているだけで、胸が苦しくなってしまった。お兄さんが、階段を上がってくる。


「お待たせ」


 マサルお兄さんが、部屋に入ってきた。麦茶が入ったコップをお盆に載せている。その麦茶を、勉強机の上に置いた。僕は、前回と同じように椅子に座る。お兄さんは、ベッドに腰かけた。僕を見上げる。


「何が、あったんだい? 聞かせてもらおうか」


 僕は、ジョージと出会った経緯から話し始めた。廃墟になった工場で、肝試しをしていたこと。団地に、ジョージが住み着いていたこと。貴子お姉さんの事で相談をしたら、ジョージが予告状を書いてくれたこと。貴子お姉さんを、祭りに連れ出すことが出来たこと。似顔絵のお陰で、貴子お姉さんが元気になったこと。でも、昨日のデッサンでは、ジョージがお姉さんを泣かしたこと。いま、貴子お姉さんは、ジョージと二人っきりで肖像画の作成に取り組んでいること。僕は、話し終えると、真剣な面持ちで頭を下げた。


「力を貸してください。貴子お姉さんが、ジョージと会わない様にしたいんです」


 マサルお兄さんは、目を細めて、僕を見た。大きく息を吸うと、僕に質問をする。


「その浮浪者は、自分のことを、ジョージって言ったの?」


 僕は、頷いた。


「本名は、寺沢譲治だったと思います」


 マサルお兄さんが、大きく目を広げる。


「それは、本当の話なの?」


 僕は、お兄さんの反応に吃驚した。


「ええ」


「帰って来ていたんだ……」


 お兄さんの言葉に、僕は身を乗り出す。


「知っているんですか?」


「ああ、多分、間違いない。あの廃墟の団地に、住み着いているって言ったよね?」


「はい」


「その部屋は、元々、寺沢先輩が住んでいた部屋だよ」


「えっ!」


「寺沢先輩は、ミナミ高校での僕の先輩になるんだ。それに、大学も一緒でね、同じ芸大なんだよ」


 マサルお兄さんが、ジョージについて語ってくれた。マサルお兄さんとジョージは、共にミナミ高校の出身で、ジョージは二つ上の先輩だった。ジョージは、高校生の頃から絵が上手く、マサルお兄さんにとっては憧れの人だったそうだ。マサルお兄さんは、そんなジョージを追いかけるようにして、芸大に進むことを夢見る。四年前の事、マサルお兄さんが高校三年生の時、工場で火災が発生した。その火災が原因で工場は操業を停止することになったのだが、同時に、ジョージの家族は引っ越しを余儀なくされる。その後、マサルお兄さんは芸大に進んだ。芸大で、ジョージと再会する。同じ高校の出身ということもあり、可愛がってもらうこともあった。ただ、それほど深い付き合いというわけでなはく、顔見知りぐらいの関係だった。


 そんなジョージの存在が、俄かにクローズアップされた出来事があった。半年ほど前に、ジョージを探しているヤクザが、マサルお兄さんの所にやって来たのだ。大学を卒業したジョージは、キャバレーで仕事をしていた。ところが、どういった経緯か分からないが、ヤクザの親分の娘さんと恋仲になってしまった。それだけでなく、二人は駆け落ちをしようと計画をする。計画が露見したジョージは、ヤクザに追われる羽目になってしまった。でも、マサルお兄さんは、ジョージの居場所は知らない。食い下がるヤクザを追い返すのに、必死だったことを、困った表情で語ってくれた。マサルお兄さんの話は、小学生の僕には刺激の強い内容だった。特に、「駆け落ち」という言葉に、僕は敏感に反応してしまう。


「駆け落ちっていうのは、男と女、二人で遠くに行くことですよね」


「ああ、そうだよ」


 僕は、沈んだ口調で呟く。


「心配です。貴子お姉さんが、ジョージに取られそうで……」


「確かに」


 マサルお兄さんが、考えるような素振りを見せた。そんなお兄さんに、僕は身を乗り出した。


「一緒に来てください!」


 お兄さんが、目を大きく開いた。


「二人の所に、乗り込むのか?」


「はい。お姉さんが深みに入るのを、やめさせたいです」


 マサルお兄さんが立ち上がった。


「分かった。行こうか」


 僕も立ち上がる。


「はい」


 マサルお兄さんと一緒に家を出ると、お兄さんは自転車を用意した。


「小林君、後ろに乗ってよ」


 僕は、言われた通りに自転車の後ろに乗った。マサルお兄さんの腰に掴まる。自転車が走り出した。暑い日差しは変わらない。風を感じながら、マサルお兄さんの事が、とても頼もしく感じられた。貴子お姉さんを、取り返そう。そのことだけを考えていた。


 白い団地の前の有刺鉄線の破れ目に到着した。僕は、自転車から下りる。お兄さんが、団地を見上げた。


「荒れているな~。寺沢先輩、よくこんなところで寝泊まりしているな」


 呆れたような口ぶりで、お兄さんが呟く。僕は、そんなお兄さんを急かした。


「こっち、こっち」


 お兄さんは、頷くと、僕に付いて来た。団地を回り込み、裏庭に出る。桜の木の下に、貴子お姉さんが座っていた。僕と、マサルお兄さんを見て、お姉さんが目を開き、口に手を当てる。お姉さんに釣られるようにして、ジョージが振り向いた。近寄る僕を見て、ジョージが微笑む。視線をずらして、マサルお兄さんを見ると、驚いた表情を浮かべた。


「ええと、確か、高井田君……だったかな?」


 マサルお兄さんが、ジョージの前に立つ。少し息を吸うと、頭を下げた。


「お久しぶりです。寺沢先輩」


 顔を上げると、お兄さんは、辺りを見回す。ジョージに視線を戻すと、切り出した。


「こんなところで、何をしているんですか? 先輩」


「何って、肖像画を作成しているんだよ」


 マサルお兄さんが、小さく溜息をついた。


「それだけですか?」


「それだけって、どういう意味だよ。なんだか良く分からないけれど、もしかして、君、怒ってる?」


 マサルお兄さんが、目を細めてジョージを睨んだ。


「心配なんですよ。先輩が、貴子と関わっていることが……」


 ジョージが、目を大きく開いた。貴子お姉さんに、視線を向ける。


「貴子さん。高井田君と、お知り合いなのかな?」


 お姉さんが、口を開く。


「従兄弟のお兄さんです」


 ジョージが、大きく頷いた。貴子お姉さんから、マサルお兄さんに視線を移す。


「そうだったんだ。世間は、狭いね。驚いた」


 感心しているジョージを、お兄さんが睨みつけた。


「昨日は、貴子を泣かしたそうじゃないですか」


 ジョージが、眉をひそめる。困ったように、頭を掻いた。


「まー、そうだけど、ちゃんとフォローはしたよ。だから、こうして、貴子さんは、今日も僕のモデルになってくれている」


 マサルお兄さんが、ジョージの事を冷たく睨む。


「だから、心配なんですよ。先輩……あなたの事で、変な噂を聞きましたよ」


 ジョージが、お兄さんの言葉に、少し動揺した。


「な、何のこと?」


 マサルお兄さんが、ジョージの事をジッと見つめる。


「先輩……ヤクザから追われているでしょう?」


 ジョージが、目をむいた。言葉が出ない。マサルお兄さんは、言葉を続ける。


「僕の所に、あなたを探しにヤクザが来ましたよ。ジョージは何処だって。そのヤクザが言うには、親分の娘さんを、その気にさせたそうじゃないですか。その上、駆け落ちまで計画していたんですよね」


 ジョージは、お兄さんから視線を外した。大きく溜息をつく。


「貴子さんには、そんなつもりはないよ。僕は、純粋に絵が描きたいだけなんだ」


「先輩はそのつもりでも、貴子の気持ちはどうなんですか。現に、貴方に振り回されているじゃないですか。貴子は、まだ中学生なんですよ。貴方には、大人の自覚がない」


「大人の自覚って、僕は、絵を描いているだけだよ」


「その絵を、やめてください。素直に、ここから出て行ってください」


 ジョージが、目を怒らせた。


「黙って聞いていれば、偉そうに。何で、お前に、そこまで言われなきゃいけないんだ!」


 ジョージの激昂に対して、マサルお兄さんが、冷たい目で睨む。


「僕は、貴子の兄なんです。僕には、貴子を守る義務があるんです。これ以上、絵を描くというのなら、ヤクザに連絡をしますよ。僕、名刺を預かっているんです」


 マサルお兄さんの言葉に、ジョージが息を呑んだ。お兄さんは、言葉を続ける。


「自転車旅行って、ただ、ヤクザから逃げていただけでしょう。髪の毛を伸ばしているのも、人相を分からなくする為でしょう。そんなに絵を描きたいんだったら、ヤクザに終われない身になってからにしてください。これ以上、貴子に関わって欲しくないんです」


 チッ!


 ジョージが、舌打ちをした。貴子お姉さんを、一瞥した後、マサルお兄さんに視線を移す。


「分かったよ。そこまで言うんなら、ここから出て行くよ」


 その時、貴子お姉さんが立ち上がった。


「駄目!」


 僕もジョージも、マサルお兄さんも、貴子お姉さんを見た。お姉さんが、涙目になっている。お姉さんが、マサルお兄さんを睨んだ。


「お兄さん、帰って!」


 マサルお兄さんが、驚いた表情を浮かべる。


「どうして? 貴子のことを思って……」


 お姉さんは、首を横に振った。


「そんな気持ち要らないの。私は、ジョージに肖像画を描いて欲しいの。お兄さんこそ、ここから出て行ってよ!」


「そんな……」


 マサルお兄さんが、唖然として、立ち尽くした。貴子お姉さんは、今度は、ジョージを睨む。


「ジョージ、逃げないで!」


 ジョージが、驚いた表情で、貴子お姉さんを見た。


「でも……」


 貴子お姉さんが、両手を握り締めて、叫んだ。


「ヤクザとか、私には関係ないの。私に、身を捧げろって言ったのは、ジョージ、貴方なのよ。ジョージも、自分の身を捧げるって、言ったじゃない。あれは、嘘なの? 私は許さない。途中で、投げ出すことは、絶対に許さない」


 ワナワナと震える貴子お姉さんのことを、ジョージが見つめた。ジョージは、お姉さんに語りかけようとして、口を噤んだ。目を瞑り、大きく溜息をつくと、俯いてしまう。そんなジョージが、ゆっくりと顔を上げた。


「そうだね。ごめん、僕が悪かった。肖像画の制作に取り掛かろうか」


 ジョージは、振り向くと、マサルお兄さんを見つめた。


「そういう事だから、高井田君、肖像画の作成を続けるね」


 マサルお兄さんが、顔を真っ赤にさせて、ジョージを怒鳴りつけた。


「良いのか! ヤクザに連絡しても、良いのか!」


 ジョージが、小さなため息をつく。マサルお兄さんを見つめた。


「お好きなように」


「クソッ!」


 マサルお兄さんが、地面を蹴った。踵を返すと、大股で帰っていく。僕は、そんなマサルお兄さんを追いかけようとしたけれど、やめた。お兄さんに申し訳ないと思いつつも、その後姿を見送ってしまった。どうしよう? ジョージを追い出すつもりが、返って話が複雑になってしまった。ジョージが、僕のことを見つめる。


「小林君、ごめんね」


「えっ?」


 ジョージが、僕に謝るとは思ってもみなかった。


「貴子お姉さんの事で、心配を掛けてしまったね。肖像画を描き上げたら、僕はここから立ち去るから、もう少しだけ僕の我儘に付き合って欲しい」


 ジョージが、素直な目で僕を見つめる。ジョージから悪意は感じなかった。ジョージは、パレットと筆を手に取る。貴子お姉さんを見つめた。


「最高に美しい、貴子さんの肖像画を仕上げるからね」


 不安が去ったわけではない。でも、僕は、もう、二人を見守る事しか出来なかった。古びたバスのバンパーに腰かけて、二人の様子を、ずっと眺めていた。

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