第27話 泉岳寺
大使館の駐在武官、すなわち諜報部員の仕事は多岐にわたる。日本で起きるできごとの全てをテレビ、ラジオ、新聞から雑誌にいたるまで細かく分析し情報を収集する。そんな彼の情報収集網のひとつに銀座のネオン街がある。
遊んでいるわけではない。財界、政界、科学技術界などの重要なポストにある人達の集まるところは全てチェックし、どこの店には誰と誰がくるか。
新聞や雑誌の記者のような感覚と行動力で日夜動く。
そんな彼らは臭いを感じたら徹底的に調べる。
趣味嗜好から性癖まで、ひとが秘密にしたい部分こそ彼らにとって重要な情報となる。
ジョージィとスコットの関係に疑いを持ったのも、この男の感から生まれたものであった。現実の情報となって本国へ送られるのは、調べ上げた中の極一部にすぎないが無駄になると知った上で諜報部員は動く。
諜報部員の男はスコットがいつ現れるか、ジョージィの動きを監視し続けた。
最近、諜報部員が注目しているのはマリアの動きであった。
代々木上原の自宅に、それまで彼のリストにない人物が訪れるようなった。
諜報部員の疑い深い思考回路を通して見ると、その人物はスコットの連絡係かも知れない。全てのできごとを、疑いというメガネを通して見るのは諜報部員の基本である。代々木上原に現れるようになった人物、進藤にも諜報部員の監視の目は向けられた。
ある一部の人達の間で奈津美の店は、話題になりつつあった。
だが高級品を安く買うためではない。女を引き付ける美しくて怪しい男の濃厚なサービスを受けられる店としてである。
女性客にも対応するその店は言わば、朝から営業しているホストクラブ的な存在として受け止められつつあった。理由は簡単である。売上げが多ければ金が手に入り、女も手にできると知った店員が増えてきたためである。
奈津美の努力が実り優秀な店員が増えてきた。だが彼らは進藤を手本とした。
店内での販売活動だけでなく、女性客の求めに応じて店外での活動にいそしみ、自らもその甘い生活を享受するようになっていた。
信頼していた進藤の行動が徐々に、奈津美の計画とは逆の方向へ動き出していた。
奈津美の野望に黄色信号が灯り始めていた。
だが奈津美には未だ進藤は信頼できる部下であり、愛する男であった。
☆☆☆
魚籃坂を登り、伊皿子のマンションにボスロフとイリーナを訪ねたジョージィと原島は、ボスロフの提案をうけアメリカの法律家の助言を受けることした。
日本を活動の拠点とするアメリカ人弁護士は大勢いる。
彼らは優秀であるが報酬も高い。ボスロフの求めに応じた弁護士はいずれもマリアの住む代々木上原の自宅を担保として要求した。
ふたりの愛を成就させるには、代償も大きいことを痛感させられた。
だがマリアが求めに応じるとは思えない。ふたりの行方は当人同士にも描けぬ幻の絵画のような存在となりつつあった。
伊皿子とは魚籃坂を登りつめた台地の頂上にある、東京でも古くから開けた土地である。
魚籃坂を逆の方向へ歩くとわずか数百メートルほどのところに、赤穂浪士で有名な泉岳寺がある。その先にかっては東京湾が見えた。
念願の敵討ちを果たした浪士たちも今は安らかに眠る。
果たしてふたりには安住の地はどこにあるのだろうか。
「省三、私とヨーロッパのどこかへ逃げる勇気はある?」
「ヨーロッパってどこの国?」
「エストニア、ラトビア、リトアニアとか」
「そこでどうやって暮らすの?」
「私が働くわ」
確かにジョージイは言葉には不自由はない。だがそれだけで外国人であるふたりが生活できるとは思えない。
「その国の法律で結婚はできるの?」
「分からないわ、でも日本にいるより安心だと思うわ」
ふたりは計画もなく、ただ感に頼るしかないほどに追い込まれていた。
外国へ逃げようというのはイリーナの考えでもあった。
イリーナはアメリカを念頭に置いていたのだが。
ジョージィとスコットはアメリカと日本に離れているから話し合いもできない。
むしろ、堂々と互いの主張を述べ、判決を受けるのが良いのではないかと、考えていた。
たとえ離婚が認められなくても、ふたりを引き離すことはアメリカの法律ではできない。イリーナの主張は真っ当な判断のように感じる。
イリーナとボスロフの間にも意見の違いはあった。
だがふたりを幸せにしたいと思う気持ちは同じく強いものがあった。
ボスロフはロシアの諜報部員のことを、まだジョージィに話していなかった。
シンプソンとの関係に悩むジョージィに、追い打ちをかけることになると思って。
もともとジョージィを密輸や秘密資料買収の仕事に巻き込んだのは自分なのだ。
ボスロフは諜報部員のことはジョージイに知らせぬまま一人で解決しようとした。
なにしろ自分は今まで、ロシアのために、ロシアの要請で危険な仕事をしてきた。そんな自分を祖国が自分を切り捨てるはずがないと固く信じていた。
原島は再び迷いが生まれていた。マリアに財産を捨てろと迫るのか。自分も見知らぬ国へ行って新たな道を歩むのか原島の決断が迫られていた。
ここで自分の決断を示せないのは、ジョージィを愛していないというのも同然だ。
沈黙の時間が続いた。何か自分の気持ちを言葉にしたいと思えば思うほど、喉の奥の声は乾燥した濡れ枯葉が、アスファルトにこびりついたように固まっていた。
ようやく声を出した原島は「ジョージィ、ふたりでアメリカへ行こう。おれはもう何も要らない君だけがおれのすべてだ」
今までも同じ言葉は何度も口にしてきた、だが今度ばかりは違う。
原島は言い終わった後、背中がガタガタと震えるのを感じた。
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