9
「お兄さんは、ずっとこの仕事をされているのですか」
会話の糸口を掴もうと頭の中をぐちゃぐちゃにしていると、それを知ってか知らずか、ご主人は助け舟を出すように僕に質問を投げかけてくれた。
「いえ、実は僕はただの手伝いなんです。ここの正式な職員ではありません」
職員であると嘘をついてもしょうがない。無資格でカウンセリングすることの若干の申し訳なさを覚えた僕は、懺悔するように今の立場を明らかにした。
「なるほど。どおりでどこか初々しいところがあるなと思いました。ところで、なぜお手伝いを?」
「手伝ってくれないかと言われて」
「先ほど対応してくれた女性にですか」
「はい、そうです」
「お二人は、お付き合いをされているのですか」
若い男女がいればすぐ恋愛と結び付けるのは、年長者の悪いところだ。
「いいえ、そういう関係ではありませんよ」
「そうですか。仲が良さそうに見えたので、てっきり、そういった繋がりから手伝いをしているのかと」
タダヤマ夫妻が来てから、僕とキクコはほとんど会話なんてしていない。あの短い間に、ご主人は僕たちから何を感じ取ったのだろうか。
「仲が良さそうに見えましたか?」
「ええ、そう見えました」
ご主人はそう言って目尻に皺を作る。
自分では、キクコとの間にどの程度の心理的距離があるのか、あまり分からない。だから、第三者の視点から、仲が良さそうに見えると言われたという事実をどう受け止めればいいのか分からない。
「お兄さんは、ご結婚はされていますか」
「いいえ、独身です」
「では、恋人はいらっしゃいますか」
「残念ながら、生まれてこの方そういう関係には恵まれませんでした」
言っていて悲しくなる。
「そうなんですね。ならば、早くそういう相手を探した方がいい」
ご主人は、そう言って続ける。
「綺麗な景色を見た時、美味しいものを食べた時、面白い映画を見た時、そんな何気ない一時に思ったことを共有出来る関係は、何者にも代え難いものです」
「理屈として分かってはいるのですが、なかなか行動に移すのが難しくて」
「運命の人などと言えば聞こえは良いですが、そういう関係になり得る相手は、世界にたった一人というわけではありません。相性が良い異性は意外と多くいます。お兄さんくらいの歳なら、きっとすぐ見つかりますよ」
ご主人はそう助言をしてくれた。
恋愛関係というプライベートな話から入ったおかげか、会話に対する緊張や抵抗のようなものが無くなり、僕とご主人の雑談は意外なほど弾んだ。会話の中で彼の内面が見えれば見えてくるほど、死という形で関係が絶たれるのが悲しくなった。
しばらくすると、キクコが奥さんを連れて事務所の方から戻ってきた。
「奥様との面談は終わりました」
「……ええ、では次は私ですね」
会話を切り上げて、ご主人が立ち上がる。
結局、僕は彼の願望を止めることはできなかった。キクコが面談で何を話すのかは分からないが、彼女ならどうにかできるだろうか。もしできるのだとしても、ご主人の夢を止めたほうが良いのか、それは僕にはもう分からなくなっていた。
「では、こちらへどうぞ」
キクコはご主人を連れて奥へと歩いて行く。二つの足音が、狂ったメトロノームのような拍子を刻む。
奥さんは、その背中を黙って見つめている。ご主人に声を掛けることは無かった。
キクコは奥さんと二人でどんな話をしたのだろう。なんとか引き止めることができたのだろうか。そうであってほしい。だが、多分そうはなっていない。面談の前後で奥さんの様子に違いは無い。心持ちが変わったとは思えなかった。
やがて、事務所の扉が閉まる音が施設内に鳴り響く。指揮者が止めの合図をするように、足音が奏でていた拍子は止まった。
「こんにちは、お兄さん」
奥さんは挨拶の後、軽く会釈した。
「あ、こんにちは」
僕も同じように頭を下げて、挨拶を返す。
「主人とお話してくれたの?」
「お話をしてもらったのは僕のほうですよ」
「何をお話ししていたのかしら」と彼女は楽しそうに尋ねる。
ご主人との会話の内容を思い出す。
「恋人を探したほうがいいとアドバイスをいただきました」
「もう、またあの人は……若い人にそんな、お説教みたいな話をしたのね。気分を悪くされたらごめんなさい」
奥さんは、宝くじが全部はずれてしまったときのような、呆れた表情を作る。
「いえいえ、そんなことはありませんよ」
「本当かしら。気を使っていない?」
「気を使ってなんていませんよ。人生の先輩の話を聞くのは面白いです。もし良かったら、奥さんも何か僕にアドバイスしてくれませんか」
「あらあら、何か悩みでもあるのかしら」
自分からアドバイスしてくれと言っておきながら、相談事が思い浮かばない。そもそも、死のうと思っている僕が、人生相談をするというのは何か違う気もした。どうしたものか。
「悩みとはちょっと違うかもしれませんが、ここの所長……先ほど奥さんの面談を担当した者に、ここの手伝いをしてくれと言われたんです」
「うんうん。何のお手伝いをされるの?」
「それが、ここに来る希望者さんのカウンセリングをしてくれと言われていて……」
「カウンセラーさんなのね。あなたは話しやすい雰囲気だし、一緒にいると何か安心するわ」
ご主人からも似たようなことを言われた。
「表情や仕草のせいかしら?」と、僕の顔を見ながら自問している。
「ええと、申し上げにくいのですが、実は、カウンセリングや心理関係の資格は何も持っていないんです。所長から、なし崩し的にあてがわれただけなんです」
「そうなの? でも大丈夫よ。あなたなら出来るわ。そういうオーラがあるから」
「オーラですか?」
「そう、オーラ。所長さんもそう感じたから、あなたに手伝いを頼んだのじゃないかしら。信頼されてるのよ、きっと」
「信頼されているのでしょうか?」
「あの子は賢いけれど、不器用なところがあるわ。だから人と接するのはちょっぴり苦手なのかもしれないわね。そのせいで信用している人には雑な対応になっちゃうのよ」
「不器用なのかなぁ……」と、些細な疑問が口から漏れる。
「不器用な人はね、相手によって接し方を加減するのがへたっぴなの。加減が分からないから、丁寧か雑かのどちらかしか出来ないの」
相手によって態度を変えるのは意外と疲れる。その気持ちは理解できた。それがひどくなると、0か100かの両極端になってしまうのかもしれない。
「所長は、僕に対しては初対面から雑な態度だったんですよ。はじめてここに来た時なんて、カウンターの中で居眠りしていたんですよ。態度を切り替える基準が分からないなぁ……」
「さっきの印象とは随分違うわねぇ。人づてにあなたの噂を聞いて油断していたとか、そういうことは無いかしら」
「安楽死希望者として初めてここに来た時にその状態だったので、多分それは無いと思うんです」
「あら、そうだったのね……となると、あの子は何を基準にしているのかしらねぇ」
「全然分からないんですよねぇ」
「まあ良いじゃない。結果的に今はいい関係になれたのなら」
奥さんはまた、ご主人と似たようなことを言った。夫婦になると、物事の観点が似るものなのだろうか。それとも、似ているから夫婦になるのだろうか。
「ご主人も、僕と所長の仲が良さそうに見えると仰っていました。お二人が口を揃えてそう言うほど、僕たちは仲良く見えるのでしょうか」
「人に尋ねるということは、あなたはそうは思っていないの?」
反対に問を投げかけられて少し戸惑った。
「……それは、そうです。所長と過ごすのは今日で二日目です。たった二日で、人に『いい関係』と言われるほどになれるとは思えません。僕の経験上そう思います」
口ではそう言ったし、理屈でもそう思う。しかし口に出すのは少し寂しかった。
言霊という言葉が生まれるほど、昔の人々は言葉に込められた力を信じた。今でも信じる人間はいる。しかし、霊力みたいなオカルトは存在していない。もちろん魔力も。それは、ファンタジーな夢を切り捨てる不変の真理だ。
それでも言葉が持つ力は、呪いのように人の心を縛る。
言葉というよりも、言葉に関連付けられた記憶は、人の思考を無意識下で手繰り寄せて行動をも変化させる。「あなたは、次に引くおみくじで大吉を引く」なんて言われれば、つい思い出しておみくじを引きに行きたくなる。もし大吉を引こうものなら、経験は記憶に深く刻まれ、次回以降の行動理念に埋め込まれる。それが言霊と呼ばれる力の正体だ。
「私の経験上では、そうは思わないわ。熟成に時間のかかる関係もあれば、化学反応のように劇的な関係もある。あなたたち二人は、たった二日で、他人から良い関係と言われるようになったの。それでいいのよ」
奥さんは穏やかな眼差しで僕を見つめ、そう言った。
「それで、えーっと、何の話をしていたか忘れちゃったわ」
間の抜けた奥さんの言葉に、つい力が抜けてしまう。
「ええと、僕はここでカウンセラーみたいなことをしなきゃいけなくて、どうやったら、死にたいと思っている人たちを引き止められるか訊いてみようと思ったんです」
「夢を見ることをやめるように、私も説得されるということかしら」
言われて気づいた。確かに、そういうことになる。
「……いえ、ええと、そうしようとは思っていたのですが」
「うふふ、別に構わないのだけれど、私に訊くのは間違いかもしれないわ……そうねぇ、引き止める方法、何かあるかしら……」
彼女が思案している様子を眺めていると、背後から扉を開閉する音が聞こえてきた。
「あら、主人の面談はもう終わりかしら」
奥さんは、事務所の方向へ目をやった。
僕が振り返ると、二人が通路から顔を出す。戻ってきたご主人は、足をかばうようにしながらソファに腰掛ける。足腰が弱ったという話を聞いていたせいで、最初は気にならなかった細かい所作が目についてしまう。
「お二人とも面談が終わったので、処置を進めていきたいと思います」
夫妻は二人とも無言で頷く。
「処置は予約の順に行っておりますので、ご主人のほうからご案内させていただきます」
「分かりました」
「私はあちらで待機しておりますので、準備が出来たらお声掛けください」
翻ってカウンターへ向かおうとするキクコを、ご主人が呼び止める。
「準備は済んでいます」
夢を待てないわけでは無いだろう。心変わりを恐れているわけでも無いだろう。
「もう、準備は済んでいるのです」
なら、何故急ぐ必要があるのだろうか。理由は分からない。そこには断固たる意志だけがある。
「わかりました。では、こちらへどうぞ」
ご主人の言葉を受け入れるキクコに、僕は顔を向けることが出来なかった。
あの人はもう、ここへは戻らない。
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