お寺の洋一くん

 かつて住んでいた社宅アパートの近所には、大きな墓地があった。幼い雄一でもすぐにたどり着くほどに近く、周囲はひっそりとしていた。雄一が通っていた幼稚園の通園路はその墓地の脇で、大人と一緒でなければ絶対に歩いてはならないと厳しく言われていた。都会の中心部に広がった大規模な霊園は、雄一の想像の範囲を超えていて、奥まで歩いてみたこともなかった。そもそも「墓」というものの概念すら危ういほどに幼かったので、そこになにが存在するのかまったく考えも及ばずじまいだ。

 墓地に面した道の角には、きれいな明るい寺が存在した。そこには雄一と同じ幼稚園に通う同級生がいて、彼と雄一はとても仲よくしていた。洋一くんという名前で、雄一の名と発音が似ているので、幼稚園でよく間違われた。


 洋一くんのお母さんは、ピアノの先生をしていた。雄一は母の意向で、無理やりピアノを習うことになった。洋一くんのお母さんはとてもきれいな女性で、いつもお洒落なパンタロンをはいていた。今では「パンタロン」などとというものは、存在しないと思われるが。

 メトードローズというピアノの教則本をもとに、雄一はピアノの基礎を習った。薄いピンクの表紙だった記憶があるが、どんな音符が並んでいたのかは思い出せない。思い出せないが、洋一くんのお母さんにピアノを習ったことがきっかけで、高校生の途中まで惰性でピアノを続けることができ、楽譜が読めるようになったのはありがたいことだった。


 洋一くんの家はお寺だった。家がお寺、ということの意味は雄一にはわからず、毎日お寺の広い敷地内で二人で遊んだ。大きな石のテーブルのようなものがあり、表面はぴかぴかで、人間の足の裏の絵が彫られていた。大人になってからぼんやりと、あれはお釈迦様の足の裏の図だったのだなと思い起こす。詳しいことはわからないが、釈迦の足の裏には模様があったとか。そして洋一くんがお寺の子だということは、お父さんはお坊さん、つまり住職だったということなのだろう。

 ただ不思議なことに、雄一と洋一くんが通う幼稚園は、キリスト教会の付属幼稚園だった。当時は不思議には思わなかったが、のちに風の噂に洋一くんが中高大学一貫のキリスト教主義学校へ進学したと聞き、「家はお寺なのに、ミッションスクールが好きなのだな」と首を傾げた雄一だった。


 洋一くんのお寺の敷地は、とても明るく、そして白かった。まぶしいほどに白い石が敷き詰められた地面に、白いお寺の本堂。お寺なのにお寺らしくない明るさがあり、雄一はよく遊びに行った。目の前は大きな霊園だったが、そのお寺はまったく陰気くささはなく、気持ちのいい空間なのだ。

 洋一くんが今なにをしているか、雄一はまったく知らない。風の噂による消息は高校卒業あたりで途絶えたし、あくまでも風の噂であって、本人には会っていなかった。ただ寺というものは、そう簡単に引っ越すことはない。雄一はインターネットで、当時住んでいた社宅の住所を入力し、最寄りの寺を探してみた。便利な世の中になったものだ。

 洋一くんの寺はあっさりと見つかり、多くの写真も見ることができた。相変わらず白く明るい様子だ。社宅は2丁目9番地だったのだが、寺は2丁目7番地と出ている。ネット上のマップを見ても、この位置関係で間違いない。都心の一等地にある立派な寺だ。しかし住職の名前は記されておらず、洋一くんが寺を継いだかどうかは定かではない。

 都心にほど近い場所に住んでいる雄一は、ふとその寺へ行ってみようかと思いついた。が、すぐに頭の中で却下した。行ってどうなるというのか。洋一くんが自分のことを思い出してくれるかもわからず、洋一くんが住職であるかも不明で、行ってみたからといってなにもプラスにはならないだろうと判断した。


 思い出すのは、洋一くんのお母さんからピアノを習った小さな洋間だ。その部屋は本当に小さく、グランドピアノでいっぱいになっていた。

 洋一くんのお母さんの声もよく思い出せないのに、彼女の白い横顔は覚えている。なんのためにピアノを弾かなければならないのかもわからないのに、メトードローズという教則本の名前だけは覚えている。洋一くんの苗字は山下といった。お母さんはなんという名だったのだろう。一度も顔を見たことのないお父さんは、やはり丸坊主だったのだろうか。

 人生の半分を過ぎた自分が、どうしてこんな小さな頃のことを思い出すのか、雄一にはわからない。


 大きな大きな墓地は、しんと静まりかえっていて、怖かったような気がする。ときおり「変質者が出る、幼女を墓の影に誘い込んでいたずらする輩がいる」との噂が立った。噂は本当で、同じ幼稚園の女の子が被害に遭ったとも聞き、嫌な気持ちになった。

 雄一の心の中で、墓地とほんの少し繋がった記憶がある。

 幼稚園の同級生が、ある日やきいもを買いに出かけ、帰り道に交通事故に遭って亡くなった。墓地の近くの路上だった。死んだのは男の子だ。名前は記憶にない。ただ事実を覚えている。翌朝のお祈りの時間に、彼のことが悲痛に祈られた。死ぬという意味もわからない幼稚園児だが、「なにかよからぬことが起こった」という陰鬱な気持ちが沈澱していった。

 名前も思い出せない、幼くして亡くなった彼は、どこの墓に眠っているのだろうか。洋一くんちの隣の墓地だろうか。それともまったく違う墓地だろうか。ともに卒園するはずだった彼は、幼稚園児のまま、この世から取り去られた。


 大人になり、周囲に死が多くなった。もっとも身近な父も死んだ。死ぬということの重さと不思議さを、雄一はいつも感じている。誰にでもいつかやってくる、その瞬間。自分のことよりも、認知症の母が気がかりで、一番若い妹が気がかりだ。白いお寺で遊んでいた無邪気な時代はもう返らない。これからは、具体的に実地で死に向き合う世代となってしまった。

 洋一くんは、お坊さんになっただろうか。この世の苦しみを感じながら、心の平安を求め説く宗教者となったのだろうか。

 もしもそうならば、彼に会ってみたい。自分を覚えていなければ、もう一度、出会い直したい。あの白く明るいお寺に、また足を踏み入れたい気持ちが強くなる。

 雄一は今度の休日に、やはり行ってみようと決めた。少し覗くだけでも。お寺ならば、くるものは拒まないだろう。懐かしいあの街へ、足を運んでみよう。

 なんの慰めも、与えてはくれないかもしれないけれど。





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