ぶどうのジュース
銀行の支店長をしていた父のもとへは、毎年たくさんの中元や歳暮が送られてきた。高級な酒が多かったが、下戸である父にはなんの価値もなかった。東京で大学生活を送っていた雄一は帰省の際、それらの酒を持って下宿へ帰り、友人たちと酒盛りをしたものだった。思えば大学生には贅沢すぎる酒ばかりだったので、大人になってから申し訳なく感じた。
その夏も、雄一は帰省していた。ひどく暑い夏だった。社会的地位とは怖いもので、自宅へは山のように中元が届いていた。以前の社宅ではこれほどの数は届かなかったが、支店長となると途端に贈答品が多くなる。家中の部屋に大きな箱が積み上げてある。特に家の最奥にある妹の真理子の部屋は、格好の贈答品用物置に成り果てていた。真理子は両親と共に大きな部屋で眠るので、あまり自室を使わない。そのかわり、帰省すると雄一の寝室は真理子の部屋になるので、雄一は中元や歳暮に囲まれて眠ったものだった。
勝手口に届いたのは、巨峰のような色のぶどうの箱。差出人は聞いたこともない団体の名前だったが、父によると取引先の宗教法人だということだった。路面電車の終点にほど近い雄一たちの町から、さらにバスに乗って山奥に向かっていくとある、新興宗教団体らしい。そこの畑で作られたぶどうであるとのことだった。
ぶどうを洗って食べてみたのは、翌日の昼のことだった。雄一はぶどうの皮をむくのが面倒で、そのまま口の中に放り込む。母と真理子は丁寧に皮をむいて食べた。
「甘くないよ」
「そうね、あんまりおいしくないわねえ」
真理子と母が口々に言い出す。雄一も正直なところ、かなりまずいと思った。皮は苦くて、中身も甘くない。種をティッシュに出して、一粒だけで食べるのをやめた。母は「もったいない」と言いながら、我慢していくつか食べた。真理子は雄一と同様に、一粒で食べるのをやめていた。
しばらくの間、ぶどうは冷蔵庫に入ったままで放置された。家族全員、まずいぶどうをわざわざ食べる趣味もなく、ぶどうは忘れ去られたかと思われた。
東京の大学での友人が帰省の途中で近くまで来ているというので、雄一は彼と会うために街中まで出ていた。普段からよく会っているのに、帰省先で友だちと会うのは初めてだなと思いつつ、彼とともにお茶を飲んで食事をして、「また東京で」と別れた。別れ際に「親父さんの酒が余ってたら、また持ってこいよ」と言われ、苦笑した。
少しばかり酔っ払って遅く帰宅すると、パジャマ姿の真理子が台所でなにやら黒い液体を飲んでいる。不気味に黒く、魔女の作り出す飲み薬かなにかのようで、雄一は少し焦った。真理子はまだ小学生だ。親が眠っている間に、変なものを飲んでいたらいけない。
「おい真理子、まだ起きてるのか。なに飲んでんだ」
真理子は唇の周りを小さな舌で舐めながら、大きな目をぱちぱちと瞬かせる。
「ぶどうジュースだよ」
「ぶどうジュース?」
「まずいぶどう、お母さんがジュースにしたの」
冷蔵庫から、真理子は瓶を取り出した。黒い薬みたいなものがたくさん入っている。食器棚から出したコップに、どす黒い液を少し注ぎ入れ、水道の水をさらに注ぐ。スプーンでくるくると混ぜ、雄一に差し出してきた。
「これ。おいしいよ」
「あのぶどうか、すごくまずかったやつ」
「そうそう。お母さんが煮詰めてジュースのもとにしたら、ものすごくおいしくなった」
黒々としたジュースを、雄一もひと口飲んでみた。確かにとてもおいしい。驚くほどいい味だった。雄一は驚いた。
「うまいな、本当に」
「でしょ。あんなにまずかったのにね」
喉の渇いていた雄一は、一気に飲み干してしまった。もう一杯飲もうと瓶に手を伸ばすと、真理子が言った。
「コップに三分の一くらい入れて、水で薄めるの」
「カルピスみたいだな」
「濃すぎるとおいしくないよ」
言われた通りに作ってみると、少しばかり濃くできてしまった。雄一はさらに水を足して、ごくごくとぶどうジュースを飲み込んだ。
「お母さんはもう寝たのか?」
「うん」
「お父さんは?」
「まだ帰ってきてない」
仕事が忙しく、つきあいばかりの父は、ほとんど家にはいなかった。日曜日ですら家にいたことはなく、平日に帰宅していても深夜に客から呼び出されて出かけることもあった。雄一はぼんやりと、自分自身も社会人になったら、あのような生活になるのだろうかと不安を抱くことが多くなっていた。
真理子が大きなあくびをしている。
「もう寝なさい。遅いから」
「お兄ちゃんは?」
「お兄ちゃんももう寝るから。あ、ちゃんと歯を磨いてからだよ」
「はあい」
真理子の小さなおかっぱ頭が台所から消えると、雄一はぶどうジュースの三杯目を作り、台所の椅子に腰かけた。酒のようにちびちびとジュースを楽しみながら、あのまずいぶどうをこんな風に変身させるなんて、母親は魔法使いのようだなと感心した。
真理子が歯を磨いて、うがいをする音が聞こえる。夏休みだから、宵っ張りになっているのだ。宿題をする様子もない。算数の苦手な真理子のために家庭教師をしろと両親から言われても、雄一はうまく教えることができず、残念な思いをしていた。
「歯、磨いたら、目が覚めちゃったよ」
真理子は台所に来て、遊びたがる。雄一は首を横に振って言った。
「だめ。ちゃんと寝なさい。またラジオ体操に遅れちゃうから」
「真理子! 早く寝なさい! なにやってんの!」
背後から来た母が、厳しい声で怒鳴りつける。真理子は嫌な顔をしながら、寝床へと向かっていった。母はトイレに起きてきたらしい。
「遅かったわね。さっさと寝なさいよ」
雄一まで叱られてしまった。
飲みかけたぶどうジュースを空にして、コップを流しに置く。雄一はトイレの中の母に声をかけた。
「お母さん、ぶどうジュースおいしいね」
「おいしいでしょ、そのまま食べられないならジュースにしてみようと思ったのよ」
「たくさんあるの?」
「たくさんあるわよ。どんどん飲んでね」
「ありがとう、おやすみなさい」
「はい、おやすみなさい」
トイレを流す水音を背に、雄一も真理子の部屋へ向かう。帰省中は雄一の部屋だ。
時計を見ると、深夜一時を過ぎていた。服を脱ぎ捨ててパジャマに着替え、布団に寝転がる。枕元に置いてある線形代数の本をパラパラとめくる。大学で数学をやっている雄一の愛読書だった。この本の著者は母の親友の夫で、高校時代に家族で遊びに行って、質問したこともあった。雄一は数学がとても好きだ。夢の中で数式を解いていたことすらある。
明日は本屋に行って、他の数学書を探してみようか。数学の世界に旅立とうとした瞬間、歯を磨いていないことを思い出した。起き上がって洗面所へ向かい、歯を磨いた。うがいをしてタオルで口を拭ったら、玄関から父が帰ってきた音が聞こえてきた。父はそのまま慌ててトイレへ駆け込み、吐いている。おそらく客先で酒を飲まされてきたのだろう。
トイレの前から声をかけようとしたら、母が起きてきた。父に駆け寄り、「大丈夫ですか」と心配している。そして母は雄一に、「早く寝なさい。お母さんがやるから」と少し大きな声で言った。
部屋に戻り、電気を消して布団に入る。暑かった。雄一も少し酒が入っていたが、もうすっかりさめていた。ぶどうジュースが効いたらしい。
数式の世界へ渡る前に、雄一は眠りについた。どす黒いジュースをおいしそうに飲むおかっぱ頭の真理子が、かすかに夢に出てきたような気がした。
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