庭の木戸

 廃墟のような壊れかけた木戸が、庭の塀に設置されていた。灰色の塀に囲まれて、色あせた小さな赤茶色の扉が存在している。扉の向こうになにがあるのか雄一はわからず、どうにかしてそれを開こうと、毎日さまざまな場所をいじくっていた。

 扉の近くには小ぶりな木が生えていて、その木に登れば扉の向こう、すなわち塀の向こうが見えたはずだ。だが雄一はあまり力がなく、木登りが苦手だった。遊びにきた友だちは簡単に登って向こう側を眺めているのに、雄一だけは見ることができなかった。悔しさも恥ずかしさもあまり感じることはなく、ただ向こう側を見てみたいという気持ちだけがあった。

 扉を意識し始めてから何週間が経過しただろうか。そして扉の周囲をいじくり回して何日がたっただろうか。動かなかった鍵が突然、ガタンと音を立てて横にずれた。鍵の周辺をああでもないこうでもないと触っていた雄一は、思わず目を見張った。やっと開いた。これで扉の、塀の向こうが見られる。おそるおそる木戸を右手で押した。

 木々の影から先を見つめると、薄緑色の芝生が広がっている。数歩だけ進んでいくと、大きな屋根が見えてきた。どうやらどこかの家につながっていたらしい。誰の家だろうか。雄一はなぜだか怖気づき、すぐに踵をかえして木戸へと戻る。木戸をくぐって帰宅する前にもう一度振り返ってみると、なんとなく見覚えのある門のようなものが見えた気がした。雄一は慌てて木戸を開けて自分の庭に帰り、元どおりに木戸を閉じた。だが戸の鍵は完全に壊れて、前のようにきちんと施錠はできなかった。

 雄一は次の日もその次の日も、木戸をくぐって知らない人の庭を歩いた。広い庭で、一度も誰かに見つかることはなかった。だが数日後、その庭に犬がいることがわかった。犬に気づかれる前に、雄一は大急ぎで駆け戻った。

 見覚えのある屋根の形、門の形、そして犬。雄一はようやくその家の位置がわかった。通学路の途中にある入江さん宅だ。雄一の家からぐるりと回ってしばらく歩く距離なのだが、互いの庭の奥でつながっていたようだ。入江さんの家は大邸宅で、かなりのお金持ちに見えた。その入江さんの家とつながっているなんて、雄一はとても不思議な感じがした。


 それから一週間ほどがたった頃だろうか。雄一が学校から帰ってきて、編み物をする母のそばで本を読んでいたら、いきなり庭で犬の鳴き声が聞こえてきた。驚いた母が慌てて縁側に出てみると、庭のど真ん中に柴犬が立ってワンワンと吠えている。

「まあ、どこの犬? どうやって入ったのかしら」

 母は困った様子でしばらく犬を眺めていた。

 雄一は母のそばに立って、告白すべきかどうか悩んだ。あの犬は入江さんちの犬だ、犬が入ってきたのは僕が木戸を壊したからだ、と。母が困っていたので、雄一は仕方なくこのことを告白した。母は特に怒ることなどなく、犬はそのうちにまた木戸から自宅へと戻っていった。

 犬がいなくなったところで、母は壊れた木戸に紐をくくりつけ、戸を閉じてしまった。また犬が入ってこないように。


 日曜日の午後、近所へ買い物に出たら、中年の男性が柴犬を散歩させていたのを見かけた。雄一はレジ袋をぶら下げたまま、ぼんやりとその犬を眺めていた。あの日、庭に侵入してきて吠え立ててきた犬とは異なり、きれいな洋服を着せられて賑やかな柄のリードでつながれている。入江さんの犬はなにも着てはいなかったし、当時は犬に服を着せるような習慣はなかった。入江さんの家では、犬は広い庭で放し飼い同然になっていたのだろう。だから雄一の家の庭までたどり着いてしまったのだ。

 雄一の実家では、小さなハムスターと半分野良のような猫を何匹か飼っていたが、犬は一度も飼ったことがない。入江さんの犬が吠えてきたことで、雄一自身は少しだけ犬が苦手になったかもしれない。かわいいとは思うが、自分で飼いたいとは思わない。

 父は動物嫌いだった。母は動物が大好きだった。妹の真理子はどちらでもなさそうだった。雄一の好きなものはむしろ昆虫で、犬や猫も好きだが、いずれにしても大人になったらどうでもよくなった。生き物に対する感度が落ちてきた感覚がある。

 ただ、雄一はなぜか、蛇に好かれた。自然の多い場所だったので、庭でも道でもよく蛇が出た。雄一自身は意識していなかったが、真理子から「お兄ちゃんと一緒だと蛇に会う確率が高い」と何度か言われた。雄一も結構蛇が好きだったので、悪い気はしなかった。毒蛇に好かれたわけではなかったので、ほっとした。

 東京の真ん中にいると、犬猫は見かけても蛇は見かけない。道のど真ん中にとぐろを巻いていた青大将の姿が、なんとなく懐かしいと思った。


 美里と結婚していた頃、猫を飼いたいと言われたことがあった。マンションだったが、みんな部屋で小型犬や猫を飼っていた様子だった。雄一は美里の意見を否定した。猫は飼いたくなかった。

「自分よりも早く死んでしまうから」

というのが理由だ。

 半分野良の猫たちを飼っていた子ども時代、猫はすべて早く死んでしまった。動物に死なれるのはつらかった。彼らも立派なひとつの「命」なのに、人間の勝手でペットにされて、人間に看取られるのは本意なのだろうかと思ったのだ。野良は野良のまま死にたくはなかったかと感じた。

 猫を飼わなかったから離婚したわけでもないが、雄一は、もしも猫を飼っていたら未来が違ったかもしれないと空想してみる。どんなに空想しても、考えても、目をこらしても、離婚して別れた彼女は帰ってはこない。


 ポケットのスマホが振動したと思ったら、妹からのメッセージだった。次回、母の施設に持っていく荷物が多いから、手伝ってほしいということだった。その場で日程調整をして、用事は完了した。

 老人福祉施設で、ときたまアニマルセラピーを取り入れるところがあるという。動物の好きだった母にはぴったりなのではないかなと、雄一はふと思う。テレビでたまにそのような場面が流れるが、果たしてどれくらいの施設が導入しているのだろうか。父のような動物嫌いの老人もいるだろうから、難しいのかもしれない。

 もしも自分が高齢になって施設に入ったら、犬や猫に会いたいだろうか。それほど会いたくないと思ったりする。きっと自分は、思ったよりも動物が嫌いなのかもしれない。マンションの玄関の鍵を開けながら、雄一は美里のいない部屋を眺める。

 犬でも猫でもいい、もしも飼っていたら。いや、もしも。もしも子どもがいたら。想像してもなにも変わらない、意味のないことを、脳内で繰り広げる。疲れている。レジ袋を放り出して、ベッドにどさりと横になる。

「子どもはいらないって選択したんじゃないか」

 つぶやいて、目を閉じる。結果的には自分自身の心が少し病んでしまったから、子どもは授からなくてよかったのだ。


 このままひとりで生きるのだろうか。


 それが嫌なわけではないが、どこかしらむなしい。人生を半分以上終わらせてしまったのに、まだどこかに諦めの悪さが残っている。

 心の中の庭の真ん中で、柴犬が怒ったように吠え立てた。




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