未完成な細胞
鹿島 茜
いちダースのサイダー
古びた勝手口のドアを開いて、6本のサイダーが入った箱が持ち込まれる。運ぶ人は常に同じ人物だったのか記憶にないが、持ち込まれるサイダーの数はいつも12本だった。西からの太陽を背に受けて、逆光になった顔はよく見えず、おそらく力持ちの男性であったことだけは想像できた。
12本のサイダーは毎週、父のために配達された。甘いものが好きな父は、自分自身の中に「流行」を作り上げ、一時期はサイダー、一時期はビスケットと気に入ったものを食べたり飲んだりしていた。その時期に父の中で「流行」していたのは、昔懐かしいサイダーだった。父のサイダーを勝手に飲むことはしなかった。父の楽しみを奪うようで気が引けたからだ。そして雄一はサイダーの炭酸が好きではなかった。
古い日本家屋は日中でも暗く、雄一は自室に行くことすら好きではなかった。いつでも家の中央にある大きな部屋にいて、母の近くで本を読んでいた。また時には、家の北側に当たる応接室で、クラシックのレコードを聴いた。父の書斎でもある応接室はひんやりとしていて、夏場は気持ちがよかった。
応接室から少し離れた広間で眠っていた雄一は、デスクでサイダーを飲みながら新聞を読む父の姿をよく覚えている。甘いものと煙草のハイライトを好んだ父は、酒が一滴も飲めなかった。大人になってから試しにサイダーとハイライトを合わせてみた雄一は、そのまずさに深く後悔することになった。
勝手口というものは、昔の日本家屋には必ずあったものだ。しかし現在は少なくなった。狭い都会では多くの人がマンションやアパートに住まい、大きな一戸建て住宅でも勝手口のある家はあまりないように感じられる。
「そうかしら。ある家もあると思うけど」
妻の美里は洗濯物をたたみながら、雄一の言葉に首を傾げた。急に申し訳なくなり、雄一は洗濯物に手を出した。自分の下着のいくつかを適当にたたみ、引き出しにしまった。
「勝手口とか裏口とか、ないんじゃないのか」
「私たちが知らないだけで、ある家にはあるわよ」
結婚して2年が経つが、夫婦の関係はあまり良好ではなかった。父の真似をするように成績のいい大学を出て、都内の銀行に勤めるようになったが、雄一は精神的に病んで仕事を辞めた。父と同じような人生ではなかったと、どこかで比較している自分がいた。同じ銀行に勤めていた美里は、今も同じ部署で働いている。雄一はそろそろ離婚の二文字が出てもいいかもしれないと感じていたが、美里のほうはまだそこまで深刻ではないようだった。
「勝手口のあるような大きな家に住みたいか」
「私が? 別に。広いと掃除が大変だし」
「そうだよな」
中央線に乗って15分、さらにバスに乗って10分の小さな街に、二人はマンションを借りて住んでいた。
雄一は急にサイダーを飲みたくなった。喉に痛いほどの炭酸の刺激が、ふと恋しくなった。ビールの炭酸ではなく、サイダーの甘い炭酸がほしかった。
「ちょっとコンビニ行ってくる」
「なにか買い物?」
「サイダー」
「じゃあ、ついでに卵と豆腐も買ってきて」
鍵と財布をつかんで、雄一は玄関のドアを開いた。西日が強く差し込んできて、目の前にサイダーの箱を持った配達人がいるような錯覚に陥った。勝手口で「ご苦労さまです」と声をかける母の姿も見える気がした。母はいつもウエストから下だけを覆うサロンエプロンをかけていたことも思い出した。胸から全身を覆うエプロンをなんと呼ぶのか、雄一は知らなかった。
コンビニエンスストアに入り、狭い店内をベルトコンベアが動くように歩く。決まった導線で、最初に卵を取り、次に豆腐を取る。なんとなく目に入ったポテトサラダや枝豆もカゴに入れ、多少の罪悪感を覚えながらポテトチップスを放り込む。レジに近づいたところで、清涼飲料水のコーナーが待ち受ける。雄一は他の客の邪魔にならないよう身体を捩りながら、目当てのサイダーを探した。同じ銘柄のサイダーは売っているのだが、昔のような薄いブルーグリーンのガラス瓶ではなくペットボトルだ。一抹の寂しさを感じつつ、500mlのボトルをふたつ手に取る。
あの頃、勝手口へサイダーを運んできた人は、どんなに重かっただろうかと考えた。おそらく箱の中身はサイダーが6本だろう。6本入りの箱をふたつ運んできたはずだ。ペットボトルではなくガラスなので、当然ながら重いに違いない。商店街の酒屋かなにかで定期購入していたのだろう。
レジで会計を済ませて外へ出ると、空が朱く染まっていた。明日もまたいい天気になる。サイダーのボトルを取り出してキャップを握り、力を込めて回す。プシュ、と音がして、炭酸の蓋が開かれる。溢れ出さないかと一瞬どきりとしたが、サイダーが漏れることはなかった。口をつけてグイと飲むと、喉に痛い炭酸が感じられる。
「甘すぎるな」
つぶやいて、雄一はのんびりと帰宅した。
鍵を開けて玄関に入ると、カレーの香りが漂ってくる。カレーライスか。取り立てて好きなわけでもないけれど、嫌いになどなれない、憎めないやつだ。雄一は母と二人で食べたカレーライスを、ぼんやりと思い出していた。勝手口に近い台所の中のテーブルで、夏休みのお昼に二人で食べた。
「おかえり。卵と豆腐も買ってきてくれた?」
「うん」
「ありがと。あっ」
差し出したレジ袋の中を見て、美里が声を上げる。
「つぶれてるよ、卵」
「えっ」
覗き込んでみると、無粋な詰めかたをしてあるために、開栓していないサイダーのボトルで卵のパックがつぶれていた。急いで中を確かめると、6個入りの卵のうち3個が犠牲になった様子だ。
「ごめん。気づかなかったよ」
「仕方ないね、お店の人の詰めかたがね」
「おれがもっと注意して見てればよかった」
美里が壊れた卵を見つめて、口の中でつぶやく。
「はかないね」
雄一はふと嫌な気持ちになった。
「卵が?」
「なにもかも」
「なにもかも、なんだよ」
「私たちも、卵みたいなものかも」
「だから、ごめんって」
台所で離婚を切り出されるような気がして、雄一は焦った。
「いいよ、モノは壊れるものだしね」
「買い直してこようか」
「今日は卵、使わないから」
つぶれた卵のパックと豆腐を両手に立ち上がった美里は、「さっさと手、洗ってきて」と、雄一を台所から追い出す。ポテトサラダと枝豆、ポテトチップスとサイダーが雄一の手に残された。レジ袋をテーブルの上にぱさりと置き、洗面所で手を洗ってうがいをする。喉に残ったサイダーの甘さが、苦い水道水の味で流されていった。
テーブルに戻って、またサイダーを飲む。炭酸が少しずつ抜けていく。ポテトチップスは買わなくてよかっただろうか。ポテトサラダや枝豆も不要だったかもしれない。
ただ、サイダーが飲みたかっただけなのに。
炭酸が喉にしみて、涙が出そうになる。カレーの香りが強くなる。時間が巻き戻る。あの、勝手口のサイダー。サロンエプロンの母。甘いものが好きだった父。そして自分はなぜ、この女性と結婚したのだろう。
カレーライスができあがった。母とは違う、微妙に違う妻の味。
「おいしいね、今日も」
にっこりと笑って語りかけながら雄一は、なにかが卵のようにつぶれていくのを感じていた。
ただ、サイダーが飲みたかっただけなのに。
父は死んだ。母は老いた。自分は病んだ。妻はどうか。
西日を背にサイダーを配達してきたあの人は、今なにをしているだろうか。
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