糸遣いの少女ヘレナは幸いを手繰る
群乃青
父の土下座
「すまない、ヘレナ、クリス。デイビッドに逃げられた……」
父が、土下座した。
「……やっぱり……」
「そうなるよな」
ヘレナと弟のクリスは、窓から冷たい夕日の差し込む食堂で父のやや寂しい光を放つつむじを眺めてため息をつく。
ブライトン子爵家は困窮していた。
いや。
父、ハンス・ブライトンが『親友』の事業の保証人になり見事に踏み倒されたため、さらに極めたこととなる。
一応、止めたのだ。
必死で止めた。
今度踏み倒されたら、もう後がないぞと。
不安しかない現況を懇切丁寧に説明しようともした。
しかし、父にとってデイビッドは『学生のころからのかけがえのない親友』だった。
学生時代が一生の中で一番輝かしい日々だったらしい父はその思い出を宝にし、そろいもそろってろくでなしに成長した彼らにかかわる忠告には必ず耳をふさぐ。
頼られたら嬉しくなり、鴨がネギと鍋と薪まで背負っていく勢いではせ参じ、跪いてすべてを捧げる。
そして、ものの見事にすべてを持っていかれるのだ。
もちろんその後『ご学友』は、消息不明になるか、踏み台にして栄えたのちはなかったことにするかの二択だ。
そして、ブライトン子爵家は祖父が経営しているころは侯爵家に匹敵するほど名を馳せ、五年前に母が亡くなるまではそれなりに裕福だった家をあっという間に傾けて、今や財政も名誉も風前の灯火だ。
にもかかわらず。
何度も何度も裏切られたにもかかわらず、父は学ぶことを拒絶する。
今回それを指摘すると半狂乱になり、「デイビッドはそんな男じゃない!俺たちを馬鹿にするなあっ!」と運悪くも手元にあったスープ皿を床に投げ飛ばしてくれやがった。
おかげでとうとう、予備の皿が一枚もない。
……なぜ、食事が終わってから家族会議を始めなかった。
ヘレナはしばらく、失ったスープ皿のことをときどき思い出しては後悔した。
父は普段、気が小さく、どちらかと言えば穏やかだ。
はっきり言って、気配が薄い。
しかし、『ご学友』に関わる案件になると豹変する。
もうこれ以上、数少ない家財道具が破壊されないことを祈るのみだ。
「……それで、どうなったのかしら」
一年前から、住み込みの使用人は一人もいない。
ヘレナが掃除洗濯食事など、自ら家事を行っている。
厩はあるが馬も馬車も売り払い、山羊と鶏が我が物顔で闊歩しており、これをヘレナ自ら絞めて捌いて燻製にし、売るか食卓に上げるまでになってしまった。
木の剪定に関しては姉弟ではしごをかけて木に登ったりして頑張ってみたりもしたが、色々限界でさして広くない敷地内はだんだんと森へ戻りつつある。
「お父様。たしか今回はこの家を担保にしていらしたわよね」
とうとう。
祖父が拝領した領土は名義変更され、私有地もすべて手放した。
美術品、装飾品、希少本の類は半年前にすべて金に換え、持っていかれた。
「もうさすがに潮時だよね……」
最近変声して深みを増したクリスの声が寒々しく床に落ちた。
「いや、そんな……」
父は、土下座のまま床を見つめ、ふるふると頭を振る。
「まだ……まだ、だいじょうぶだ……。これから」
ヘレナとクリスはテーブルに頬杖ついて父を見下ろしたまま、あきれ返る。
昔は、輝く金髪に切れ長の碧眼で学園屈指の美形ともてはやされた時期もあったらしいが、どうにも信じられない。
姉弟のどちらも、父に似なかった。
性格も、容姿も、何もかも。
芯のあるまっすぐな黒髪と青みがかった灰色の眼。
青白い肌。
よく言えば柔和、悪く言うならどこかぼんやりとした顔立ち。
華奢な身体。
さまざまなことが亡き母に似ていると懐かしまれる。
しかしそれこそが心のよりどころになってしまうのは、この状況、仕方のないことではないか。
「いやもう、金目のものないし」
クリスの手元には、今まで売り払ったものの目録がある。
それは、けっこうな数に上る。
「お皿もないし」
食器棚は綺麗に何もない。
すっきりしたものだ。
「お母様の遺品、何一つないし」
ドレスも指輪もうっかりそのままにしていたら、ヘレナに受け継がれることないままいつの間にか闇に消えた。
「ああ、家具も骨董価値のあるものはもうありませんよ」
ぎりぎり、応接室にテーブルセットはあるが、それは安物に挿げ替えられた。
「この家も持っていかれるなら」
「残すは爵位返上のみですね」
二人はこてんと首を傾けあいながら同意する。
そもそも、母が亡くなり父の転落が始まった段階で覚悟は決めていた。
まだヘレナは十二歳、クリスは十歳だったが、父が二人から子供らしい世界のすべてをぶち壊し、一足飛びに悟りを開かせた。
そして、その悟りきった脳で考える。
あのかっ飛ばしぶりでももった方ではないか。
五年なら。
「私たちは別に平民として暮らしても構いませんから、明日にでも引っ越し先を探しましょう。知り合いに頼んだらとりあえずの住居はすぐ見つかるはずです」
『デイビッド』の名が出た瞬間から、ヘレナはすぐ身辺整理にとりかかった。
惜しむらくはクリスが貴族専用の学校をやめねばならず、仕事も結婚も貴族としての特権すべてを望めなくなることだが、「そもそも似非貴族って陰で言われっぱでめんどくさかったから、かえって楽」と本人はあっさりしたものだった。
「いやいやいやいや!まだ、諦めてはいけない!方策があるはずだ!諦めたら人生終了だ!」
人生という難題に挑みつつげる男、ハンス・ブライトン四十歳。
「いや……。踏み倒された時点でとっくに終わって……」
息子のまっとうな指摘は、残念ながら彼の燃え立つ心にかえって油を注いでしまった。
「終わってなんかない!戦い続けるのが男だ!」
叫ぶなり勢いよく立ち上がり、うわああーと奇声を上げながら食堂から出ていった。
あっけにとられた子どもたちは、うっかり見送ってしまったことに気づいたが後の祭りだ。
「……何すると思う、あの人」
「……嫌な予感しかないね」
父はそのまま脱走し、家の中が一気に静かになった。
二人は、夕日差し込む部屋の中で天を仰ぐ。
「お母様……。早く父を……」
「なるだけ、早く、お願いだから」
早く、迎えに来てくれまいか。
さすがに皆までは言わない。
今はまだ。
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