第1話 初めての子育て

 B妻は混乱していた。


 ドラマなどで見たことがある。

 夜中に赤ん坊が泣き叫び、壁の薄いアパートの隣人から「うるさい! 今何時だと思ってるんだ!」と怒鳴られ、壁を蹴られる。

 テレビの中ではよくある光景だ。


 そのシーンを見た時、きっと隣人は赤ん坊が泣いている状況を見ていないから腹立たしいのだろう、とB妻は勝手に思っていた。お腹がすいているから泣いているのだとか、痛いからだとか、泣いている理由がわかれば怒鳴れないだろうに、と。

 

 それが、どうして目の前で、怒鳴って壁を蹴っているのが自分のA夫なのだろう?


 A夫とB妻は一緒に暮らしている、まごう事なき夫婦である。


 二人の前でこの世の終わりのように激しく泣いているのは、ようやく恵まれた子供AB1だ。


 一人目の子供の多くは神経質だという話通り、AB1はとても神経質だった。

 やっと寝ても、ちょっとした物音、かすかな変化(ずれた掛け布団を直す)程度で目を覚まし、泣く。

 夜でもB妻が抱っこしていないと寝ないくらい神経質だった。背中にスイッチがあるどころか、皮膚にセンサーがあるのではないかと疑うレベルだ。


 B妻は、とにかくAB1を泣かさないために、昼も夜も抱っこしていた。

 寝てくれたら家事ができる。でも、家事の音がうるさければ起きるので、家事も完璧にはできない。

 そうすると、A夫が当たり前のように言う。


「どうして一日中家にいるのに、なにもできていないんだ!」


 B妻は頑張った。

 

 AB1の世話の隙間時間でできる限り片付けた。

 昼間は台風が来たのか強盗が物色したのかという散らかり具合になるが、それをきれいに片付ける。

 そしてA夫が帰宅時にはオモチャが2~3個出ている状態にまできれいにする。

 それでも言われる。


「なんでこんなに散らかっているんだ! 片付けてないじゃないか!」


 昼も夜もない生活で、B妻の睡眠時間は、30分~1時間の細切れを合わせて3時間、まれに5時間あればいい方だった。

 昼間は子供の相手と家事をするので昼寝できない。

 「子供が昼寝している時間に親も昼寝すればいい」とよく言われるが、やっと家事ができる時間に寝ることはできない。

 夜も、布団に置くとAB1が起きるので、自分はAB1を抱っこしてタンスにもたれてうとうとしながら腕の中でAB1を寝かせた。


 B妻は椅子に座ったり、車や電車に乗ったりした瞬間に意識を失うくらい睡眠不足になっていた。

 あまりの睡眠不足から、夜、B妻が、泣いているAB1を前にぼんやりしていたときのことだ。

 

「泣いているじゃないか!」


 と、AB1を抱っこしたA夫が立ち上がったところで、AB1を落とした。

 布団の上だから大事なかったようだが、さらに激しくAB1が泣いたのは言うまでも無い。


「俺は疲れてたのに、お前が抱っこしろって言ったからだ!」


 B妻は後にも先にもなにも言っていないが、A夫はそう言い捨てた。


 泣き叫ぶAB1の耳元で「静かにしろ! 聞こえてんのか!」と怒鳴る。

 怒声を聞きたくなくて、寝室をわけたけれども、トイレがA夫の寝室近くにあるので、夜中に寝ぼけた子供を連れて行く時にやはり「うるさい!」と怒鳴られる。

 そのたびに、B妻は「やめて」「耳元で怒鳴らないで」と頼むが、「うるさいからうるさいって言ってなにが悪い!」と返される。


 夏は外が明るくなるのが早いからか、朝4時に目が覚めるAB1に絵本を読み、早朝から外に出て公園に遊ばせに行った。

 反対に、なかなか寝ない夜はAB1のために、一晩に20冊以上絵本を読み、一晩中ゆらしながらお気に入りの子守歌をうたった。


 AB1が歩いて出かけられるようになる頃には、A夫だけでAB1を外に連れ出そうとすると玄関にしがみつき、泣き叫んで嫌がるようになった。


 B妻は、初めての子供で、自分がうまく世話をできていないのが悪いんだろうと思っていた。


 しかしある夜、泣き叫ぶAB1に「うるさい!」と携帯電話を投げつけられ、当たったAB1は痛みにさらに激しく泣き叫んだ時、人に向かって物を投げたらダメだ、しかも当たって謝りもしないのは間違っている、とB妻は強く思った。

 子育てについての愚痴を言ったこともなく、怒鳴ったことのないB妻は初めて声を荒げた。


「謝ってよ!」


「うるさい! うるさいのが悪い!」


 (A夫は人としてどうだろう?)とB妻は思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る