11








 珍しく霧の晴れた朝だった。


 最近になってようやく慣れてきた通学路を小走りで行く。細かに周囲の情景に眼を配らなくても、自然と足が進むようになったのはいつからだっただろうと、直季はふと思った。


 目先のブロックに見慣れぬガーデンを発見して、ほんの一瞬歩みを止める。寒空の下、公園を覆い囲むようにして、霜柱とともに薄桃色の花がぽつぽつと咲いている。見慣れぬ、というのも――おそらく現在に限らず、ずっとこうして咲いていたのだろうが――ひどい霧が視界を阻んでいたせいで、いままで気づかなかったのだろうと直季は推測した。


 無意識に腕時計を見ていた。まずい。歩みを止めている時間はない。


 いつもならとっくに学校に到着している頃だった。


 決して寝坊をしたわけではなかった。普段なら前日に揃えている教材を、どういうわけかこの日に限って、朝になるまですっかり忘れていたのだ。


 大急ぎで教材を鞄に詰めること三分。鞄を肩に引っ掛け玄関を飛び出してから、必要な資料集を入れ忘れたことに気づき慌てて引き返し、再び玄関に向かうこと三分。さらに靴が上手く履けず手間取ることおよそ二分。合わせて十分にも満たないロスだったが、充分な痛手だった。


 始業開始時刻ぎりぎりに教室に入ると、すでにほとんどの生徒が席に着いていた。


 息を整えながら乱れた制服のネクタイを直し、椅子を引く。おはよう、と隣から低く声を掛けられた。


 おはよう、と返そうとして、同時に教室のドアがノックされた。


 一呼吸の間をおいて扉が開かれる。どこかぎこちなさそうに、異様に背の高い教頭教諭が顔を出した。


「……あれ、三黒先生は?まだ?」


 まだですよ。教壇前の生徒が返事をした。


「あれえ、おかしいなあ。今さっき、九組の教室に向かったと思ったんだけどなあ。見間違えたかな。いや、まだなら、よかったんだけど…」


「教頭先生?」わずかにタイミングを遅らせて、教室の担任である三黒が現れた。「どうしたんですか?」


「えっ、あっ。三黒先生、ちょっと――」


「なんでしょう」


「いいから、ちょっと」


 黒いファイルを器用に指先に挟んだまま、生徒に向けてひどく苦い貌をして見せた三黒を、教頭の腕が廊下に連れ出した。


 突然の事態に教室は静まり返っていた。完全に閉じられていないドアの隙間からぼそぼそと会話する声が聞こえる。はっきりと何を言っているのかはわからない。しかし断片的な言葉が直季の耳――おそらく生徒たちの耳にも――に届いた。


『……は、…過ぎるから、……』


『……ら……必要は…』


 何かを言い争うようなイントネーション。しかし声の大きさから、双方の教師とも、最低限に感情を抑えている様子が窺えた。直季の前に座る生徒が、隣に何かを耳打ちした。


 どん、と教室の外側から強く壁が叩かれるような音が響いた。


「もし……なら――」不意に声がクリアになった。「…我々は責任を負いかねますよ、三黒先生」


 急いで遠ざかる足音。続いて、静寂。


 寸分経って、再び大きく教室のドアが開かれた。


 教壇机の上に黒いファイルが投げられる。昏い眼光。まともに目が合い、直季はどきりとした。


「遅くなって悪かった。まず、知らせがある」よれたワイシャツの襟に手をやりながら、その口調は淡々としていた。「今日の四限目は自主になった。各自好きに使ってくれ」


 四限目?…素早く脳裏を巡らせる。四限目は、確か――。


 ふと壁に貼られた時間割表の{日本史}の文字が眼についた。


「先生…」小さく声がした。「今日、倉持先生は休みですか?」


「倉持先生は昨夜に亡くなった」


 遠くの教室で歓声のような蝉騒が沸き起こった。


 亡くなった…?あまりに唐突な言葉だったせいか、直季は一瞬その意味を把握することができなかった。


 直季の前に座る生徒が、伸びをする動作を一旦止め「マジかよ」と呟いた。


「死んだって…どういうことですか?」


「警察は自殺という見解で視ている。残されていた遺言は蕪雑なもので、おれにも真相はわからない。問題は、その内容というのが――」ちらりとその眼が腕時計ではなく、壁のデジタル時計を捉えた。「…霧の中で悪魔を見た、という主旨だったそうだ。わかっているのはそれだけだ」


 点呼をすることなく、目視だけでクラスの人数を確認すると、三黒はそのまま教室を出て行ってしまった。


 さらりと出た言葉に、直季は戸惑いを隠せなかった。


 悪魔。どこかで見た光景がフラッシュバックする。……濃霧に覆われた視界。薄闇に浮かび出るいびつな赤い文字。ひどく古ぼけた看板に書かれた{悪魔に注意}の文字…。


(――霧の中には悪魔が住んでるんだ)


 いつかの声が蘇る。


(――あんまり霧が深い夜には、見失い易くなる。だから……)


 ……だから?…あのあと、彼――阪上は、一体何を言おうとしたのだろう?


 何かが繋がりそうで、しかしそれを繋ぐ手がかりが、何なのかがわからない。


 時刻はすでに一時限目に差し迫っていた。凍っていた時間が動きだしたかのように、一斉に生徒たちが授業の準備のために席を立ち始める。


 ……えっ、また自殺?…


 うわー、マジかよ…。


(……また?)


 ひそひそと話し声が聞こえる中、煮え切らない疑問が直季の頭の中で膨らんでいた。


「――…この前、みんなで責めたからじゃない?」


 びっくりして声の方を見ると、髪をポニーテールに結んだ女子生徒――確か、三黒が顧問を務める吹奏楽部に所属している――が教壇を後ろに立っていた。「三回忌に行かなかったことを、あんなふうに、みんなで責めたから。その出来事があってすぐのことだし……それが原因だと思う」


「…何それ?」椅子の上で足を組んでいた生徒が苛立たしそうに口を開いた。「倉持を責めた、おれらが悪いってこと?おかしくね?仮にそれが原因だったとしても、もとはといえばあいつの非情な行動が元凶なんだから、それを責められるのは当然だろ」


「それでも、事実、先生を追いつめたのは、あたしたちってことじゃん」


「問題があったのはあいつの方だぜ?どうして正論を言った側が、そんな意味わかんねえ責任を負わなきゃならないんだよ?!」


 教室のドアが開かれた。


 数学の教材を持った三黒が再び姿を見せた。


「なんだ、うるせえなあ」教壇にテキストが放られる。数秒遅れてチャイムが鳴った。「どうでもいい雑談はあとにしろよ。さ、授業だ」


「いや、雑談っていうか、倉持先生の――」


「いまさら原因を追究することになんの意味がある?」かち。白い指が窓の金具を外した。「ただ彼が死んだという事実があるだけだ。死人はもう生き返らない。そんなことより数学だ」


 開け放たれた窓から冷気が流れ込んでくる。


 どこからかため息混じりに、「悪魔」という声が聞こえた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る