9
エンジンが掛かった車の助手席で、直季はひとり白い息を吐く。
点いたばかりの空調機が音を立てて稼働している。生温かい風がまっすぐに顔に当たり、冷え切った頬がわずかに体温を取り戻す。
運転席は無人のままで、直季はかれこれ十分ほど、冷たい座席の上で、この車の運転主を待っている。放課後になって不躾に渡された鍵を、おもむろに運転席のシートに投げた。
ウインドウの外は薄闇に満ちている。
煙のような霧の中からぼんやりと黒いシルエットが現れた。その影が、急ぐそぶりもなく、ゆっくりと近づいてくる。
ドアが開き、黒い影が運転席に乗り込んだ。車内とたいして変わらぬ冷たい空気が一気に流れ込む。
寒い、とその口が動いた。
「おい、なぜ空調機を点けない?」
「弱いのが点いてます、一応。エンジン掛けたら、勝手に点いちゃって…」
強い温風が頬を叩きつけた。急激な温度の変化で、みるみるうちにウインドウが曇ってゆく。すぐさま黒い腕が{曇止め}のスイッチをオンにした。
「出すぞ。シートベルトな」
「あ、はい」
シートベルトを締めると、振動がひとつ体を揺さぶった。直後、のろのろと車が動き出した。
どこまで見渡しても果てることのない霧が、今日も周囲を覆っている。こうやって、この人に家まで送られるのはこれで何度目だろう?と直季はぼんやりと思った。
静かな車内。タイヤの摩擦音だけが響いている。今日はなんのミュージックも流れていない。
「――倉持先生、今日残業してるぜ」
「…えっ?」
クラモチセンセイ。
不意に日本史の授業の出来事が蘇った。
「来週の模試のために、要点を集約したプリントを作ってる。熱心だねえ」
まるでひとりごとのようだった。
しかし直季には、なぜこの教師が今その話題を持ち出すのかわからなかった。
「賢い選択だよなあ」ちらりと、その眼がバックミラーを見た。「三回忌ねえ。第一、あんな形式だけの儀式に出席することに、なんの意味があるっていうんだ」
何かを言いたかったが、何を言えばいいのかわからなかった。
ただ脳裏には、「うわー、冷酷」という言葉が生徒から放たれた瞬間の情景が、しきりに再生を繰り返していた。
「なあ」曇止めヒーターのスイッチが入っている筈なのに、再びウインドウが曇り出した。「おれのことを冷たいと思うか?」
ゆっくりと三黒の横顔に眼を移した。
疑問形ではあったが、ある種断定的なその口調から、彼自身、肯定の意の返答を予期していることが窺えた。
「それは…」すぐさま答えを出せると思ったが、なぜか己の思考が判然としないことに気づいた。「……僕には、よくわかりません」
へえ、とも、ふん、ともつかぬ吐息だけの返事をして、真正面を向いて、にんまりと三黒は口もとを歪めた。
「ただ、なんていうか、先生のことを冷酷と言う人の気持ちは理解できるんです。なぜなら、倉持先生のせいで、自殺してしまった生徒がいる。そんな{特別な}三回忌を、{たかが}と一瞥するなんて――…」
思わず言葉が途切れる。
走行音がわずかに大きくなった。
「ふうん。一般論だな」
「……」
「正論てことだよ」
正論。
知らず眼が泳いだ。正論。端的で、あまりに淡白な表現。
「……そういえば、気になってたことがあるんですけど」
「うん」
「以前、事故で亡くなった被害者女性の葬式で、加害者に肩をもつような発言をしたって…本当ですか?」
おもむろにブレーキが踏まれた。「えっ?」
急停止に小さく体が跳ねる。
見ると一般道路の真ん中で、とくに注意するような交通標識は見当たらな――視界が悪いせいだけではなさそうだった――かった。
小さな舌打ち。続いて、ゆっくりと車体がUターンする。
「…道間違っちまった」
慌てて窓に眼をやるが、相変わらず外は深い霧に包まれていて、直季にはどう間違っているのかよくわからなかった。
「安心しろよ。一本間違っただけだから」
不意に車内ミュージックが流れ出した。
気怠いロック・ミュージック。どこかで聴いたことがある英語の歌詞。記憶を辿るまでもなく、それがこれまでにもこの車内に流れていた曲だと思い出した。
「…ずいぶん直接的に言ってくれるじゃねえか、ヒセキくん?」少しだけアクセルが踏まれた。加速する。「――所詮、人は人を表面でしか判断しない。うわべだけの断片的な真実を見て、すべてわかりきったような貌をして、善悪を判断する。そこに隠された真実があるかもしれないことを、考えようともしない。見えているものだけが真実じゃない。光に当たることのない真実だって存在する。だけど光は、当てようとしなければ、決して当たらない。ふん…そこがミソだな」
…見えない真実?
無意識にその貌を凝視していた。
ブレーキが踏まれる。いつしか車窓は見慣れた交差点に差し掛かっていた。
ぼんやりと目前にいびつな看板が現れた。ガードレールに隠れるようにしてひっそりと佇んでいる。よく見ると、年季を感じさせる黒ずんだ板の表面に、赤いインクで何かが書かれていた。徐々に距離が近づく。霧にかすんだ文字をようやく識別した時、直季は思わず己の眼を疑った。
『悪魔に注意』
看板には、そう書かれていた。
先生、と思わず口にすると、言わんとしたことが伝わったのか、
「……怪しいよなあ。いかにも」
と言って、三黒はにやりと唇を歪めた。
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