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 長い授業の日程を終え、ようやくして放課後になった時、直季はまたも三黒に呼び止められた。


「ヒセキくん。今日、この後ちょっと時間あるか?」


「――三黒先生!」


 なんと答えてよいのか迷っていると、直季の背中越しに数人の女子生徒が立ちはだかり大きく三黒の名を呼んだ。「この後?一体どこへ行くんですか?」


「あ、いや…」


「またサボりですか?先生が不在で、吹奏楽部はどうなるんですか!?」


「顧問の先生が連日不在なんて、マジありえないですよ!」


「もうすぐ大会もあるのに、先生は私たちなんて、どうでもいいんですか?!」


 代わる代わる生徒が声を荒げると、三黒は大袈裟に舌打ちをしてみせた。


「悪い、悪い。でもさ、きみたち大人でしっかりしてるから、先生の出る幕はないんだよ。指揮者も決まったことだし、彼女がいれば何とかなる」


「そういう問題じゃないんです!」


 とにかく、すぐ部室に来てください。


 長い髪をひとつに結んだリーダー格の女生徒が一刀両断し、背を向けた彼女の背後で「怖え」と三黒が呟いた。


「…部活、行かなくていいんですか?」


「ううん、いや。行くさ」


 何かを言い躊躇い、しかし次の瞬間には、じゃあな、と去り際に三黒の掌がぽんと肩に触れた。


 碑石。と、聞き慣れたクラスメイトの声が廊下に響いた。


「一緒に帰ろう。途中でちょっと寄りたいところがあるんだけど、付き合ってくれるか?」


 そう言うと、彼はBlu-rayの入ったケースをひらひらさせた。ぼさぼさの前髪の間から濃茶色の眼が覗いた。


 今時分とうに夕刻を廻り、空は赤く染まっていた。


 校舎を出て駅とは逆の方向に進む。十五分ほど歩いたところに、人工植林に囲まれるようにしてショッピングモールの灰色のビルが聳え立っていた。


 正面入り口からエスカレーターで三階分ほど上がったところに、ようやくレンタルショップの一角が見えてきた。


「こんなところにレンタルショップがあるんだ」


「寂れてるだろ。ここら辺じゃ、みんな駅前の方に行くからな」


「何借りたの?」


「Dark Moorのライブ」


「ふうん?」


「なんか食って行く?」


「あ、うん」


 レンタルショップを出ると、今度はエレベーターに乗った。幾つもの店の前を通り過ぎ、何とはなしについていくと、{ハワイアンカフェ}の前で不意に足を止められた。


「ここでいいか?」


「ハワイアンカフェ?」


「軽食系だったら、あとはマクドナルドか、モスバーガーしかないんだ。駅前ならほかにもあるけど」


「いや、ここでいいよ」


 中はガラガラに空いていた。


 店員に丁寧に案内され、入り口の近くの席に座る。


 何にする?と訊かれ、直季はメニューで適当に目についたものを指した。


「どれ?」


「この…ワッフルにマンゴーソース掛かってるやつ」


「おれ、アイスティー」


「えっ?それだけ?」


「ああ。おれ、甘いもの駄目なんだよ」


 じゃあなぜ{ハワイアンカフェ}でいいかと訊いたのか直季には謎だったが、眼の前の友人は何も言わず無造作にメニューを隅に避けていた。


 足早に店員がオーダーを取り、去って行った。


「……霧が出てきたな」


 今日は、早めに帰るか。


 ぽつりと目の前の男が言い、直季はその視線を追いかけるようにして窓辺に眼をやった。


「あのさ……阪上」


 名前を呼ぶと、一瞬彼は驚いたような貌をした。「霧がどうのってよく聞くけど…ひょっとして、何かの比喩?たとえば、何かの警告を暗に意味しているとか…」


 ……警告?警告なんかじゃないさ。


 目の前の貌が嗤ったような気がした。


「比喩か…」みるみるうちに乾いてひび割れた唇が弧を描いた。「…比喩と言えば、比喩になる。だけど、そのままの意味でもある」


「先生にも訊かれたんだ。帰り道がわかるかって。でも、僕にはそれがどういうことなのかがわからない」


「三黒に?」


 店員がアイスティーを静かにテーブルに置いた。


「わからないってことは」何もしないのに、表面の氷がカランと音を立てた。「それは多分、碑石がまだこの町に馴染んでないってことだと思う。おれが言うまでもない。この町に住んでいれば、いずれわかるようになる筈だ。だけど、稀にそうじゃないやつもいるって訊くけど……少なくとも、そういうやつに、おれは会った試しがない」


 まるで頭の中で渦が巻くようだった。


 混迷は少しも明けることはなく、煮え切らない渦がさらにとぐろを巻いてゆく。


「阪上」


 眼を合わそうとすると、やにわに逸らされた。「阪上は、霧の中を歩くことが怖いと思うのか?」


「……いや」その眼はアイスティーの表面を見つめていた。「おれは思わない。いや、厳密には、思う時はある。でも、怖いと思うのは特別おかしなことじゃない」


「どうして、ただの霧を怖がるんだ?」


 まさか、本当に帰り道がわからなくなるから?


 言うと、ふんと阪上は鼻で笑った。


「言葉を真に受けるなよ。…ただの霧?少なくとも、おれには口が裂けても言えない言葉だ。悪魔だよ。霧の中に、悪魔が住んでいるんだ」


「えっ?」


 頭の中はすでにぐちゃぐちゃだった。「…それも、何かの比喩?」


「比喩って言えば比喩になるのかもしれない。だけど、そう形容する以外に、おれは相応しい言葉を知らない」


 アイスティーが空になった頃、ようやくしてワッフルのマンゴーソース掛けが運ばれてきた。


「――碑石」


 言葉を失くしていると、フォークを渡された。


「それ、食ってみてもいいか?」




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