番外編:1981年のクリスマス③
公衆電話から事務所のエレナに一報入れることも叶い、最終バスにはだいぶ余裕をもって間に合った。
オルバーンハウからは鉄道に乗り換え、カール・マルクス=シュタットを経由してライプツィヒへ。ヒヤヒヤしていたが遅延もなく時間通りの運行だ。これならベルリン行きの終電も問題なく利用できる。
そのはず、だったのだ。
「ベルリン行きの終電? もう出ましたよ」
そうさらりと返されたのは、予定のプラットホームでいくら待っても電車の訪れる気配がなく、ちょうど通りかかった駅員に遅れているのかと問い合わせた時だった。
「えっ……え? もう出……えっ????」
「はい。始発は明日の5時になります」
「えっ、やっ、そんなはず……だってこの時刻に終電って、私調べて……!」
焦り焦り手帳を広げ、書き留めた終電ルートを示す。下調べではこれでよかったはずなのだ。だが駅員は手帳を一瞥するや、気怠げに頷いてみせた。
「あー、この終電は平日ダイヤのですね」
「へっ?」
「クリスマスなので。休日運行です」
「……はい」
魂の抜けた相槌を打つと、駅員はそのまますたすた歩み去る。彼女も早く帰りたいのだろう。なにせ今日はクリスマスイブなのだから。
そして一人取り残されたプラットホームで頭を抱えて蹲り、イングリットは悲鳴をあげた。
「あーーーー……なんで最後の最後で、私、こんな……あ”ーーーーー!!」
詰めが甘かった。そこに尽きる。
休日ダイヤなことくらい分かっていたはずだ。分かっていたはずなのに、なぜこんな初歩的なミスを。
嘆いていても始まらない。まずは善後策の模索だ。
先の駅員を捕まえ、他の駅経由で今夜中にベルリンまで行けないか問い合わせる。面倒そうな顔で曰く、ドレスデン行きなら出ているが、そこで取り残される可能性が高いとのこと。ドレスデンからベルリン直通の始発はここよりわずか遅いとも。
どのみち表向きは収監中の扱いのため、イングリットは故郷のドレスデン行きを禁じられている。そうなるとライプツィヒ発ベルリン行きの始発を使うしかない。
出発は5時と言っていた。ライプツィヒからベルリンまでは直行で約1時間半。アパートまでの交通を考慮して、帰り着くのはだいたい7時頃。
フレーゲルが起きてくる時間ギリギリだ。ベルリンの駅からタクシーで飛ばしてもらえばいくらかは短縮できるだろうが、やはり不安は残る。
エレナになにか頼もうにも、アパートには電話がないから意思疎通ができない。バス乗車前に事務所へ連絡した時が最後のチャンスだった。
何か策はないのか。考え続けろ。フレーゲルが目覚めるより先に、一刻でも早く帰り着き、少しでも確実にプレゼントを置くための、イングリットにできる最善を。
「……っく、しゅん!」
寒風への生理的反応で思考が途切れる。駅構内とはいえベンチは冷たい。
ライプツィヒ中央駅はとかく広々としている。半屋内のプラットホームも駅舎とほとんど境がない。駅に入って少し階段を上がればもう何連も並んだプラットホームだ。
いわゆる「中央駅」にありがちな構造だが、冬はひたすら冷えた。深夜、それもクリスマスイブに、空いている店などひとつもない。
夜が明けるまでの約6時間をやり過ごさなければいけないイングリットにとっては最悪だ。このままでは凍えてしまう。
「うう、どうしよう……」
肩を抱きながら自問する。真っ先に思いついたのはホテルだ。どこかしらの宿泊施設でとりあえず5時近くまで暖を取る。
しかし手持ちが心許ない。ニコルたちはお代などいいと言っていたのだが、感謝の気持ちでおもちゃ用の予算をすべて渡していた。ベルリンへの交通費を除けば大した額は残っていない。今の財布の中身でホテルに泊まれるかはかなり怪しかった。
それにこんな夜更けに当て所なく外を出歩くのも怖かった。DDRは飛び抜けて犯罪率が高いわけではないが、深夜の女性のひとり歩きが出来るほど安全とも言い難い。それ以前の問題としてパトロール中の人民警察に職務質問されかねなかった。
目先の結論としては、このまま駅構内で凌ぐしかない。
そう覚悟を決めて、上着のボタンを一番上まで締め、マフラーをスカーフのように頭へ巻きつける。あとはとにかく考え続けよう。サンタとしてプレゼントを渡す以上、イングリットには最善を求め続ける義務がある。幸い時間はたっぷりあるのだから。
考えろ、考えろ、考えろ……そう思い続けるのに、いやそこから一歩も先に進めないこと自体、たぶんシグナルだった。
「さむ……」
呟きが白く散る。身体は震えあがるのに、芯のほうはぼうっと熱のような気怠さを帯びていた。まぶたもなんだか重い気がする。
ぼんやりと察しはついた。長距離移動を繰り返した疲労が一気に襲ってきたのだ。胃の感覚などもはや摩耗しきっていたが、強行軍の都合上昼食も夜食もすっ飛ばしたので空腹までもが上乗せされている。
それらの結果がこの眠気と脱力感だとイングリットは分かっている。しかし、分かるだけだ。
(あ、これ、まず……)
かろうじて危機感の鐘を打ち鳴らす。睡魔という緩衝材の前には響かない。外皮が冷えていくのを感じながら、いっそ暖かいと思えるほどの疲労感に、意識はどんどん沈んでいく。
抗えない。加速度的に鈍っていく思考は、それでもたったひとつの意地を貫こうとする。
(プレゼント……ちゃんと、抱いて、ないと。落としちゃ、フレーゲルちゃ……)
膝の上に置いた包み。それを手のひらで不器用に包みこんで、その感覚を最後に、イングリットは目を閉じた。
「うっわあ。こんなとこで寝落ちるドジな部下、サンタに頼んだ覚えないんだけどなあ」
だからこれは夢か、あるいは幻の景色。
ぼやぼや鈍る視界を再び開いて、きらきら光のちらつく姿の正体は、思いつく限り二者択一だった。
「……てんし?」
「あっは、お迎えへの覚悟早すぎ。そんな期待してもこの程度じゃ死なないって、熱と風邪でダウンして年明けるまで寝込むくらいだわ」
いかにも軽薄なけらけら笑いはどうにも覚えがありすぎる。ならば正解はもうひとつの選択肢の方で、そしてやはり夢なのだ。「彼女」がここにいるはずない。
しかしプレゼントを抱きこむ手に、確かな体温が重なった。手袋越しなのにぬくもりが染み渡る。それで指先が凍えていたことを知る。
プレゼント包みを奪いあげると同時にイングリットの手を引いて、エレナ・ヴァイスのかたちをした夢は、少女のような唇を見知った風に歪めた。
「さーてと。んじゃ帰るぞ遅れんぼうのサンタさん。あんなクソガキに夢見せるような物好き、イングリットくらいしかいないんだからさ」
***
以降の記憶は虫食いだ。金髪の舞うエレナの背。車の扉。心地よい振動と子守唄のような騒音。
そして次に覚醒してようやく、イングリットはすべてが現実だったと理解した。
「あ、イングリット起きたな。おはよ」
「……おはよう、ございます」
暖房がきいている。どうやら車内のようだ。運転席にエレナ、助手席に自分。フロントガラスの向こうには無味乾燥な
「言っとくけどこれ以上は寝させないぞ。私が眠くなるし。誠心誠意話し相手になるよーに」
「はあ。あの、私が持ってた包みって」
「イングリットが処女懐胎……ハイハイ嘘嘘、コートの内側入れといた」
冷たい目線を外して見下ろすと、なるほど腹部が少し膨らんでいる。これなら走行中の振動でも取り落とさない。エレナも案外気を配ってくれているようだった。
とはいえ戸惑いは尽きない。本当に夢だった方がまだ分かる。
ザイフェンの時と同じ。都合が良すぎて、なんだかまだ信じられないのだ。
「大尉。ありがとうございます。助かりました」
「天使様って呼んでいーぞ、さっきみたく」
「あ、あれは寝ぼけてたのでノーカウントで……それはそうと、どうしてここに?」
「んー。イングリット、電話で終電の時間言ってたじゃん。優しく注意深い上司の私はイングリットの使ってた時刻表見たわけ。そしたら思っきり平日ダイヤだもんよ。今年一番笑ったわ」
「……」
「で、間の悪いイングリットのことだし、ロクに駅から動けてないし対処もできてないだろーなと。全部当たりだっただろアレ見る限り。ほんとイングリット部下にしてよかったわ、飽きない」
「ありがとうございます……でも別に、そう間が悪くなんてないですよ」
そう、これだけは誇って言える。
「今夜は二度も奇跡に巡り合ったので。私はたぶん、とても祝福されているんです」
その片方がエレナのことだとは口にしない。絶対にからかい倒してくるから。だからイングリットの胸のうちに、大事に大事にしまっておく。
フレーゲルの天使はイングリットがこの手で届ける。けれど今夜イングリットにもたらされた天使は、きっとこの救いようもなくずるい上司のことなのだ。
「あー祝福とか言った。イングリットさてはキリスト者? ダメだぞ社会主義者が宗教は」
「そこはクリスマス祝ってる時点で全国的に今更でしょう……そういえばフレーゲルちゃんとはどうしてました? 私定時までに帰れませんでしたけど、ちゃんと仲良くしてました……?」
「してたしてた。まあ私は正直どっちでもよかったけどさあ、イングリットのサンタ発言が意外と効いてたっぽいわ」
「私の?」
「まあ直接聞いたわけじゃないけど。こっちが隙見せてやっても自制してたし、サンタが来る日くらいいい子にしてようとか思ったんだろ多分」
「フレーゲルちゃん……」
胸の奥がきゅんと疼く。彼女も少なからず今夜に期待してくれているのだ。イングリットの言葉を信じてくれている。
それを思うだけで、今日ここまで頑張ってきてよかったと、心の底から報われる。
「いや正直浅知恵っていうか、フレーゲルにサンタ来るなら私にも来るじゃんってレベルに悪い子だと思うけど。そのへん不公平じゃないんですかーサンタさーん」
「大尉はまず歳を考えてください……フレーゲルちゃんについてはまあ、行いが時たま、時たま過激なのは褒められたことではないですけど。だから悪い子とは私には言えませんよ。
あの子にはまず心の傷を癒してほしいんです。サンタさんがそのお薬になるなら、私はいくらだってやりますよ」
「要は、心の傷とやらが治ればいい子になるって?」
「いい子でも悪い子でもいいです。あの子が苦しまないで済むのなら。
それに、いいか悪いか、それを決めるのはフレーゲルちゃん自身じゃないですか? 少なくとも私はそれが正しいと思いますし、そうあってほしいです」
そう、イングリットは自分で決めて自分で選ぶ。正しいことと正しくないこと、その狭間で最善を望む自分勝手な我儘こそが、イングリットの信念だ。
エレナだってそんなことは分かりきっているのだから、これはただの確認作業。暇潰しの戯れだろう。
「あっはは! そうだったそうだった、イングリットはそういうこと言うやつだったなあ。聞いた私がバカだった」
なのにこんなに楽しげに笑うから、エレナという女性はよく分からないのだった。
他愛無い話を続けながら深夜の高速道路をゆく。案内板のベルリンへの距離が等間隔で縮まっていく。
数時間のドライブの果て、東ベルリンに辿り着いた時には深夜2時を越していた。ヴァイセンゼー地区のアパートに戻れば2時半だ。あたりは聖夜に相応しく、しんと静まりかえっている。
互いの部屋の前でエレナと別れ、限りなく音を殺しながら扉を開けた。そろりそろりとダイニングに向かう。街灯の光がカーテンの隙からぼんやり入りこみ、窓際のクリスマスツリーの輪郭を浮かび上がらせていた。
後生大事に抱えてきた包みをその足元にちょこんと置く。なんとも気が早いことに、それだけで胸は達成感に満ちあふれてしまった。あとはせめて祈るだけだ。
(フレーゲルちゃん、喜んでくれるかなあ……)
今再び、自分の幸せを願う誰かの存在を、あの少女が信じられるようになることを。
***
翌日のクリスマス当日は、本当に幸福の一言だった。
フレーゲルはいつもより少し早く目覚めた。ダイニングに来たところでツリーの下に目をやって、昨日まではなかったプレゼント包みに動きを止める。ぎこちない動きで中身を取り出す。ガラス箱の天使をしばし見つめる。
やがて小さな胸にぎゅっと抱きしめ、扉の隙間から覗き見ていたイングリットは、すべての苦労が達成感へと昇華されていくのを感じたのだ。
そうして一年が経ったのだが、今に至ってもイングリットはあの歓びを忘れられない。
だから今年も意気揚々とサンタ役を担い、1982年12月24日深夜をこうして迎えた。
今年のご要望は毛糸の帽子。買ってもよかったが、イングリットはこれでも編み物は得意なのである。俄然やる気が出てひたすらに編み続けた。
冬場フレーゲルが常に身につけるコートに似合うよう、基調はベージュのアラン模様。縁には白いフェイクファーをつけて品の良さを演出した。きっと彼女に似合うはず。
抜き足差し足でダイニングへと忍びこむ。暗闇のダイニングは去年とまるで同じ景色。変わらぬクリスマスツリーの陰。
その足元にはしかし、去年どころか今日までなかった代物が、凝然と存在を主張していた。
手に取る。柔らかな包みと、封筒だ。
宛名は「サンタさんへ」となっている。つまりサンタクロースへの手紙とプレゼントなのだろう。フレーゲルの無邪気と優しさが垣間見えて嬉しくなる。
フレーゲル宛のプレゼントをツリーの下に置き、まずは封筒を開く。ささやかな街灯の残り火のもと、便箋に並ぶ見慣れた文字は、確かな真摯さを宿していた。
『やさしいサンタさんへ。今年もありがとう。それから去年のこと、ごめんなさい。
サンタは本当はいないって、わたしとっくに知ってた。7歳のクリスマスの夜、眠れなくてトイレに起きたら、お父さんがプレゼントを置いてるのを見たから。
そのときはがっかりした。それからお父さんとお母さんが殺されて分かった。わたしにサンタはもうこない。エレナに殺されたんだから。
だからイングリットがサンタは絶対くるって言ったとき、わたしちょっとイラッとしたんだ。
イングリットにそんなつもりなかったのは分かってる。でもお父さんの死をなかったことにされたみたいで、なんだかすごくイヤだった。
だからあれも嫌がらせっていうか、ワガママだったんだよ。ザイフェンの木彫りの天使。あれは本当はね、わたしのいつも着てるお父さんのコートに、ずっと入ってたものなんだ。
だからエレナが持ってるはずだった。イングリットもそれを知ってるんだって思ってた。
あのときは、イングリットも正直、あんまり信じてなかったから。ああ言っておけばわたしは知ってるって、絶対許さないって、わたしの怒りが伝わると思ってたんだよ。
なのにイングリット、本当にザイフェンまで行っちゃうし、本当にプレゼント用意しちゃうし、本当にサンタになってくれた。
イングリットにはかなわないなあって、はじめて思ったのはこの時だと思う。
イングリットのくれた天使、ずっと大事にするよ。お父さんの天使の代わりなんかじゃない。いつかふたつの天使を並べたいんだ。お父さんのくれた天使も、いつか絶対、この手で取り戻す。
お父さんと、イングリット。サンタがふたりもいてくれて、わたしはすごく幸せ者です。いつかわたしからも、同じくらい素敵な贈り物ができますように。
メリークリスマス、大好きなイングリット。また一緒にお出かけしようね』
……読み終えてほどなく、視界が滲むのを感じた。
涙を落とすのはかろうじて堪える。せっかくフレーゲルがその心を綴ってくれたのだ、染みひとつつけたくなかった。行き場を失った感情は胸をとっくに決壊させて、呼吸を嗚咽のように震わせる。
自らの不明を恥じる気持ちはある。不用意な言葉でフレーゲルを傷つけてしまった。けれど去年のあの努力が無駄ではなかったのだと、少女の胸に灯火を残せたのだと、その歓びの前には無力ですらあった。
次いで包みを開ける。中には毛糸の分厚いなにか……マフラーだ。
柔らかな黄色の、ところどころ編み目の歪みが見える、明らかに手編みのマフラー。それで今年の願いと手紙の末尾の意味を理解する。
フレーゲルはイングリットの編んだ帽子を、イングリットはフレーゲルの編んだマフラーを、互いに身につけ共に行こう。つまりはそういう意思表示だった。
「フレーゲルちゃん……」
愛しい気持ちがあふれてくる。けれどひとつ訂正しないといけない。フレーゲルのサンタは二人だけではないのだ。
明日にでもあのマフラーと帽子を身につけて散歩に出て、その時に話してあげないと。ニコルのこと。フレーゲルの父が生んだ奇跡のこと。
だがそれと同じくらいに必要なことがある。ダイニングの壁掛け時計を思わず見上げた。
「……明日、大尉何時に起きるかな……」
お説教だ、これは。
イングリットがフレーゲルとなんだか気恥ずかしい朝を迎え、単身エレナの部屋に乗り込み、「あの夜凍りかけのイングリット拾ってやったの誰だっけなー」などと足元を見られるなどしてなんやかんや言い負かされる1982年の12月25日は、ほど近くに迫っていた。
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