第三十一話

 似たような手段を駆使してシュナイダーと関係のある数社を巡り、現在。三人のもとにはいくつかの手がかりが集まってきていた。

 エレナの泣き落としと嘘の才能あってのものか、身分を詐称すれば案外あっさりと知っていることを教えてくれた。シュナイダーの経歴は資料として貰っていたし、なにより西ベルリンの人間がDDRで起きた出来事の裏づけを取ることは極めて難しい。シュナイダーのDDR取材歴と矛盾さえしなければほぼ言ったもの勝ちだった。


(……いや、それだけでもないだろうなあ、これ)


 一方で、心のどこかでそう冷静に分析するイングリットもいる。

 エレナの策が上手くいったのは確かだろう。しかし情報を扱う身分だけあって彼らも馬鹿ではない。手がかりを開示したのもそれなりの理由があるのだと、イングリットはその結論に至りつつあった。


「なんというか、どうにもこうにも、難しいですね……」


 小さく独りごちてため息をつく。予定通りの商談とシュナイダー捜索に明け暮れ、ホテル近くのレストランで夕食になる今の今まで休む暇もなかった。

 フォークで狩人風カツレツイェーガーシュニッツェルをつつく。東の同名料理とはまったく違ったものだ。東では分厚く切ったソーセージを揚げてジャガイモやマカロニを添えるが、目の前の皿では豚ヒレ肉を揚げたものにたっぷりとクリームソースがかかっている。

 料理が出てきたときには驚きかけたものの、西ベルリン行きに備えた研修でこうした違いは総浚いしていたのでボロを出さずにすんだ。名前は同じなのに面白いなと夢中で食べ進み、半分ほど胃に収めたところで現実逃避だと気づく。状況は何も好転していない。


 シュナイダーの居場所は一向に分からず、そもそも西ベルリン内に留まっているかどうかも怪しい。東ベルリンにいる時点で彼の経歴について資料を渡されていたが、それ以上のことはほとんど掘り下げられなかった。

 政治や国際関係の話題を中心に記事をしたため、二流雑誌からゴシップ誌まで幅広い大衆誌に寄稿する反核平和主義者――どこまでいってもこの程度だ。あとはせいぜいぶっきらぼうなのに気が小さい理想主義者とか、主に性格面の話になる。

 ようやっと手に入れた手がかりもそのままではとても使えたものではなかった。奥まったテーブル席の陰、書き留めたメモをこっそり開く。


 ――9182 C7

   EC54ÄA


 意味不明な文字の羅列。その真下には五角形が鎮座していた。図形の内部に十字を収めた矢印が、底辺を突き破って下を指す。その先端も三角形ではなく、綺麗な菱形をしていた。

 どう見ても何も分からない。支離滅裂としか思えない絵図だったが、これが最もシュナイダーに近いと思われる痕跡だった。


 話は今朝に遡る。イングリットたちが聞き込みを敢行した新聞社や出版社のうちいくつか――要はシュナイダーと関係のある各社が、始業早々ポストに手紙を見つけたのだ。

 便箋には先の文字列とシュナイダーの名前しかなく、どちらもタイプライターで打たれていていかにも怪しい。警察が聞き込みに来た際にも伝えたが、彼らも頭を捻っていたという。

 つまり、誰一人としてこの手がかりを理解できていない。聞き込みをした新聞社たちが揃いも揃ってこの出来事を明かしたのも、シュナイダーの縁者を名乗るエレナなら何か意味を見出せないかと考えてのことだったのだろう。全員が全員この謎の前で足踏みし、一歩も先に進めずにいる。


 ほとんどの手紙は警察に参考品として引き取られたらしいが、運良く警察の聞き込みのなかった一社が手紙を書き写させてくれた。だからこうしてイングリットもじっくり物思いに耽ることができる。


(なにかの暗号、かな。見た限りかなり文字数を絞ってるみたいだし、文字の繰り返しもほとんどない。頻度解析にも時間がかかるはず……っていうのは、安心できるけど)


 かといって油断もできない。時間をかければかけるほど西に有利になるだろうし、こちらには時間制限があるのだ。一刻も早く解き明かしシュナイダーを見つけなければならなかった。

 フレーゲルは初めからそれを理解していたのだろう。隣に座る彼女はイングリット以上にフォークの進みが遅く、シュニッツェルの大半は手つかずだ。任務に失敗すれば国家保安省に尋問されるだの、西に追放されてスパイにされるだのと脅かされれば当然だ。不安で不安で仕方ないはずだった。


 早く安心させてあげないと――そう気負えば気負うほど現状がもどかしく、自身の不甲斐なさが情けない。かける言葉も思いつかずまた息をつくと、向かいのイスがゆっくりと引かれた。


「うわぁ。イングリット、食事の場でそんな顔しちゃダメじゃん。こういうのは美味く食べなきゃ損」


 表情と仕草は淑女のそれで、しかし口調は相も変わらず軽い。今この状況を理解しているのかも怪しいが、おそらくイングリット以上に理解していてこれなのだ。余計にタチが悪い。


「トイレとのお話でしたが、ずいぶん遅かったですね。シュニッツェルが冷めますよ」

「だいたい想像つかない? うんこ。やだなあもう、皆まで言わせるもんじゃないよ」

「それもう勝手に言ってますよね?」


 というか食事時になんて話をするんだこの人。そんな感想もよそに涼しい顔で席に着き、香ばしい匂いの店内に甘やかな香りを泳がせるエレナ。そのまま楚々とした手つきでフォークとナイフを取ると、すぐに食事を再開した。


「しっかし、浮かない顔。進展はあったじゃん、何が不満なわけ?」

「ちょ、エレナさん……」

「だいじょーぶ。私は背向けてるし、イングリットも顔の角度そのままにしときゃ唇読まれないよ」


 言うと口端が割れ開き、にやりと嫌らしい笑みをかたち作った。ホテルでの作戦会議ぶりに見るいつもの顔だ。

 尾行者の位置まで把握しているあたり本当に敵わない。なるべく首を動かさないようにしつつ、ひそひそ語りかける。


「進展って言っても、謎が増えただけのような気もして……あの手紙、結局何なのか全然分からないじゃないですか。時間切れになっちゃったら目も当てられませんし、どうしたものかと」

「そう? 他にもあったじゃん、手がかり」

「他……?」


 そう首を傾げそうになったのを慌てて押し留める。それを見透かしたようにニヤつきを深めながら、エレナは内緒話でもするかのように囁きかけてきた。


「十年前の亡命失敗事件。ずっとシュナイダーがお熱だって言ってたやつ」


 そこまで言われてようやくイングリットも思い至る。何社目だったか、政治系のゴシップ記事を多く扱う編集部で聞かされた話だ。


 約十年前、ベルリンの壁で亡命をはかった姉妹がいた。夜遅くに亡命を実行したものの国境警備隊に見つかり、無人地帯で姉の方が銃撃を受けて倒れ伏した。

 息もあり、まだ処置すれば助かる見込みもある傷だった。しかし国境警備隊は迂闊に国境へ近づいて一触即発の事態になることを憂慮し、駐留アメリカ軍もDDR領に踏み入るのを恐れて手を出せずにいた。互いに上官に指示を仰ぎ、そのまま膠着状態が続く。国境警備隊が姉を回収する旨を告げて無人地帯に踏み入った時には、まだ少女とも呼べる齢の彼女は息を引き取っていた。


 亡命しようとして殺された者などいくらでもいたが、この一件は問題だった。怪我した少女を放置し、愚鈍な対応でみすみす死なせてしまう。東西双方にとって汚点でしかない出来事である。

 そのため両国はこの件について互いに闇へ葬ることを確約し、この亡命失敗事件は誰にも知られることのないまま隠され続けていた――と、そんな筋書きの話だ。


 どうやらシュナイダーはやけにこのネタにこだわっていたようで、一度小さく載せたあとも何度となくこのテーマで記事にしようとしてきたらしい。

 だがイングリットに言わせれば眉唾の噂だ。六二年のペーター・フェヒター殺害事件に尾鰭がついたようなものだろう。重要な手がかりとも思えず、どうしても気のない答えになってしまう。


「あれは、まあ、気になりましたけど……十年も前の話題ですし、そもそも都市伝説みたいなお話でしょう? 今回の件と関係あるか正直微妙ですよ」

「まあ実際に関与してるかはともかく、西側は重要視するんじゃないかね。フレーゲルの亡命届と関係あるんじゃないかってさ」

「ううーん……だったらいっそ、そっちに釣られてくれれば助かるんですけどね」


 苦笑する。文字通りの苦しい笑みだ。どう考えてもありえないであろうことは、口にしたイングリット本人が一番よく分かっている。


「ま、今分からないことはいくら考えたって仕方ないし。とりあえず食べて体力つけなよ。で、明日も情報収集しつつ頑張ろう」


 と、軽く言ってのけてシュニッツェルを頬張るエレナ。いつの間にか皿は空になっており、メニューを手にしてデザート欄を眺めている。本当にまだ食べる気なのか。

 また嘆息し、半分ほど残ったシュニッツェルと向き合う。正直食欲はなかったが、エレナの言うことは正論だ。食べなければ始まらない。


 再度フォークを握るイングリット、ジェラートを頼むエレナ、ぴくりとも動かないままのフレーゲル。

 西ベルリン滞在三日目、三者三様の夕食は、どうやら足並み重なることなく終わるらしい。

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