第三部:三者三様奔走劇

第二十九話

 数時間にわたる聴取と亡命についての意思確認を終え、パトカーでホテルに帰されたのは正午にさしかかる頃だった。

 意思確認といっても大半はフレーゲルに対する誘導尋問のようなものだったらしい。人道的な見地からかドイツ民主共和国DDRに対する当てつけか、西ドイツは基本的に亡命者を受け入れている。偽造パスポートはともかく書類は今なお有効で、つまりフレーゲルさえ「亡命したい」と言えばそれは叶うのだ。


 もちろんフレーゲルが頷くはずもない。数時間缶詰にされてから彼女が出てきた部屋では、わざわざ召喚されたらしい西ドイツ難民省の役人が困り果てた顔で首を横に振っていた。結果、明日の午前中にまた会話の場を設けることを半ば強引に約束され、今日のところは解放された。

 そしてイングリットとフレーゲルの部屋に戻り、現在。三人は机を囲んで今後のことを話しあっていた。


「さて。予想外の事態ですが、お二人とも落ち着いて行動するように。帝国主義者ファシストの手管に惑わされることはありません。我々は党のためになる行いをするのみです」


 イングリットの口から出てくるのは「党の役人」としての台詞だ。一足早く部屋に足を踏み入れ、軽く内部を見て回ったエレナは無言で赤い爪を唇に押し当てていた。要は盗聴器が仕掛けられている合図である。

 西側の情報機関が本格的にこちらをマークしてきた。発生して一日も経っていない失踪事件で大騒ぎし、西ベルリン警察に介入してきた米軍の動きから見てもそれは明らかだ。これまで以上に擬態を厳重にしなければならない。


「ともかく、これからは今まで以上に私と行動してください。特にお二人のうち片方は常に私といるように。あなた方も、良からぬ疑いは避けたいでしょう」

「ええ。分かっております」

「よろしい。つきましては、まず今後の振る舞いについて……」


 などと口を動かして、しかし心そこにあらず。最低限会話が破綻しない程度に気を回すだけだ。

 そう、声はただのカモフラージュ。三人の本音は文字の姿に転生し、紙の上にのみ息づいている。


『いったいどういうことなんですか? なんであの人がフレーゲルちゃんの亡命願なんて』

『さあね。まあそのへんは分からないけどさ、誰が糸引いてるかくらいは薄々勘付いてるはずだよ、イングリットも』


 思いのほか整った、踊るような筆跡がイングリットのペンを遮る。瞳はもはや冴え冴えとした眼光を隠していない。その真意も、イングリットは皆まで言われるまでもなく理解していた。

 ミュラーが動き出した。何が起こっていたとしても、背景にあるのはそれしかない。


『この先どうするんですか? 想定外の事態ですし、緊急避難として帰国するのも手だと思いますけど』

『無理』

『なんでですか』

『新しい任務を放棄したって思われるから』 


 そう短く書き綴ると、胸ポケットから小さく丸めた紙らしきものを放り出す。一見するとガムの包み紙のようだ。だが偏執的なまでに固く潰されたそれを開封すると、意味をなさないブロック体が事務的に並んでいた。

 エレナの指が三を示す。暗記している第三解読表に当てはめてアルファベットを置き換える。


 ――ハンス・シュナイダーを確保し、滞在可能な期間内にDDRに引き渡すこと。対象が帝国主義国家らの手に渡ることのなきようにせよ。


『西ベルリン署にいるスパイから伝言。どうあっても私らを働かせたいみたいだ』


 問う前にエレナの字がこちらを向いていた。そのまま別の場所にペンを走らせ、逆向きのアルファベットがインクの足跡を残していく。


『このメモもらったとき聞いたんだけどさ、シュナイダーってDDRこっちのスパイだったんだって』


 その新事実は、お目付役としてのイングリットの台詞をわずかに詰まらせた。


『ジャーナリストってことで西の事情に通じてるから重宝してたらしいんだけど、色々怪しい動きが多かったみたいだ。で、他のそういう連中含め、今回私らを寄越して揺さぶりをかけようとしたんだと』

『待ってください。そんなの聞いてないですよ』

『私もだよ。ていうかそもそも、今回の任務って他の作戦のための囮だったらしいんだわ。いかにも怪しい動きして連中の目を引きつつ、忠誠の怪しいスパイの動向を探る、そういう一石二鳥を狙ってたんだと』


 平然と綴られていく種明かし。そこにどうしようもない理不尽を覚えつつも、イングリットはどこか納得のような気持ちも同時に味わっていた。

 妙に噛み合わない作戦の原因ははそれか――ただの情報収集ならともかく、防諜要員に国外での諜報を命じること自体おかしな話だ。しかし二重スパイの摘発という意味ではむしろ本来の使命に適っている。


 だが、そのためにわざわざ機密機関であるレヴィーネ機関の人間を出す意味合いは薄い。となるとここにもミュラーが一枚噛んでいるかもしれないわけで、そもそも今回の作戦だって、この事態に持ちこむためのお膳立てである可能性も否定はできないのだ。

 自分たちはまだ陰謀の表層を明かされたにすぎない。その自覚を忘れてはならなかった。


『で、私らに接触を受けたシュナイダーは過剰反応して逃走。逃げたってことは西の二重スパイの可能性が高いから、私らで取っ捕まえろってお達しだ。使い倒される身にもなれって話』


 ペンをいったん止めて小さく肩をすくめるエレナ。断りなく囮に使ったあげく急遽別の任務をねじこまれる、そんな無茶苦茶にはもはや文句の言葉も浮かばない。国家保安省シュタージならそれくらいのことはやる。

 しかし続けて紙を滑ってゆくペン先は、そんな諦めと妥協をあっけなく蹴散らしてきた。


『シュナイダーがなんでフレーゲルの亡命願なんて用意してたのかは分からないってさ。でもこの件で西がシュナイダーと、ついでにフレーゲルの繋がりを重要視するのは確実。実際めちゃくちゃ亡命させたがってたし。

 だったら、いっそフレーゲル売り飛ばしたりするのもアリじゃないかって』

「な……っ!?」


 あまりの内容に、イングリットは反射的に声をあげてしまった。


 一瞬思考が凍りつく。しかし右往左往している暇はない。「……っにがあろうと、党の威信を損なうような行いは厳に慎んでください」と続けて言い切り、とりあえず盗聴器をごまかす。エレナは底意地の悪い笑みでこちらを見物し、音もなく拍手のまねをしていた。


 面白がっていい事態じゃないだろう――そんな苦言を書きつける前にフレーゲルがペンをとる。

 この会話における彼女の第一声だ。さすがに手慣れているのかその筆跡は幼くも一直線で、かつ端的だった。


『わたし、どうなるの』

『要は、DDRにとっての負け線はふたつ。シュナイダーがこのまま逃亡しきるか西側に保護されるか。その場合の保険に仕立てあげようってハラだわ』


 感情の色が浮かばないフレーゲルの文字に対して、エレナの字は挑発的なくらいに饒舌だ。「逃亡」の単語から矢印を引き、間を置かずに書き足す。


『シュナイダーが西も東も撒いて逃走しきった場合、話は単純。シュナイダー諦める代わりにフレーゲルだけ渡して満足してもらう。もちろんそんな約束あっちも守らないだろうけど、党も時間稼ぎと撹乱程度になれば上々って思ってるんだろうなあ。そのまま向こうへのスパイにできれば万々歳だし』

『そんな事態ありえるんですか? シュナイダーも真っ先に西に助けを求めるでしょう』

『そうだね。普通ならそういくと思うよ、「真っ先に」』


 真っ先、という言葉にわざわざ引用符クォテーションマークをつけてペンの先で二、三度叩く。理由をしばし考えて答えに達しかけたころ、それを読んだかのようにエレナの文字が足運びを再開した。


『そうなってたら、私たちがシュナイダーへの手がかり扱いされることなんてなかった。この西ベルリンで、今なおシュナイダーが逃げ続ける理由なんてあるわけない。DDRだけから逃げるなら』

『要は、シュナイダーは西からも逃げてる可能性が高いってことですか』

『そ。理由は知らんけど』


 その推察は、イングリットの演技へ安堵の息を挟ませるには十分だった。

 つまりシュナイダーも積極的には西側情報機関のもとへ向かわない。彼の側から保護を求めていた場合は早晩最悪の事態になっていただろうが、東も西も避けているのなら条件は同じ。この状況における唯一の光明だった。


 しかし「保護」から延ばされた矢印の先、ことばの形をなしていく「最悪の事態」に、イングリットの楽観はすぐさま冷却されていった。


『で、シュナイダーが西に保護された場合、フレーゲルは党に拘束されて徹底的に尋問される。シュナイダーに代わる情報源にされるわけだ。

 絞りきるまで絞ったらよくてスパイ交換の景品に出されるか――悪ければ


 エレナにしては珍しくぼかした表現は、おそらくフレーゲルやイングリットを気遣ってのものではない。彼女にも類推しきれないのだ。国家保安省は党のためならどこまでも残酷になれる。ましてや戸籍から何まで思いのままにできる、機密機関の人間相手ならばなおさらだ。

 フレーゲルがどこまでモノ扱いされ、どれだけ尊厳を踏みにじられるか……そんなもの、イングリットだって想像したくはない。


 加えて、フレーゲルが二重スパイの手先とみなされた場合、彼女を監督していた第十三部隊が責任を負うことになる。

 ミュラーが狙っているのは、きっとそれなのだ。


『だから、まだつけこめる隙はある』


 ひとの心胆を散々凍らせておいて、当人は顔色ひとつ変えずさらりとインクを結んでいく。書き終えるとイングリットの前に紙を突き出してきた。

 有無を言わせぬ行いにイングリットは諦念の息をつきかけて、その代わり、今しがた綴られた文字を読みあげる。最後のひとことだけを付け足して。


「……よって、本日からはスケジュールの合間にシュナイダー氏の行方を探すこととします。

 党の名誉にも関わることです。このようなくだらない疑い、早急に晴らすのが我ら人民の務めですから。分かりましたねアレス クラー?」

「……はい。了解ですよアレス クラー、同志」


 エレナの笑みがまた少しばかり角度を上げた。にやにや笑いに皮肉、あるいは苦笑にも似たものが混ざる。なにかおかしなことをしただろうかと一瞬焦ったが、その答えはすぐに分かった。エレナの唇が音もなくうごめく。


 「分かったわねアレス クラー」と「ばっちりですともアレス クラー」。ミュラーとエレナの間でおなじみの応酬。

 ミュラーの企みのなかにある今、そのやり取りを使うのは確かに皮肉めいていた。あなたの企みは知っているぞと、はからずも宣戦布告を叩きつけた形になる。当人が聞いているわけでもなし――などという言い訳が頭に浮かぶが、すぐに振り払った。


 これでいい。ミュラーが聞いてどうこうではない、イングリットの心持ちの問題だ。

 フレーゲルはあれ以降一言も文字を綴らず、うつむくばかりの無表情はベールをまとったように静かに陰っている。それを目の当たりにして思い出す。昨夜誓ったばかりの真新しい覚悟を。


 フレーゲルを救う。ミュラーの奸計からも、悲しいばかりの復讐心からも。

 それがイングリットにできる、わずかながらの正義だから。

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