問題しかない
スコット医師と侍女長のアルマを連れて寝室を出て長い廊下を速足で進み執務室に入ると、興奮状態のローレンスが椅子に座ったままスコットを指さし怒鳴った。
「その男を捕らえろ! 俺の許可なしにマリアに触れてはならないと言っていたのに、聴診器を当てたそうだな!」
背後にダビデとウェンがいつでも対応できるよう構えているため、さすがにとびかかっては来ないが、もう一つの椅子に座っている家令のグラハムと二人で怒りに目をぎらぎらと光らせている。
「本当に……」
額に手を当てて、ナタリアはため息をついた。
そして手の影で視線をやると、隣の部屋に繋がる扉に手を駆けている一人の侍女を見つけた。
「ダビデ、その侍女を連れてきて」
指をさされた女は慌てて逃げようとしたが、おそらくナタリアがそう指示することを予測していたダビデの動きは早く、あっという間にとらえ部屋の中央まで連れて来る。
「何をしている。俺はスコットを罰すると――」
「今は黙ってください、旦那様。時間がないので効率的に片づけます」
手をあげて、ローレンスの口を封じた。
「な……お前、図に乗るのもたいがいに……」
「黙りなさい、コリン・グラハム」
だん、と、扉を拳で叩いた。
「図に乗っているのはお前でしょう。私はローレンス・ウェズリー侯爵の妻のナタリア、そしてお前はただの使用人よ。その口の利き方を不敬罪で罰しても構わない立場に私はいるの。家令だというなら、それくらいわかるでしょう」
「ぐっ……」
薄い唇を強くかみしめ、殺意に燃えた目でグラハムはナタリアをにらんだ。
「今のお前には、この事態は解決できない。もし今夜、マリア様とお腹の中の跡取りが亡くなったら、どうなると思う? 御子の誕生を楽しみにしていたウェズリー大公が黙っていない筈よ。責任を取らされるとしたら、まず最初にこの東館を統治していたお前よ。ちがう?」
ひるむことなくナタリアはグラハムの顔をしっかり見て、噛んで含めるように言葉をつなぐ。
すると、ゆっくりと彼の頭にそれがしみこんだのか、ゆるゆると肩の力を抜きうつむいた。
「く……」
人の感情は不条理なものだ。
たとえ医学的見地から手の施しようのないことだったと説明されたところで、それを素直に受け止められるかと言えばそうはならない。
権力に溺れた者ならなおさらだ。
誰かの命をもって落とし前をつけるだろう。
「とりあえず、ローレンス様もグラハムも私の話をしっかり聞いてください。意見は最後に伺います」
廊下に立ったままだったスコットとアルマを中に招き入れてから、扉を閉めた。
「アルマ。この侍女はマリア様専属だと思ったのだけど違うの?」
床に座らされた若い侍女はうつむき、膝の上で手を握りしめる。
「いえ。確かに彼女は専属侍女の一人です。名はジャネット・ストーム」
「ストーム伯爵家の出身ということね」
「はい、その通りです。伯爵の五女で三年ほど前からウェズリー侯爵家の侍女となり、今回東館の担当に抜擢され、若い子のほうがマリア様も気楽になさるだろうと専属としました」
「そう。その専属の侍女がどうして今ここにいるのかしら。不思議ね」
こてんと首をかしげ、心底不思議そうにナタリアは尋ねた。
「この大変な時に、主のそばを離れてなぜここにいるの、ジャネット?」
「そ、それは……」
もじもじと身体を揺らし、上目遣いにジャネットはローレンスを見つめる。
「ジャネットは悪くない。私のところへスコットが命令に背いたと知らせに来てくれただけだ」
すると慌ててローレンスがジャネットをかばった。
「わざわざローレンス様にスコット医師が診察したと報告に走るなんて、随分忠義者だこと」
「ちょっと待て、タリア……!」
「ナ・タ・リ・ア、です。ローレンス様。お間違えのないよう」
かっと目を大きく見開いてローレンスを見据えると、蛇に睨まれた蛙のように彼は固まった。
「な、ナタリア…」
「はい。そうですね。では続けます。今、ここで医学的な判断ができるのはスコット医師のみです。獣医師ではありますが、地方で修練している折に人間の出産にも立ち会っているので、素人よりましです」
横柄な物言いで申し訳ないと思いつつも、ナタリアは本館の医務室から取ってきた書類を取り出し、スコットに渡す。
「これは、ホーン医師が書いたマリア様のカルテの写しよ。ざっと目を通してちょうだい」
受け取り、読み始めたスコットの表情はすぐに硬くなった。
「やはり……。そうだと思いました……」
「どういうことだ。説明してくれ」
いまだに状況が呑み込めていない主人に怒りと呆れを抱くが、スコットは答える。
「まず、マリア様の予定日は二月の初めごろだったにもかかわらず、破水してしまいました。一か月以上の早産となります。それはお判りですか」
「ああ。それで?」
「まず、マリア様自身が若すぎます。女性として未成熟な身体で妊娠、そして子供も未成熟な状態で生まれようとしている。ようするに、不完全な産道を身体の出来上がっていない状態で通らねばならない。双方とも苦しむということです。ホーン医師から説明はありませんでしたか?」
「いや…? まあ、彼女の腕は国一番だと聞いた。王太子妃の医師であるくらいだ。任せておけば大丈夫だと…」
ようは丸投げで、ホーンの説明も聞き流していたのだろう。
今後これ以上かき回されないためにも、とくと言い聞かせる必要がある。
スコットは腹をくくった。
「問題がもう一つあります。数日前にホーン医師が診察した結果、赤子はいま逆子の状態にあると言う事です」
「逆子? なんだそれは」
「そうですね。殿方はご存じないことが多いでしょう。おおむね生き物は頭から出てきて、足が最後と言うのが正常な分娩です。しかし時々、足が先で頭が最後になってしまう場合があるのです。それを我々は逆子と言います」
このカルテを書いた時、ホーンとしてはまだ大丈夫と判断していた。
個体差はあるがそもそも胎児はくるくると回る。
臨月間際に逆子の状態でも、のちに正常に戻る可能性は十分にあったからだ。
「ほう? それの何が問題なのだ」
「まず、身体の一部が引っかかってなかなか出てこられないことがあります。そして何よりも、長く産道に留まることにより、窒息してしまうこともある。最悪の場合死産、もしくは母子ともになくなる可能性があります」
「なんだと!」
ようやく理解したローレンスが椅子から立ち上がって吠えるが、ダビデにやんわりと引き戻される。
「正直なところ、五分五分なのです、ローレンス様。医師がひとりもいないこの状況だと」
ナタリアは腕を組み、深くため息をついた。
「ひとりもいない? ホーンを呼びにやったのだろう?」
外は吹雪だが、ホーン医師の屋敷はそう遠くない。
呼びに行った使用人がそろそろ戻って来る頃だろう。
「いえ…。たぶん、ホーンは来られません。なぜなら…」
そこで扉を叩く音がして、入室を促すと、雪にまみれたトリフォードが現れた。
「失礼します。ホーン医師と、王宮の…。王太子殿下からの書状を預かってまいりました」
頭を下げた後、彼は懐から手紙を二通取り出し、ナタリアに渡す。
「ローレンス様。ホーン医師が来られない理由はこれです」
封を開けぬまま、差し出した。
「王太子妃殿下の出産が始まり…。ホーン医師のみならず優秀な医師はみな王宮へ召集されてしまいました」
ローレンスはふらふらと立ち上がり、やがてすとんと床に座り込んだ。
「なんと……。なんということだ……」
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