待てない男
ローレンスは、クラヴァットを緩めながら本邸の階段を駆け上った。
本当は、もっと早くにここへ来たかった。
だが、マリアに不信感を抱かせるわけにはいかない。
ナタリアと別れた後、何事もなかったかのようにふるまうのに苦労した。
ガゼボに戻り中断されてしまった茶事を続けて談笑し、普段通りの晩餐を終え、マリアが寝入ってしまうまで少し戯れ、ようやく寝室を出たら、家令のグラハムに足止めを食った。
「あの女狐に近づいてはなりません。なにか企んでいるに決まっています」
確かに、ナタリアが突然東館の庭園に現れたのには驚いた。
しかし、マリアの腹も目立つようになってきた。
そろそろ子供のことを告げねば、洗礼式を行えない。
挙式の後すぐに事情の説明をするつもりだったが、初夜のナタリアは驚くことに処女で予想より上物だった。
うっかり朝まで過ごしてしまい、それを気取られないようマリアを可愛がると今度はタガが外れてしまい、医者を呼ぶ騒ぎになってしまった。
幸い無事だったが、しばらくマリアに触れるなと女医に釘を刺された。
その時に思い出したのが、ナタリアの身体だ。
二十歳のはずだが、どちらかというとマリアのようにすらりとしている。
胸と腰は熟れた女のように大きすぎず、腹も太ももも締まっていて、若い鹿のように細い。
ローレンスは若いころには胸が大きく触り心地の柔らかい女を好んだが堪能しすぎたのか、飽きた。
今の好みは華奢で内臓がどこに入るのかと思うくらい細い腰の女だ。
そして、従順であるともっと良い。
マリア・ヒックス子爵令嬢がまだ十三歳だったのはさすがに想定外だった。
少し世間体が気になったが、他にも狙っている男がいたので横取りされる前にと手を付けたら早々に妊娠してしまった。
あれほどの美貌を手放す気にはなれなかったので手元に置き、戸籍上の妻として父が金で買ったのがナタリアだった。
初めて見たときはこの野猿と契約したグラハムを一瞬殺したくなったが、腐っても北国の王族の娘。立ち居振る舞いは高位貴族として十分で、頭も良い。
屋敷の侍女たちの手で整えられるうちに、なかなか良い女になった。
しかも身体の相性がかつてなく良い。
正直、ハマりにはまった。
契約上の妻で適当に閉じ込めて関わりを持たないつもりだったのに、一度触れると癖になる女だ。
今度こそ終わりにしようと思っても、次の日には欲しくなり、口実を作っては本邸へ駆け込みナタリアを貪ってしまう。
加えて言うなら、護衛に付けた優男のトリフォードに見せつけるのも醍醐味の一つだった。
あのとり澄ました顔が扉の外に立っていると思ったら、ますます燃える。
しかし、ナタリア会うと即抱き潰してしまうため、今後の話を詰めることができないままでいた。
日ばかり経ち、だんだん面倒になってきたところで昼間の邂逅。
手間が省けたじゃないかと、ローレンスは思う。
しかもナタリアが何もかも承服するというなら、何の問題もない。
考えてみれば、その分の報酬は十分に払っているのだ。
「ローレンス様、どうかお待ちを!」
あきらめの悪いグラハムがまだ背後から追いかけてきて喚いていたが、無視する。
私室に入り上着を脱ぎ棄て、内扉で繋がる隣の部屋へ向かう。
衣装室、浴室などを経て、自分の寝室に入ったところで内鍵をかけ、ナタリアの寝室に繋がる小部屋へ入り扉の前に立つ。
ノックをすると「どうぞ」というナタリアの返事が聞こえる。
押し開いた途端、いつもと違う匂いが鼻をくすぐる。
いつもなら清々しいハーブの香りが立ち込めているはずなのに、バラやムスクの香水のような本能を呼び覚ます香りが立ち込めていた。
「お待ちしておりました。旦那さま」
一瞬、異世界へ迷い込んだかと思った。
まず、出迎えたナタリアは、全くの別人だった。
髪を高く結い上げて細くて長い首ととがった顎をあらわにし、精緻なまでの化粧が顔に施されている。
白いおもて、長いまつげ、血のように赤く彩られた唇。
暗い明りに反射して光る意志の強いまなざしは蠱惑的で、思わず見惚れてしまう。
そして何よりも目を引くのが、真紅の薄絹に黒いレースで縁どられ、体にぴったりとしている下着のような煽情的なドレス。
肩に黒い編紐がかろうじて絡められ白い腕はむき出し、腰から脇に入った切れ込みからは目の粗い黒のタイツに包まれた長い足が惜しげもなく見せ、太もものあたりでレースのガーターで止められている。
これは、いわゆる高級娼婦の装いだ。
一晩で途方もない金額を払わねばならないほどの。
それが、驚くほどにさまになっていた。
「いらしてくださり、嬉しいわ」
低い、喉をかすかにふるわせるような声。
なんて官能的な音だろう。
黒の細くて高いヒールの靴でゆっくりと優雅に歩み寄り、ローレンスに寄り添う。
「・・・タリア・・・」
もう、何も考えられない。
細くくびれた腰に腕を回して抱き寄せ、口づけた。
互いの唇が触れた瞬間、すぐさま大きく口を開け噛みつくように奥まで貪る。
甘露だ。
今日のナタリアは舌の先すら甘い。
寝室に入るまで我慢できずに、そのまま堪能した。
「ん・・・」
どれくらいナタリアとの口づけに溺れていたかわからない。
少し離し息をついてまた味わおうとしたその時、ナタリアがついと顔をそむけた。
「タリア?」
ナタリアはローレンスの傍らの、開いたままの扉に手をかける。
「グラハム卿」
静かな声だった。
目をやると、なんとグラハムがローレンスの私室を通って追ってきたらしく、小部屋で仁王立ちしていた。
しかも、あり得ないほど近くで二人を凝視している。
慌てふためいて追いかけてきたのだろう。
息は切れ、髪もすっかり乱れている。
しかし、目はらんらんと光り、今にも掴みかからんばかりの形相だ。
「ご覧の通り、これから夫婦の時間なのです。ご遠慮くださるかしら」
「な・・・っ。この・・・」
口の端から泡を飛ばしながらグラハムが詰め寄ろうとするのを、ローレンスが一括した。
「グラハム!」
彼はナタリアを両腕で抱き寄せ、その煽情的な姿を無礼者から隠す。
「お前は妻に不敬を働く気か」
「ローレンス様!こいつは・・・」
なおも手を伸ばしナタリアをつかもうとしたグラハムの腹を、ローレンスは足で思いっきり蹴り飛ばした。
「ぐ・・・っ」
グラハムが無様な姿で控えの間の床に転がる。
「だれかいるか!」
大声を上げると、ローレンスの部屋の側から数名の騎士たちが駆け寄る。
「グラハムを連れて行け。これは私の妻に暴言を吐き、あろうことか触れようとした。地下の仕置き部屋で三日間謹慎させろ」
あっという間に取り押さえられ拘束されるが、グラハムは抵抗して叫ぶ。
「ローレンス様!わたしくは、あなた様のためをおもって・・・」
「つけあがるな、無礼者」
騒ぎを聞きつけて、執事のセロンも現れた。
ナタリアの私室側からはトリフォードと部屋付きの侍女が駆け付け、ガウンを女主人の身体にかけたため、彼女は手早く夜衣を隠した。
たしか、アニーとかいう名だった。
そしてその侍女が寝室の扉をそっと閉じ、控えの小部屋に静寂が落ちる。
寝室からの官能的な香りの名残がしっとりと漂い、全員いたたまれない顔をした。
現在、寝室控えの間に居るのは、後ろ手に拘束され膝をつかされているグラハムと彼を取り押さえている騎士を中心に、ローレンス、ローレンスの護衛騎士数名、執事のセロン、ナタリア付きの侍女のアニー、そして騎士トリフォード。
暗めの照明の中、大人たちがこれだけひしめいているのだ。
ローレンスの寝室の方の出入り口からは入りきれずに様子を見守る従僕たちの顔が見え、大した騒ぎだ。
「旦那様・・・これはいったい」
執事の困惑した顔を見た瞬間ローレンスはふとあることに気づき、傍らの騎士に告げる。
「グラハムから鍵を取り上げろ」
「・・・は」
「・・・な、何を」
鍵は家令の権力の象徴だ。
現在、この屋敷の鍵を所有しているのはローレンス、ナタリア、執事のセロン、そして家令のグラハムのみ。
「私は先ほど、自分の寝室に鍵をかけてからナタリアの部屋に向かった。お前の小言をこれ以上聞きたくなかったからな。なのになぜ、お前がこの小部屋にいる」
ナタリアの寝室とそれに繋がるこの小部屋のみ廊下への扉がなく、壁になっている。
就寝時に夫以外の男が侵入するのを阻むためだ。
今、騎士や執事は全ての扉が開いていたからこそローレンスの部屋を通って駆け付けた。
しかし、グラハムは扉を破壊したわけでもなくこの小部屋から夫婦の間に割って入ろうとした。
つまりは、主人の許しを得ずに勝手に内鍵を開けて侵入したことになる。
「わ、わたくしは、ローレンス様を危機からお救いしようと・・・」
「うるさい」
グラハムは父の推薦で雇い入れた男だった。
ローレンスの行状を逐一報告する役目だったこともうすうす気づいていたが、侯爵家の運営においては有能でそこそこ便利だったので好きにさせていた。
しかし、ずいぶんと舐められたものだ。
彼はしょせん父の命令しか聞かない犬だということが今、はっきりした。
そしてまさか、ここまで思い上がっていようとは。
「お前は、この家で一番偉いのは自分だと思っているようだな」
ローレンスが低い声で問うと、一瞬目を見開き、すぐに媚びへつらうような笑みを浮かべた。
「そんな、とんでもない・・・」
「黙れ。今は一切の弁明も許さない」
「・・・・っ」
「もう一度命じる。グラハムを三日間謹慎させろ。セロンはグラハムが所持しているすべての鍵を執事室の金庫で保管するように」
宣言した瞬間、グラハムの顔がぐしゃりとゆがんだ。
「はっ」
護衛騎士たちは頷き、グラハムを両側から引っ立てて行く。
今度は抵抗しなかったが、怒りに満ちた目でナタリアをにらみ続けていた。
「・・・ローレンス様」
セロンが気づかわし気な様子で声をかけてくる。
「このような・・・。大丈夫でしょうか」
長年ローレンスのそばに仕えていたにもかかわらず、彼はウェズリー大公を慮ってグラハムの下についていた。
「詳細は明日になってからゆっくり考えよう。もう、夜も更けた」
「・・・はい。では、我々はこれにて失礼いたします」
セロンが頭を下げたのを機に、全員小部屋からローレンスの部屋へと退出し、やがて辺りは静かになった。
夜の闇が、ローレンスとナタリアを包み込む。
「・・・今日は、驚きの連続だな」
「はい」
ローレンスを見上げるナタリアの瞳は、静かだ。
「あなたの艶姿をもう一度、きちんと見たいのだが」
肩を抱き寄せて耳にささやくと、首元でふっと彼女の吐息が弾けた。
「仰せのままに」
妻を抱き寄せ寝室の中へ入り、今度こそしっかり内鍵をかけた。
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