ナタリアとダン、そしてレイン
最後の糸止めを念入りに施して糸を切ると、窓からの風を感じた。
草木と土の匂いにまじって、心地よいかすかな香りに気付く。
「そういえば・・・」
縫い終えた衣類を畳んで開けたままにしていたトランクにしまうと、ナタリアはそっと部屋を出た。
夜明け前の空にはまだ星が残り、館全体が静まり返っている。
厨房の者も目覚めるのはあともう少し後だろう。
薄靄の中を迷いなく香りを辿っていくと、庭の一角にたどり着く。
「咲いてくれていたのね」
乳白色にほんのり薄紅を溶かしたような優しい姿の薔薇が咲いていた。
たった一輪なのに、清らかな香りがナタリアを優しく包み込んだ。
秋の薔薇はぽつりぽつりと控えめに咲く。
しかも旬の時期はまだ先のはずなのに、花を付けてくれていた。
「ありがとう。何よりのはなむけだわ」
くん、と匂いを嗅いで、思わず笑みをこぼした。
「・・・ナタリア様」
遠慮がちにそっとかけられた低い声に、振り向く。
「お身体は大丈夫ですか。寝ていないのでは」
「あなたもそうではありませんか?ベインズ団長」
騎士団の誰よりも大柄な男の顔を、下から覗き込んだ。
「我が家の問題につきあわせてしまって、ごめんなさい」
ベインズは国の所属で、本来ならばダドリーには何の関係もない。
「いえ。こんな時に私にまで気を遣わないでください。ナタリア様は私たちにたくさん尽くしてくださいました。なのに何一つ恩を返せていない」
「・・・もったいないお言葉、いたみいります」
銀にも見える薄い灰色瞳に影がさす。
わずかに寄せられた赤毛の男らしい眉に、彼の感情が少し浮かんでいるような気がして少し暖かな気持ちになった。
「・・・あのね。テレサ様の薔薇が咲いてくれていたの。ほら綺麗でしょう」
わざと砕けた口調で丹精込めて育ててきた花を手で指し示す。
「・・・ああ、そういえば花の匂いが」
「あら、今頃?」
軽く首を傾け、ふふと軽く笑い声をあげた。
「・・・テレサ様の命日にこの花を手向けたかったのだけど、無理ね」
「ナタリア様」
「お義姉さまにこの花をお願いしておくから、私の代わりにテレサ様に届けてくださる?」
森を分け入った先の見晴らしの良い丘に、ダン・ベインズの妻テレサの墓がある。
儚い、淡雪の精のような容姿の、静かな人だった。
どれほど時が流れても、忘れられない人。
ダンにとっても、ナタリアにとっても。
「承知しました。お気遣いありがとうございます」
「・・・じゃあ、いくわ。テレサ様に必ず伝えて。大好きです、と」
不器用なダンの代わりに、テレサへの言葉をナタリアは口にする。
何度でも、言えば良かったのに。
そう、思う。
「・・・ナターリア」
静かで、深いところまで落ちてくる声。
懐かしい呼び名に、胸が暖かくなった。
「ありがとう、ダン」
あの方への想いが、私たちをつないでいる。
朝もやの中に紛れ込んでいく凛とした後ろ姿を見つめ続けた。
彼女は、いつの間にこれほど強く大きくなったのだろう。
「・・・つくづく、腹立たしいほど不器用ですね、あなた」
傍らの木立からゆっくりレインが現れる。
「ナタリア様が二十歳になった時にせめてあなたが婚約を申し込んでくれてたならば今回の事態は避けられたと、トーマス様も思っておられることでしょうね」
「そんなことはない。後添えではナタリア様が気の毒だ」
れっきとした伯爵令嬢なのに、爵位のない騎士でしかも再婚相手だなどと。
「少なくとも今のウインターでは役不足です。・・・というか、そもそもデビュタントのセカンドダンスに打診されてあなたが受けた時点で、決まったも同然だったでしょうに」
四年前のナタリアのデビュタントはエスコートこそ兄のトーマスが務めてファーストダンスまで踊る予定だったが、ちょうどその時に団長へ昇進したダンも王宮にいたため事前にセカンドダンスの相手を依頼され、承諾していた。
しかし、ダンスが始まる間もなく王宮周辺が激しい雷雨に見舞われ宴どころでなくなったため、騒然とした会場の片隅で三人、小さな円卓を囲んで食事を楽しんで終わった。
強烈な思い出として今でも語り草だが、踊らずに終わったことをナタリアがどう思っているのかわからない。
「俺には、テレサがいる・・・」
ナタリアと出会ったのはまだ十代そこそこのころだ。
細くてしなやかな身体で少年のように野山を駆け回っていた。
兄のような、父のような気持ちで成長を見守ってきた。
「テレサ様が亡くなってもう8年ですよ。しかも・・・」
「レイン行政官、そこまでだ」
低い声で遮る。
「テレサを、侮辱しないでくれ」
「すみません、言い過ぎました。まあ俺も、もし妻がなくなった時自分がどうなるのかわかりませんからね・・・」
レインは深々とため息をついた。
「それでも、どうしても思ってしまう。もし、ナタリア様をつかまえてくれていたらと」
レインはダンよりこのダドリーでの生活が長い。
そして、誰よりも聡い。
だから、考えなしの発言ではないことはわかっている。
しかし。
「・・・いまさらだ」
はかない紅の膜をまとった薔薇に視線を落として呟く。
「・・・そうですね。今更ですね」
しかし、レインは言わずにいられない。
せめて、せめて、もう少し。
「でもダン、これは王もご存じでない偽装結婚だとしたら?」
「・・・まさか」
王に忠誠を誓う身として、王命は絶対だ。
しかし大公からの手紙は王命だということを匂わせただけで、書類のどこにも王直筆の文字はなかった。ならば事後承諾、最悪大公の記憶違いということで終わるかもしれない。
先代から王たちは舐められている。
辺境伯の娘の命一つ、いかようにもなるだろう。
「ディアナさまはその可能性が高いとみています。ナタリア様も最初から」
ディアナは幼いころから両親に伴われて宮廷に出入りしていたため、誰よりも暗部を知っている。
ナタリア本人はただの勘らしいが、彼女の洞察力はダドリー随一だ。
グラハムの任務は挙式を行うことだと判断したからとりあえず署名したまでのこと。
「ようは、ナタリア様がテレサ様と同じ道をたどらされる可能性があるということです」
散々弄ばれて、命を散らした女人のように。
「・・・いつまでも、死んだふりをしている場合じゃありません、ダン・ベインズ」
レインはいきなりベインズの腹に手加減なしの拳を繰り出した。
鈍い音が二人の間に落ちる。
「く・・・」
レインの外見は見るからに文官だが騎士として欠かさず鍛錬しており、実力はベインズの次だ。
本気で殴られればそれなりにダメージがある。
「・・・これは、効くな・・・」
「まったく。こっちは無駄に手を痛めてしまいましたよ。あなたの鋼鉄の腹にぶつけるなんて狂気の沙汰だ」
少し前かがみになったベインズに冷ややかな視線をくれてやる。
「いい加減目を覚ましてください。あなたには今までさぼっていた分仕事をしてもらいますよ」
言うなり、ダンに背を向けさっさと歩き出す。
「レイン」
声をかけると、レインは立ち止まって振り返る。
「なんですか」
「・・・すまなかった」
ダンは心からの謝罪を口にした。
「そう思うなら、行動で示してください、今すぐに」
冷たい口調とは裏腹に、心から案じてくれているのがわかる。
「ありがとう、カーク」
「どういたしまして」
さあっと風が通り抜けた。
空の星はなくなり、空が明るさを増していく。
あたりに満ちていた朝靄も花の香りも押し流されて消えた。
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