第三章
第4話
「藤井先生って面倒臭いよね。いちいち細かいし、人使い荒いし。抜き打ちテストもしょっちゅうでしょ?」
「でも、あの人はワンパターンだから、慣れてくれば案外楽だよ」
「そっか。持月くんって、二年の時も藤井先生が担任だっけ?」
「うん」と答えて小さく頷いた持月は、遠慮がちに日誌を指さした。「えっと、そこ違うかも……」
「あ、やっちゃった」
放課後のがらんとした教室には西日が差し込み、時おり強い風が吹き込んだ。日直当番の彼らを除くクラスメイトはすでに下校しており、校舎内のどこかで練習をする吹奏楽部の音色が不規則に鳴り響いている。それらの雑多な音の組み合わせは、先日読破した時代小説の合戦場面を彼に想起させた。
窓際の最後列で日誌を書き綴る百瀬はクラスの新しい担任について愚痴をこぼし、その受け答えをする持月は一つ前の席から上半身を捻って彼女の姿を眺めていた。
「君はスパルタに慣れて、感覚が麻痺しちゃってるのね」
日誌の一部を修正ペンで白く塗りつぶした百瀬は、俯いてそう呟きながら垂れた髪を耳に掛けた。
「そうかな?」
「そうよ」
日誌を書き終えた彼女は、義務だとでも言わんばかりに端の方へ淡々と落書きを始めている。「でなきゃ、元からドMなのね」
「そ、そんなこと……」
「ねぇ。あの日のこと、どうして誰にも話さないの?」
幼い顔立ちに柔らかな表情を浮かべ、つい今しがたまで落書きに夢中だった彼女は突然鋭い眼差しを送った。
目尻が少し垂れ、黒目の大きなその瞳にはどこか責めるような、それでいて弄ぶような色味が伺え、視界に捉えられた持月は言葉を失ったまましどろもどろになってしまった。
「な、何のことかな」
緊張で乾いた喉を懸命に動かした彼は、自身の声に違和感を覚えて咄嗟に咳払いをしたものの、何かが喉に付着したような感覚は拭えない。
「気づかないわけないよね?」
彼女はペン先を持月の方に向け、次いで机の横に掛けた自身の学生鞄に視線を落としながら、「持月くん、あの時このストラップのことじっと見てたもん」と言った。「次の日の朝もばっちりと」
攻撃的な口調でありながら笑顔を絶やさない彼女は、鞄にぶら下がっている熊のストラップをペン先でそっと持ち上げた。
「そ、そんなピンクの熊。どこでも見かけるよ」と持月は言い逃れを試みたが、「この色ね、限定版なの。学校では私以外に持ってる人いないかも」と、彼女はじわりじわりと獲物を狩る野生動物のような具合に彼を袋小路へ追い込んでいく。
「別に、惚けなくてもいいのに」
斜め下から彼の顔を覗き込んでいた百瀬はそう呟くと、椅子の背に凭れて窓の外を眺めた。眩しそうに目を細めるその表情は、先程までの見せかけの笑顔などと異なり、謂わば、彼女本来の姿であるように思われた。
――その日。高校三年生に進級した持月は始業式を終え、教室で待機時間を過ごしていた。もともと友達が多い方ではなかったものの、新しいクラスには幼馴染の嶋田を除き、見知った顔は一切伺えない。運動部の男連中は何やら黒板の付近で騒ぎ立て、物静かな生徒たちは野鳥が巣穴へ戻るように自然とカードゲームを取り囲んでいる。どちらのグループも、彼を歓迎するようには思えなかった。
「お、なになに? 何の話よ」
頼みの綱の嶋田は相変わらず自由奔放に彼らの輪の中へと割って入り、軽やかに出入りを繰り返している。見るからに人柄の良さそうな彼に対し、警戒心や敵意を示す者は誰ひとりとして見当たらなかった。
嶋田は体格が良く、顔立ちも悪くなかったが、総合的に見てどこか間の抜けた印象を与えるのは、飛び出るほどに巨大な瞳が影響しているのだろう。シャガールの絵画に描かれた馬や鶏のように大きな瞳は顔面の比率に対して明らかに不釣り合いで、その些細な欠陥が皆をひどく無防備にさせた。
「誰の目が乾いてるよ! あ、でも目薬は意外とすんなり入るかも」などと掴みのネタを披露する幼馴染を遠目に見ながらため息を漏らした持月は、前途多難なクラス編成に絶望の色を隠せなかった。
仕方なく彼は鞄から文庫本を取り出し、日課の読書に耽りながら担任が姿を現すのを待つことにした。窓際の後ろから二番目。斜め前に座る背の高い男子生徒が程よい防波堤となり、ほぼ完璧な布陣だった。
これで最後列なら言うことなしだったが、残念ながら後ろの席には〈モモ〉と呼ばれる女生徒が腰掛けている。彼女は友達が多いようで、ひっきりなしに現れる友人へ向かいわざわざ立ち上がって大袈裟な挨拶を交わしていた。
前髪を切り揃え、黒い髪を後ろで一つに束ねたその子は誰にでも愛想が良く、ひたすら聞き役に徹している。
一連のやりとりにひっそりと聞き耳を立てていた持月がふと疑問に感じたのは、彼女と親しい間柄の人々に一貫性がないことだった。
持月が言えた義理ではなかったが、彼女は比較的地味な佇まいをしている。ところがその話し相手には快活な運動部の女子やスカートを極端に短くした化粧の濃い女子など、いわゆるカースト上位層の連中も多く含まれていた。
それでいて内向的な者たちにも好かれている所を見れば、もしや嶋田のように立場に拘りを持たない人物なのかもしれないと思えて持月はすぐさま彼女に好感を持ったが、異性に向かって気軽に話しかけるような器量がそもそも彼にはなかった。
諦めて文庫本に視線を戻し、持月が読書に集中し始めたところで後ろから肩を叩かれた。振り返ると、例の彼女が笑顔を向けていた。
「初めまして、だよね? 私、百瀬冬華。よろしくね」
「百瀬って……。あっ! えっと……」
彼はその名に一瞬反応を示したが、続けて言
葉が浮かんで来ず、「うん」と答えながら咄嗟に俯いた。それを会釈と受け取ったのか、彼女はすぐさま隣の席へ声を掛け始めている。
考えてみれば席の近い者に軽い挨拶を寄越しただけの話だったが、唐突に距離を縮められたように感じた持月はひどく動揺してしまった。今さら名乗るのも気詰まりになり、彼は前方に向き直った。
随分と待ってようやく担任が来るとすぐにホームルームを始めたが、今日のところは挨拶程度であっさりと解散になった。
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