第8話 プレーゴ宮

 シオンが皇宮にやって来て一ヶ月半ほど過ぎた頃、彼女のために用意されているはずだった宮殿の改修工事がようやく終わった。

 プレーゴ宮と名付けられたその宮殿は、皇宮の敷地でも奥まった場所にあった。他の宮殿と比べるとクラシカルな雰囲気で、それがまた荘厳な趣を感じさせる立派な宮殿だった。

 揺れる馬車の中から宮殿を見上げるシオンは、目を輝かせていた。だが、その向かいでどこか納得いかない表情をしている人物がいた。


「どうしたの、シャーリーン?」

 シオンは首をかしげる。

「だって、広い皇宮のなかで、こんな辺鄙なところに……」

 辺りは小規模ながら、森が広がっていた。まるで周囲から隔絶されているようだと、シャーリーンは思った。


 シャーリーンは子爵家の末娘として生まれた。実家は裕福で、兄や姉たちが優秀であったこともあり彼女は自由に生きよと育てられ、政略結婚を求められることもなかった。皇宮の侍女として働こうと思ったのは、さまざまな研鑽を積むためであった。

 仕事に慣れ始めたころハンナに声をかけられた。市井から迎えられる皇女の専属侍女を打診されたのである。訳ありであることは周囲の様子からも判った。その皇女の母親が、後宮の呪いと言われている妃たちの死に関わっているということは後に知ったことであるが、皇女として迎え入れられた柔らかな銀の髪に紺碧の瞳の儚げな雰囲気の少女を、シャーリーンは一目で気に入った。

 貧民街で生まれ育ったと聞いていたが、そうとは思えないほどに知識が豊富で賢く、皇族としての礼儀作法を必死で覚えようとする懸命な姿も好印象だった。

 シャーリーンはオラシオンに仕えていることを誇りに思っていた。だからこそ、主人である彼女が不遇な扱いを受けているのではないかと胸の奥がざわついた。


「あたしは、素敵なところだと思うけど?」

 シオンは彼女が何に不満を抱いているのか判らず、困ったように眉を寄せた。そんな表情をさせたかったわけではない、とシャーリーンは言葉を飲み込む。

「大丈夫ですよ。陛下はオラシオン様のことをちゃんと考えておいでです」

 ハンナは諭すようにシャーリーンに言った。


 馬車が到着し、扉が開くと先に来ていた皇帝がシオンに手を差し伸べた。

「わあ……!」

 外に出て見上げた宮殿は、やはり素晴らしかった。

「気に入ったか?」

 リチャードに訊かれ、シオンは大きく頷いた。それを見て、リチャードは表情を和らげた。皇帝という立場から普段はあまり感情を表に出さないリチャードだが、娘の嬉しそうな姿に彼自身も喜びを隠しきれないらしい。


「けど、本当にいいんですか?」

 シオンは急に不安げにリチャードを見上げた。

「なぜそう思う?」

「だって、ここは魔術師にとって最高の立地ではありませんか? 皇宮の中でも大地を流れる霊脈の質が良くて、マナも非常に澄んでいる。あたしなんかが使うよりも宮廷魔術師みたいな人が使うべき場所です」


 それを聞いて、シャーリーンはハッとした。傍から見れば辺鄙なところに位置し、鬱蒼と草木が茂る不便極まりない場所だが、特定の人物にとってはこれ以上ない最高の立地らしい。魔術の才能があり、市井では呪術師として生計を立てていたシオンにとって、ここは最高の場所だった。

 ちゃんと考えておいでだとハンナが言っていた意味を、シャーリーンは理解した。


「案ずることはない。そもそも、ここはお前が受け継ぐべき場所なのだから」

 リチャードはシオンを安心させるように語り掛ける。

「どういうことですか?」

「この宮殿の元の持ち主は、お前の祖父なのだよ」


 シオンは目を丸くした。詳しく話を聞きたそうにしていたが、中を案内しよう、と意気揚々のリチャードに連れられプレーゴ宮に足を踏み入れた。



 〇



「ここでの暮らしには慣れたか?」


 一通り内見を済ませたシオンは、リチャードと応接室でお茶をすることになった。

皇帝というのは大変な立場なのだろうとなんとなく考えていたシオンだったが、皇宮で暮らし始めてからは思っていた以上に多忙であることを知った。ともに食事をしたのは皇宮に初めてやってきたときの夕食のみで、それ以降は何かと気にかけてくれている様子はあったものの、顔を合わせる機会というのはあまりなかった。そのため落ち着いて一緒にお茶をするのも、これが初めてだった。


「はい。ハンナとシャーリーンのおかげで困ったこともなく過ごせています」

 二人の侍女は、皇宮の暮らしに不慣れなシオンにとても良くしてくれた。部屋の掃除を担当していた侍女が、陛下からの贈り物を盗むという事件があったりもしたが、二人が気を配ってくれたこともあり、その後は困ったこともなく過ごせていた。


「そうか。いつあの家に戻りたいと言い出すか、内心気が休まらなかったものだ」

 貧民街の家は、シオンの希望通りそのままにしてある。週に一度は使いの者が掃除を行ったり、異変がないかと管理してくれているという。

 はじめはシオンも、ホームシックであの家に帰りたくなるかもしれないと思っていたが、新しいものを見たり、学んだりしているうちにすっかり皇宮での暮らしに慣れてしまっていた。


「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。時々、街での暮らしを懐かしむことはありますが、今のあたしの居場所はここです。勝手にいなくなったりはしないし、陛下からの依頼を放り出すなんてことは絶対にしません」


 後宮の呪い。その真相を突き止め、母親の潔白を証明する。そのためにシオンはここにいるのだ。

「……そうだな」

 リチャードは頷くが、その内心では自ら打診しておきながら、危険なことには手を出してほしくはないと考えていたので、わずかに眉をひそめていた。


「ところで、この宮殿は元々、あたしの祖父のものだったと仰っていましたが?」

 シオンの祖父にあたる人物は住み込みの宮廷魔術師で、母であるグラデシアは皇宮で生まれ育ったとハンナが言っていたのを、シオンは思い出す。

「お前の祖父は首席宮廷魔術師として、この国に仕え繁栄させた功労者だった。その功績を称えて、当時の皇帝から賜ったのがこの宮殿というわけだ」

「けど、皇族でもない人が皇宮に宮殿を構えるなんて、とても珍しいことですよね?」

「それだけ、あの男は立派だったということだ。そして、お前の母親はここで生まれ育った。幼い頃、よくそこの庭園で一緒に遊んだものだ」

 シオンは窓から見える庭園に目をやる。ここにはシオンの家族が住んでいて、リチャードにとっても思い出深い場所だと判り、なんだか感慨深い気持ちになった。


「本当はお前が来てすぐに贈りたかったのだが、グラデシアが去ってからどうも厄介な結界が張られていて、それを解除するのに時間が掛かってしまってな。その結果、回収工事も遅れてしまったというわけだ」

「そうだったのですね」

 宮廷魔術師であった祖父や母親が暮らしていた宮殿ということは、魔術師の工房があってもおかしくはない。素人が知らずに手を出せば何が起きるか判らない。結界を張ることで、主がいなくなった工房に他人が立ち入らないようにしたかったのだろう。


 だが、ここでふと疑問が湧く。

 誰が結界を張ったのか、ということである。

 一番に考えられるのは、母であるグラデシアである。しかし、シオンを守るために皇宮を出たはずの彼女が、そんなことをするだろうか。皇宮に戻ってこれる保証はどこにもなかったのだから、結界を張って保存しておくよりも、工房を破壊してしまうほうが手っ取り早かったはず。


 ──あたしが皇女として迎え入れられると確信していたのなら納得がいくけど、本当にそうなのかな?


 なんだか腑に落ちない。違和感がずっと付き纏っているようだった。


「何か気に入らないことでもあったか?」

 急に黙り込んでしまったシオンに、陛下が声をかける。

「いえ、気に入らないなんて……」

 そんなことあるはずない、と思わず両手と首を振りながら言う。シオンにとって、ここは十分すぎるくらいの場所である。

 引っかかった何かを頭の片隅に置いておきながら、シオンはプレーゴ宮で始まる生活に思いを馳せた。


「そうだ。近いうちに食事会を開くつもりだ。そこで家族にお前のことを紹介しようと考えている」

 いよいよか、とシオンの両手に力が入る。

 リチャードの子どもはクロードの他に、皇子が二人と皇女が一人。クロードは快く受け入れてくれたが、他の兄妹たちや彼らの周りにいる妃たちの側近であった者たちはシオンのことをどう思っているのか。

 まだまだ気を緩めることはできない。


「怖れることはない」

 シオンの心配を察したのか、リチャードが口を開く。

「皆、聡明だ。疑念を持っている者もいるかもしれないが、きっと受け入れてくれるだろう」

「そうですね。クロード兄様は優しかったですし、そこまで気を張らなくても大丈夫ですよね」

 シオンが言うと、リチャードのカップを持つ手がピクリと反応した。

「クロードに会ったのか」

「はい。図書館に行ったときにお会いして、それから偶にお話をさせていただいています」


 図書館でクロードと遭遇して数日、あれからまた何度か図書館に足を運ぶと、人目の付きにくい読書スペースで昼寝をしているクロードに会うことがあった。彼は公務をサボるとき、よくこの場所を利用しているらしかった。疲れているのかと思って、はじめのうちは見かけてもそっとしておいていたのだが、そのうちにクロードのほうから声をかけてくるようになった。

 グラデシアが母親代わりであったクロードにとって、シオンは他の弟妹たちよりも自分に近い存在であると感じていた。そして彼女の姿に懐かしさを覚えていた。

 シオンはシオンで、そんな彼と母親を通して話ができることを嬉しく思っていた。


「……あいつのことは、そう呼んでいるのか」

 リチャードが呟く。しかし、その言葉はシオンの耳には届かなかった。

「どうかされましたか、陛下?」

「…………いや」

 急に不機嫌そうになったリチャードに、シオンは戸惑う。なにか機嫌を損ねるようなことを言ってしまっただろうか、と考えを巡らせてみる。しかし、リチャードが本宮に戻るときまで、その理由に思い至ることはなかった。



2023/06/05…改稿

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