3・1初回

 リヒターに出会ってからきっちり一週間後。

 町娘の格好をして屋敷から抜け出し、すぐそばの約束の場所に向かう。彼はすでに来ていた。相変わらず顔は見えない。だけど私を見て、よっと上げた左手に大きな傷。


「よかった。約束を守ってくれて」

「楽に稼げるからな」


 まずはパン屋だ。並んで歩きながらなんとなく、お互いにこの一週間の出来事を話す。


 リヒターは下町で起こったちょっとした騒動を、おもしろおかしく語った。口調は汚いけれど、すごく話が上手い。貴族にだってもっと要領を得ない話し方をする人たちがたんといる。


 一方で私が提供できる話題なんて、あまりない。読んだ本や音楽会の話なんて興味がないだろう。そこで階段を踏み外して転がり落ちたことと、その時の悲鳴が淑女らしくなかったと母親に叱られたことを話したら、お前は本当に公爵令嬢かと笑われた。


「どんな悲鳴をあげたんだよ」とリヒター。「どうせ男みてえにギャーって叫んだんだろ」

「覚えてないよ。焦ってたんだから」

 多分リヒターが正解だけどさ。リリーにも、悲しくなりましたと言わしめたひどい悲鳴だったみたいだから。


「だけどよく怪我しなかったな」

「運動神経には自信があるの」

「そもそも運動神経がいい奴は階段から落ちねえ」

「ギクリ」

「だいたい公爵家のお嬢様に運動神経なんて必要ねえだろ」

「そんなことない。ダンスはスポーツだよ! 美しく踊るのは大変なんだから」

「知るかよ」


 案外と話は弾んで、あっという間に馴染みのパン屋に着く。外で待っているというリヒターを置いて一人で店内に入ると、

「いつものと同じ!」

 と叫ぶ。カウンター超しにカゴを受け取ったおじさんは、いつもと違って難しい顔をしていた。


「どうしたの?」

「うーん」とおじさん。チラリと外を見る。それから私を見る。「今、一緒に来たあいつ、恋人か?」

「違うよ。ただの知り合い。なんで? 彼を知ってるの?」

「まあ」と返事をしながらおじさんはゆっくりとカゴにパンを詰める。「裏街の奴らがあいつを避けて通るって噂だ」

 裏街というのは都の中でも風紀が悪い辺りだ。いかがわしい店が並び、ヤクザ者や流れ者、マフィアの連中なんかがたむろしているという。


「……普通の人だけどな」

 確かに口調は汚いし、自分でもごろつきに顔が利くと言ってたけど。

「先週チンピラに囲まれてね。パンを奪われかけたのを助けてくれたんだよ」

「ふうん。まあ、気を付けな。顔を隠したあんな男をお嬢ちゃんみたいな可愛い娘が信用しちゃいかんぞ」

「……うん」


 やっぱり不審な男なのかな。

 さっきまでの楽しい気持ちが急速にしぼむ。


 カゴを受け取り店から出る。

「お待たせ」

「なんだ? 急にしょぼくれてんな」リヒターは言いながらカゴに手を伸ばした。「重いだろ」

「持ってくれるの?」

 先週はそんなことはしなかった。

「貰う金ぶんの仕事はするぜ?」

「……支払うのは護衛代だよ。荷物持ちぶん上乗せする?」

「……お前、細かいな」

 いいから貸しなとリヒターはカゴを取った。


 再び並んで歩く。

「店主がね、顔を隠した男を信用しちゃダメだって言ったの」

「まあ、普通の反応だ」リヒターはうなずく。「お前がおかしい」

「自分で言う?」

 彼は肩をすくめた。

「私は自分の直感を信じるよ」

 直感?とおうむ返しに聞かれる。

「うん。悪い人には思えない」

「お前は危ねえな。世間知らずで尻の青いお嬢ちゃんが、直感なんて信じんなよ」


 ……彼は確かに不審だけれど、悪い男には思えない。

 それとも、こんな風に気軽に気取りなく言い合えることに浮かれて、見誤っているのかな。


 黒い前髪に隠れた顔を見る。リヒターは一体どんな目をしているのだろう。

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