第95話






その時は突然訪れた。


明日にでもこの古城を発とうとしていたのに、一足遅かった。




朝目が覚めると、古城は追手である白騎士団に包囲されていた。そして……。


『リディア⁉︎』


隣に寝ていた筈のリディアの姿がない。全身が凍りついた。


こんな時に、一体何処にっ……。


ディオンは枕元に置いていた鞘を徐に掴み、そのまま部屋を飛び出した。長い廊下をひたすらに走る。


何時もなら、自分より早く起きる事などないのに、こんな緊急時に限って早起きとは……我が妹は悪運でも持っているのか。いや、それは自分か。



『リディアー‼︎』


喉の奥が切れそうなくらい、叫んだ。この広い古城に、ディオンの声だけがこだましていた。人の気配はない。まだ、騎士団等は突入してはいない様だ。


『リディアっ‼︎』


息が苦しい。足が絡れてくる。だが、どれだけ走ってもリディアの姿は見当たらない。


既に騎士団に捕まったか……いや、保護されたと言うべきか……。何しろ今の自分は、王太子の婚約者を誘拐した悪人なのだから。それに、もしかしたらリディア自ら出て行った可能性もある。


だが、それなら納得が出来る。


リディアに見限られたんだ……。だから、自分を起こす事なく、部屋を出た。


いや違うな。本当は始めからリディアは嫌々付いて来ていたのかも知れない。優しい妹は兄を哀れんで、見捨てられず今日まで共にいてくれた。


だが、本当はずっと帰りたかったのだろう。だから、俺が寝ている隙を見て騎士団の元へ……。


頭が混乱して、自分でも何を考えているのかが分からない。次から次に最悪の事ばかりが浮かんでは消えて行く。


どんな理由わけを探そうとも、言える事は……リディアはもういない、ただそれだけだ……。


そう思った瞬間、一気に全身の力が抜けていく感覚がした。ディオンは、床に力なく倒れ込む。


騎士団等が、リディアに危害を加える事は、ないだろう。だからもういい……リディアがそれを選んだのなら、それで……いいだろう……。


『これまで、だな』


どの道あの数の騎士相手に、流石のディオンでも逃げ切る事は不可能だ。ただ後悔するのは、最期にもう一度リディアの顔を見たかった……そんな事をぼんやりと考えていた。








『ディオン⁉︎』


顔を声を上げると、そこにはいる筈のないリディアの姿があった。


『リディア、お前……どうして。騎士団の所に行ったんじゃないの……』


『騎士団?何それ。私は早く目が覚めたから、馬にご飯いっぱいあげてきたのよ。だって今日の昼間には城を発つって言ってたから。いっぱい走るから沢山ご飯を食べないとって……ディオン⁉︎』


ディオンは起き上がり、リディアに抱きついた。その勢いにリディアは後ろに蹌踉めき尻餅をつく。

訳も分からず兎に角リディアにしがみ付いた。まるで母親に捨てられたくないと必死にしがみ付く子供のように……。


『ディオン?』


様子のおかしいディオンにリディアは、眉根を寄せる。だが、リディアは、優しく抱き締め頭を撫でてくれた。


『リディア……』


少し落ち着きを取り戻したディオンは、リディアに今の置かれている状況を簡潔に説明をした。すると彼女は意外な反応を見せる。


『ふふ』


『お前、何笑って』


この場に相応しくない笑い声に、ディオンは戸惑った。


『私は、何処にも行かないわ』


『っ……』


予想もしなかった言葉に、ディオンは不覚にも目が熱くなる。


『ねぇ、ディオン。私は、ディオンの側から離れたりしない……だから、大丈夫よ』


そう言って鮮やかに笑うリディアは、この世の何よりも美しいと思った。






『っ……』


気付いた時には、リディアの首に手を掛けていた。徐々に力を込める。……手が尋常じゃなく震えた。だが、手がリディアの首を離す事はない。


『リディアっ……すまない……こんな、お兄様で……っ』


もう、逃げられない。程なくすれば、騎士団は城の中へ突入して来るだろう。だが……。


『やっぱり、俺には……出来ない。お前を手放すなんて……渡したくないっ、誰にも』


手放すくらいなら、自分の手でリディアを殺す。狂っている。自分でも分かっている。だがもう、こうする事しか自分には出来ない。


更に手に力を込めると、リディアの顔が歪む。それでも、彼女は微笑み続けてくれた。


まるで俺を赦すと、そう言わんとばかりに……。


『リディア……愛してるよ』


そのまま唇を重ねた。リディアの意識がある時に、口付けるのは初めてだった。大きな瞳から涙が溢れ出していた。真っ直ぐに俺を見ながら。


瞬きすら忘れて、リディアを凝視した。気付けば自分の目からも涙が流れていたのを感じた。それを力なくリディアの手が拭ってくれた。


俺の頬を優しく撫でて、くれた。


どれだけそうしていただろうか。やがてリディアは動かなくなった。


『リディア』


唇を離し、人形の様に動かなくなった彼女の頭を髪を首を頬を、撫でた。


『莫迦なお兄様を、赦して欲しい……』


リディアを掻き抱いた。鞘から剣を抜き、そして…………リディアごと自身の身体を貫いた。


二人の赤い血が、混じり合うを感じた。生暖かい。思わず笑みが溢れた。これでもう、離れる事はない。


『リディ、ア…………あい、し』


ー 愛しているよ ー






確かに、俺はその時死んだ。

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