第64話



あの夜から一か月。リディアは眠れない日々を過ごしていた。毎日寝不足だ。ハンナには「目の下が異国の白黒の動物の様です」と言われた。何だっけそれ……と思った。


「はぁ……」


ため息をばかりが出てしまう。やはり夜会など参加すると碌な事にならない。次から次に小さな事柄かも知れないが、事件が起こる……リディアにとっては一大事だ。


「何よ……人にはあんなドレスで着て行けって言った癖に、自分は正装して、仕事中に……女の子と……」


口に出すと更に気持ちが沈む。


ディオンは、あの女性と結婚するのだろうか……。自分と、多分そう変わらないであろう歳だった。


だがリディアより遥かに大人びて色香もあり、所謂美女で、身体つきも女性的魅力に溢れていた。大きく開いた胸元からは、豊満な胸がこぼれ落ちそうだった。きっと男なら、誰しも彼女の魅力に惹かれる。……ディオンもその一人だろう。


「……」


妖艶に笑みを浮かべる彼女が頭から離れない。ディオンにしなだれ掛かり「続きをしよう」と甘えた声で強請っていた。あの後二人は甘い夜を過ごしたのだと、想像するに容易い。



私を抱き締めた腕に彼女を優しく抱き入れて、私の頭を髪を撫でた手で彼女の頭や髪を愛おしそうに撫でて、私の名を呼んだ声で甘く彼女に囁く……私に口付けた唇で彼女に貪る様に口付け……っ。


「ゔ……気持ち、悪、い……っ」


考えるだけで気分が悪くなり、本当に吐き気がしてくる。ここの所眠れないだけではなく、食欲もないし、身体も怠い。動くのが辛い。


リディアはその場で蹲る。


「……苦し、い」


「リディア様っ⁉︎」


ハンナの声が聞こえて、リディアはそこで意識を手放した。











温かい……凄く、安心する。優しく包まれている感覚を覚える。


誰かが私の手を握っている……。


リディアは重たい瞼をゆっくりと開けた。頭がまだクラクラして視界が定まらない。だが握られている右手の感覚だけはやけに鮮明に感じる。確かめる様に何度か手を動かしてみた。


「あぁ、起きたの」


すると聞き慣れた声が聞こえた。その声に反応して、自分の手の先を辿るとそこには左手でリディアの手を握りながら、逆の手では本を手にして椅子に座る兄の姿があった。


「ディオン……」


「まだ、寝てな。お前、寝てなかったんだろう」


あの夜から一度も顔を合わせていない。久しぶりに顔を見た。たった、ひと月。これまでなら当たり前で、何ヶ月も顔を合わせない事も珍しくなかった……それなのに、今は酷く恋しくて、懐かしくさえ思えてしまう。


「ディオン」


まだぼんやりする頭で、名を呼び、確りと噛み締めた。


「どうした、何処か痛いの?少し前に医師に診せたけど、もう一度呼ぼうか」


手を伸ばしたら頭を優しく撫でなられた。大きくて優しい兄の手だ。心地が良い……。


もっと触れて欲しくて、ディオンの手に自分のそれを重ねた。普段なら揶揄う言葉の一つでも言われてもおかしくない。『お兄様に甘えたくなっちゃった?』とか……。だが兄は何も言わない。それどころか、リディアの頭から手を離すと、未だベッドに横になっているリディアの上に覆い被さる様にして抱き締めてきた。


「リディア」


兄の熱い吐息が耳に掛かる。

突然の事に目を見張るが、久しぶりのディオンの匂いや温もりに包まれ頭がぼうっとした。何も考えられない。いや、何も考えたくない……このままずっと、この腕に抱かれていたい。……リディアは、ゆっくりと目を伏せた。


「……っ」


その瞬間脳裏に、ディオンとあの女性が抱き合う姿が浮かび上がる。


「い……嫌っ‼︎」


ディオンの胸を力一杯押し返した。つい先程まで心地良く思った温もりが、急に気持ち悪く感じた。


「リディア?」


身を離したディオンは不審そうにこちらを見遣る。


「……って」


触って欲しいのに、触られたく無い。抱き締めて名前を呼んで欲しいのに、抱き締められたくない、名前を呼ばれたくない。矛盾していると分かっている。


だが……あのひとに触れた手で、嫌だっ。


「私に、触らないでっ!出って行って‼︎」


ディオンの手が腕が、身体が穢いと思えた……。ディオンに触れられた自分の手が、頭が、髪が、全て穢く感じた。頭が錯乱する。頭からあの女の笑みが、ディオンに触れている身体が、焼き付いて離れない。


「リディア……どうした」


やめて……どうして、今日に限ってそんな優しい声で呼ぶの?そんな優しい顔で見るの?何時もみたいに素っ気なく冷たくしてよ……。


苦しい、苦しい、苦しい……息が出来ない。呼吸が止まりそうだった。心が、身体がバラバラに裂けてしまいそう。それくらい自身の全てが、痛くて苦しいっ……。


リディアはベッドの上で自身の身体を掻き抱く。


「リディア」


あぁ……これって、そっか……私…………私。


私、ディオンが…………好きなんだ。


家族じゃなくて、兄じゃなくて、一人の男性として……彼が好き、なんだ。


そう自覚した瞬間、リディアは全身の力が抜けて行く感覚を覚えた。それと同時に、云い知れぬ悲しみと絶望に襲われた。


この想いは、本来持ってはいけないもの。いくら血の繋がりがなくとも、自分と彼は兄妹だ。ずっと兄妹として育ち、そう在った。だからこれからも、そうあり続けるべきで、そう在らないといけない。



「一人にして……」


ようやく絞り出した声は掠れ過ぎて、辛うじて言葉になった。


「リディア、お前……」


「お願い……もう、大丈夫だから。私は大丈夫。大丈夫だから……



こんな気持ち、ディオンには知られてはいけない。

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