◆14 ~ 嘘

 扉を叩いたノックの音に「はい」という返事が聞こえ、わたしは扉を開く。


 屋敷の隅、わたしの部屋の隣にある妹の私室。

 その部屋は、何も変わってはいなかった。とてもシンプルで、物も少ない。私物なんてベッドに置かれた古ぼけたぬいぐるみぐらいだ。


「……おねえちゃん?」


 机の前に置かれた椅子から立ち上がり、ミミは唖然とした顔で、いつものように私を呼んだ。


「ひさしぶり、ミミ」


「おねえちゃん……おかえりなさい」


 張り合いのないその返事に、思わず目を瞠る。

 向日葵のように明るかった笑顔が、まるで……いつかの母のような、儚げな笑顔に見えた。


「……うん、ただいま」


 胸をよぎる後悔に苛まれながら、私はそっと妹を抱きしめる。

 大きくなった背。いつの間にか、差があったはずの身長も、今ではほとんど同じぐらい。


 ――わたしが家を出て、もう三年と半年。

 その間この子は、ずっとこの家で一人だった。


 本当なら、この子を連れて家を出たかった。けれどあの時のわたしには、そんな選択肢は許されなかった。

 ただ前だけを見て、走り続けて――この子だけは、必ず守ると誓ったのに。今はもう、それが正しかったのかすらも分からない。


「お茶、用意するね」


 すっと身体を離し、笑ってそう言った妹に、「うん」と私は頷いた。


 ふと、妹が向かっていた机が目に入る。

 その机には、一冊の手帳が置かれていた。


 妹に手を引かれながら部屋を後にして、リビングで向かい合う。

 テーブルに置かれたのは、薄めた紅茶。古都で飲むものとはまるで違って、ほとんどお湯と変わらない。

 一時期は、もっと酷かった。切れ端のパン、味のないスープ、少しでも美味しいものを食べたいと妹と二人であれこれと工夫した。でも、わたしは料理はまるでダメで、妹に頼りっぱなしだった。


「お待たせいたしました」


 ランドさんが、机の上に皿を差し出す。


「お姉ちゃん、これって……」


 一瞬きょとんとしたミミだったが、皿の上に乗ったものを認識すると、目を輝かせた。

 色とりどりのクッキーやマフィンといった、お菓子の数々。まず実家では見かけない高級品。


「お土産。ほかにも一杯買ってきたから。遠慮しないで食べて」


「ほんと!?」


 目を見開き、おずおずとクッキーに口をつけたミミは、その頬を緩ませる。


「お姉ちゃんも食べなよ!」


「わたしはいい」


 学院に帰れば、わたしは食べられる。ミミと違って。

 そう断ったわたしに、妹は笑って、クッキーを掴んで手を伸ばしてきた。


「はい、あーん」


「……ん」


 そうまでされては食べないわけにはいかないと、ぱくりとクッキーを齧る。

 咀嚼しつつ、紅茶を口に含んで……ああしまった、と思った。


「そういえば、お茶も買ってきたんだった。たくさん」


「なにそれ! もう、早く言ってよね!」


 薄めなくていいじゃない、と文句をつけて、ミミは噴き出した。

 ミミの笑顔に、温かくなるものを感じながら、もう一度薄い紅茶を口に含む。


「お姉ちゃん、学院のほうはどう?」


「ん。手紙に書いたとおり」


「もう。そうじゃなくて、お姉ちゃんの口から聞きたいの」


 それもそうかと、学院の話を少しずつ語って聞かせる。


 訓練の話。はじめての魔物を討伐したときは緊張した。

 友達の話。シェリーには、いつも助けてもらっている。

 ライバルの話。イリアは、私にとって自慢の後輩で、ライバルだ。

 大会の話。……きっと私が結果を残せたのは、先生と、掛け替えのない友人たちのお陰で。


 下手くそな私の話を、妹はニコニコと笑いながら、楽しそうに聞いている。

 どれほど語っても語り尽くせないほど、この三年半は濃密だった。

 そうやって私の中で大切なものが増えるたびに、妹の顔が浮かんだ。

 見失ってはいけないものだけは、絶対に忘れないようにと。


「……ミミ」


「? なに、おねえちゃん」


「……ミミが、結婚するって聞いた」


「そうだよ。相手はすごいお金持ちだって。すごいでしょ」


「ミミは、それに納得している?」


 聞きたかったのは、それだ。それだけのために、帰ってきた。


 ……少なくとも結婚するのなら、こんな生活とは無縁になれる。それはそれで良いことだ。

 父の言うことも、母の言うことも、間違っていない。

 結婚したほうが、ミミは幸せになれるかもしれない。

 愛なんてなくとも、やがて育まれるものなのかもしれない。

 それを本当にミミが望むのだとすれば、私は全力で応援する。


 けれどもし、ミミがそれを望まないならば――


「うん」


 ミミは笑顔のまま、頷いた。


「ミハイルさん、優しい人だよ。結婚したら好きにしていいって言ってくれたし。こんな良い条件もないかなって」


「……本当に?」


「本当だって。もう、心配しすぎだよ、お姉ちゃんは」


「……そう」


「うん。あ、式にはちゃんとお姉ちゃんも出てよね!」


「ん」


 私は紅茶を飲みながら……そう言って笑うミミの、右手で左手をさする仕草を見逃さなかった。

 ミミが嘘をつくときの、いつもの癖を。


 ミミの部屋に泊まることになったわたしは、一緒にお風呂に入ろうという言葉に抗えず、体を洗いあったりと騒がしい時間を過ごした。

 ベッドに腰かけ、色んなことを話して――そうして、外が夜に染まりだした頃。

 ノックの音が、部屋に響く。


「――ミミお嬢様。旦那様がお呼びでございます」


「え?」


「……ランドさん。それはミミだけ?」


「はい」


 間髪無く扉の外から返ってくる声に、ミミと目が合う。「こんな時間に?」と首を傾げつつも、ミミは立ち上がった。


「それじゃ行ってくるね。あ、帰っちゃダメなんだから!」


「ん」


 また後でね、と扉をくぐりながら何度も注意してくる妹を苦笑しつつ見送って、アイーゼは天井を仰いだ。


(ミミは、嘘をついている……)


 その結婚が、本当は望まぬものであることは確かだ。

 確かだとして……なら、どうして嘘を?


(わたしは……どうすればいい?)


 結婚に反対するのが正しいのか。

 本当に、ミミがそれを望んでいるのだろうか……。


 ふと視界の端に、テーブルの上に置かれた一冊のノートが映った。


(あれは……)

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