見知らぬ女子高生に監禁された漫画家の話【増量試し読み】
穂積潜/角川スニーカー文庫
◆
俺が目を覚ますと、見慣れぬ天井がそこにあった。
(ここはどこだ? 無性に頭が痛い。喉が痛い。身体もだるい)
暗い。
カーテン越しに差し込む月明かりはおろか、電化製品が放つささやかな光の点滅すら、俺の目には届かない。
(今何時だ? そうだ。スマホ、スマホはどこだ)
光源と情報を求めて、俺は仰向けに寝転がったまま手を伸ばす。
しかし、空気を掴むばかりで、一向に手ごたえがない。
仕方なく重い身体を起こす。
「ウッ。ゲホッ。ゲホゲホゴホ!」
それは不意打ち気味にやってきた。
喉に突きをくらったかのような息苦しさ。
確かに俺の扁桃腺は腫れてるっぽいけど、これはそういうのとは違う不快感だ。
思わず首に手をやると、冷たい金属の質感。
(これは、首輪と――鎖?)
首を取り巻くドーナツ状のチョーカー。
そのチョーカーの首の後ろにあたる部分に鎖が連結され、さらにどこかへと伸びていた。
(鎖で繋がれている。つまり――俺は監禁されている?)
その事実に気が付いた瞬間、鳥肌が立った。
この悪寒も、多分体調不良のせいではない。
(冷静に、冷静になれ)
深呼吸して、じっと目が暗闇に慣れるまで待つ。
殺風景な部屋に、ぼんやりと浮かび上がる直方体のシルエット。
(箱?)
俺は鎖の長さに気をつけながら、箱に這い寄った。
幸い、そちらは鎖の限界とは逆方向だったらしく、難なく辿り着く。
ツルツルとザラザラの中間くらいの紙。
箱はダンボールのようだ。
ダンボールの上に何かがのっている。
スベスベした感触の、薄く平たい板。
右隣には三本の指に馴染む、短めの棒。
それは、いくら薄ぼんやりとしていても、俺が見間違うはずのない物体だった。
(液晶タブレット! これで助けを呼べる!)
液晶タブレット――液タブは使い慣れた道具だ。
電源の位置は見なくとも分かる。
起動音がやけに大きく聞こえた。
画面が点灯する。
ネットには繋がっていない。
画面の端に表示された時刻によれば、今は二十三時十七分らしい。
インストールされているアプリは、イラストソフトただ一つのみ。
(でも、これは、確かに俺のタブレットだ。どうして、こんな所にこれが――)
ガタ、ドタ、ガタ、ガタ、ドタドタドタドタ。
何かを思い出しそうになったその時、不意に部屋の外から物音が聞こえた。
ギイイイ。
俺が振り向くと同時に、開かれるドア。
部屋の電灯がつく。
眩い光に反射的に目を閉じた。
再び目を開いた次の瞬間にはもう、俺の前に女子高生がいた。
なぜ女子高生と分かったかといえば、制服を着ているからだ。
制服だけなら女子中学生の可能性もあるけど、身体の発育的にその線はない。
俺は、下から見上げるように彼女を観察する。
裸足だ。
ボトムスは短めのスカート。
トップスはブレザーとシャツ。
シャツは第二ボタンまで開け放たれて、鎖骨がはっきりと見えている。
口元には黒マスク、指にはネイル。
小顔で、目はぱっちりとしている。
髪は黒で、腰にかかるくらいのロングヘアである。
マスクのせいで断言はできないけれど、雰囲気で美少女だと分かるほどの美少女だ。
ここまではいい。
『いかにも今時な女子高生』の一言で説明がつく。
しかし、彼女はどうしても今時の女子高生には似つかわしくない物を、右手に装備していた。
包丁だ。
家庭で普通に使われている一般的な三徳包丁である。
もちろん、女子高生が包丁を持っていてもいい。
それが台所ならば、愛のこもった手料理などが期待できる。
だが、その包丁が、俺の鼻先に突き付けられている状態となれば話は別だ。
そして、幸か不幸か、俺はそんな彼女の姿に見覚えがあった。
(そう。俺は確かに、彼女に会ったことがある――)
俺は彼女をじっと見つめながら、記憶を手繰り寄せ始めた。
* * *
俺はスランプだった。
当時連載していた作品が完結し、新作の企画を通さなければいけない状況。
なのに、担当編集に売れ線だからと慣れないラブコメの企画を求められ、ろくなアイデアも浮かばず、怒涛のボツが続いていた。
現実逃避のために、酒とタバコに逃げる日々が続き、挙句の果てには睡眠薬に頼らなければ眠れないほどのストレスを抱えていた。
当然、そんな精神状態でいいアイデアが思い浮かぶはずもなかった。
(彼女の姿を見かけたのは、確か、そんな時だったっけ)
思い出した。
あれは、新企画の参考にするための漫画を買いに、本屋に行った時のことだった。
正直、活躍している同業者の漫画がズラっと平置きされているのを見るのも辛い時期だった。でも、俺が買いに行った漫画は、嫉妬するのもアホらしくなるほど売れている作品だったから、何とか耐えられた。
仕事のために買った漫画は経費にできる。
そのために領収書が必要なのだが、俺の名前は文字にすると結構複雑で、口で言っただけでは中々分かってもらえない。
なので、自分で書こうとレジのカウンターに身を乗り出した。
そして、その時にスマホを落とした。
いや、落としたらしい。
普通、スマホを落としたら音で気づくだろうと思うのだが、その時の俺は全く分からなかった。
なにしろ、当時の俺は、常に耳にイヤホンを突っ込んで、外界を拒絶していたし、日中でも常にぼーっとしていて、正常な判断力を有していなかった。
そんな中でも領収書をもらう余裕だけはあるのだから、我ながらせこい話だとは思う。
でも、長く自営業をやっていると、買い物する時に領収書をもらうという作業は習慣化していて、ほとんど無意識にやっているのだ。
ともかく、俺はスマホを落とし、気づかないまま店を出た。そこで、その時、後ろに並んでいた彼女が、俺のスマホを拾って、追いかけてきて渡してくれたという訳だ。
俺のために一生懸命に走ってきてくれた、何気ない人の優しさをありがたく思った。
あの時の、肩で息をする彼女の姿が脳裏に焼き付いている。
彼女は普通の女子高生とはどこか違った。
女子高生は、最強だ。
生物として、肉体が最高潮の時期にあり、人間としては無限の夢を見ることが許されている最後の時代だ。
横溢する生命のエネルギーは精神的な余裕までももたらし、ただ彼女らは笑い、はしゃぎ、傍若無人なほどの元気さを周囲に振りまいている。
しかし、彼女はその真逆だった。
美しくはあっても、生物的な強さはなかった。
根拠のない精神的な余裕も感じない。
風が吹けば飛んでいってしまうように弱弱しい。
彼女には、そういう、現実から逸脱した、どこか儚げな雰囲気があった。
まあ、そんな俺の彼女への印象も、一言で要約するなら、『浮世離れした』なんて陳腐な表現になってしまうのだけど。
(あの時、何か話したっけ)
詳細まではよく覚えていない。
多分、反射的に「すみません」か、「ありがとうございます」くらいは言ったと思うが、もし会話していたとしても、ごく短時間のことだ。二言、三言がせいぜいだろう。
ともかく、俺と彼女をつなぐ出来事といえば、その一件くらいのものだ。
でももちろん、女子高生にスマホを拾ってもらったくらいでは、結局俺の生活は何も変わらなかった。
相変わらず酒は手放せなかったし、タバコの本数は増え、ネームはボツになり続けた。
(その後、どうしたんだっけ。――そうだ。酔った勢いに任せて、引っ越しを決めたんだった)
あらゆる合法的な薬物の力を借りても、ついに何のアイデアも出なくなった俺は、引っ越しを考えるようになっていた。
全てから逃げ出したかった。
それならば北海道か、沖縄か、はたまた海外にでも逃げればいいものを、俺はそうしなかった。
引っ越しの料金をケチりたいという貧乏性な一面が出た。だから、近場で探すことにした。
後先考えずに決めた急な転居。春の引っ越しの繁忙期と微妙に被っていたこともあり、引っ越し業者を捕まえるのは難しかった。
部屋からの退去日までの時間もなく、俺はいっそのこと、家財道具一式を捨ててしまうことにした。引っ越し料金はケチるくせに、家財道具は捨てていくなど矛盾しているが、そんなことも気にならないくらい、俺の頭はおかしくなっていた。
信心深い方ではないけれど、全てを断捨離して、厄を落としたい気分だった。
その唯一の例外が、液晶タブレットだった。
これだけは捨てられなかった。
他の家電は全て安物だったけれど、液晶タブレットだけは二十万円以上もするちゃんとした一品だったから。それに、液晶タブレットは物というより、自分の一部のようになっていたから、捨てるという選択肢はなかった。
そんなみみっちい断捨離だったけど、ご利益はすぐに現実となった。
久し振りに、担当編集と直接会って打ち合わせできることになったのだ。
最近はネームのやりとりは専らメールばっかりで、オンライン通話をしながらの打ち合わせすらなくなっていたから、嬉しかった。
まだ見捨てられていないのだとほっとした。
俺は意気揚々と部屋を引き払い、その足で担当編集に会いに行った。
今度は上手くいくかもしれない。
そんな予感がした。
(まあ、結局、その予感は勘違いだったんだけど)
やっぱり、ネームはボツだった。
担当編集は、俺があまりに支離滅裂な内容のネームを送りつけてくるので、心配になって、直接顔を見たかったのだという。
人と会うのがはばかられるご時世だ。
打ち合わせという名の面談は、三十分も経たない内に終わった。
別れ際、「ネームの締め切りは気にしなくていいですから、あまり根を詰めないでください」と言ってくれた担当編集の目が忘れられない。
労わるような、哀れむような、あの視線は半分、病人を見る時のそれだった。
少なくとも、将来を期待している漫画家を見る目ではなかった。
俺は早々に出版社を後にした。
帰り際の気分は最悪だった。
もはや、自分という存在を説明する時に一番上にくる属性が、『漫画家』である自信はなかった。
『無職』か、『自称漫画家』か、『異常者』のどれかがふさわしい気がしていた。
『病は気から』とはよく言ったものだ。
どん底な気分に呼応するように、身体も変調をきたし始めた。
電車に乗っている間は、漠然と寒気がする程度だった。でも、最寄り駅を降りた辺りから、急激に体調が悪くなっていった。
改札を出る時にはすでに動悸がひどく、交差点を渡る頃にはそこに頭痛と吐き気が加わった。家まで後100メートルという所で、強烈な倦怠感が身体を支配しはじめた。
それでも、足を引きずり、手すりにすがりつくようにして、何とか新居のドアの前まで辿り着いた。
それから、ポケットに手を突っ込んで、財布から鍵を取り出そうとして――そこで、記憶は途切れている。
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