第5話 山吹恵里香


「優くん!」


四限が終了するチャイムが鳴り昼休みになった後、まずやって来た幼馴染は、山吹やまぶき恵里香えりかだった。


 幼馴染メンバー三人目の少女。


 肩より下まで伸びたサラサラの黒髪。同年代の女子と比べても細く、ともすれば折れてしまいそうな手足はとても華奢で芸術品のような綺麗さを感じさせる。


  優しく微笑むその表情はまるでどこかのご令嬢のようだ。極端なほど色白で、不健康とまでは言わないが少し心配になってしまうような儚げな少女。それが山吹恵里香。


 神奈とはまったくタイプの違う少女だけど、恵里香もまた人気者だった。


 奥ゆかしい大和撫子のような雰囲気と守ってあげたくなるような容姿。


 それでいて話してみると以外とおちゃめなところもある。一緒にいて楽しい、そんなふうに感じる女の子。


 そんな女の子が男子から特別視されているのは、人が自力で空を飛べない事と同じくらい当たり前で、恵里香と一緒にいる時も男子からの刺さるような視線を感じることがよくあった。


「早いね、あと神奈ちゃんも」

「ちょっと恵里香、おまけみたいに言わないでよ」


やや不機嫌そうに言い返す神奈と、まったく気にしていないように微笑む恵里香。


 並んだ二人は全てが対照的で、いつも一緒にいる僕でさえ、油断すると二人が並んでいることに違和感を覚えてしまうこともある。


 それだけ二人の印象はかけ離れているということだ。


 恵里香は僕を挟んで神奈とは反対側に座り、持ってきたお弁当を広げた。小さくて可愛らしい、女の子らしいという言葉がピッタリのお弁当だった。


 じっと見ている僕に気が付いたのか恵里香が顔を上げる。


「優君、お弁当は?」


その問いに僕はすぐには答えられなかった。


 先ほど教室で見た光景が脳裏に浮かぶ。


 ぶちまけられていた自分のお弁当。あの惨状を正直に伝える気にはなれなかった。


「今日は忘れ――」

「捨てられてた」


僕の言葉を遮るようにして神奈が言った瞬間、お弁当を広げていた恵里香の手が止まる。


 その顔からは優しい微笑みが消え失せていた。


 そこにあるのは能面のような無表情。


 感情が欠落したようなその顔を見ているだけで、言い知れぬ感覚に身震いしてしまう。


 いつもの儚げな少女は本当はただの幻で、恵里香が何か得体の知れないモノに見えた気がした。


「どういうこと?」

「トイレに行って戻ってきたら、もうぶちまけられてた」

「……神奈ちゃん、何やってたの?」


ぞわりと身体中に鳥肌が立った。


 腕の毛が一気に逆立つ。


 それだけ恵里香の怒りをはっきりと感じた僕は慌てた。


「待って恵里香! 神奈は僕を心配して付いてきてくれてたんだ! 悪いのは油断してた僕だよ!」


神奈を庇うように身を乗り出して恵里香の顔を真っすぐに見つめる。


 見開かれた真っ黒な目に吸い込まれそうな気がした。


 どれくらいの時間をそうしていただろう。不意に恵里香の表情に感情が戻って来た。


「……そっか、それなら仕方ないね。あと、悪いのは優君じゃなくてお弁当を捨てた誰かでしょ?」

「う、うん。そうだね」


ふわっとした笑みを浮かべて「辛かったね」とそっと手を重ねてくれる恵里香。


 神奈の暖かい手と違って、ひんやりとした冷たい手だった。


 儚げな笑みを浮かべる恵里香を見て少し安心する。


 僕が落ち込んだ時、恵里香はよく手を握ってくれたり、頭を撫でてくれた。気恥ずかしさはあるけれど、それで不思議と心が落ち着いてくる。


 あの時、僕がテニス部の頑張りを無駄にしたあの時もそうだった。


 チームメイトですら誰も来てくれなかった僕の元に、真っ先に駆けつけて来てくれて抱きしめてくれたのは、わざわざ応援しに来てくれていた恵里香だった。


 その行動は、あのまま消えてしまいたかった僕を繋ぎとめてくれた。


 僕は優しい恵里香にいつも助けてもらってばかりだ。


 ただ、怒った恵里香はすっごく怖い。


 身体も小さいし、その体格から想像できる通り力もあまりない。


 それなのに恵里香が怒ると、何か得体の知れないものを相手にしているような気分になる。


 怒った恵里香には頼りになる幼馴染たちも誰も頭が上がらない。


 まぁ滅多に怒ることもないし、すぐに穏やかな恵里香に戻ってくれるから後を引くようなことはないけれど。


 実際に今ももう先ほどまでのピリピリとした空気は霧散していた。


「何も食べないのは身体に悪いから、私のお弁当を一緒に食べようね」


恵里香は自分のお弁当から卵焼きを箸で取り上げると、手を添えて僕の口元に運んでくれた。


 ありがたいけれど、いくら幼馴染とはいえ流石に恥ずかしい。


 首を横にふって断ったけれど、それでも笑顔のまま無言で差し出し続けてくる恵里香に負けて、僕は観念して口を開けた。


 恵里香が優しく卵焼きを口に運んでくれる。好みの甘さでかなり美味しかった。


「優君、どう?」

「……けっこうなお手前で」

「ふふ」


続いてご飯を少量、次はミニトマト、気が付けば僕は差し出されるままに口を開けていた。まるで親鳥が持ってくる餌を待つ雛の気分だ。


「恵里香~私にもちょ~だい?」


物欲しそうに上目遣いで猫なで声を出す神奈が下から覗き込むような体勢で恵里香を覗き込む。


 その姿勢だと強調された谷間が制服の胸元から見え隠れしてしまっていた。


 たぶん相手が男なら一発なそのお願いを恵里香は笑って無視し、僕の口にまた食べ物を運んでくれた。


 餌を貰えなかった隣の雛は、恨めしそうに僕と恵里香を睨んでいた。

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