キスの誓い

 耳に軽く触れ、私を溶かすような。

 可愛らしい……天崎さんの。声。

 数秒遅れて、それを理解した。

 ここには二人しかいない、その時点で答えは出ているのだけど。

 ……だって、彼女は耳が聞こえない。それに。話せない。

 だったら、なんでそんな言葉が聞こえたの?


「天崎……さん? 今。え……?」


 困惑が漏れる。

 本当に、分からないことがいっぱいで。

 ただ。呆然と、私は抱かれている。


 ──また、息がかかる。

 呼吸音がすぐ耳元で聞こえる。

 ゾクゾクって、体が揺れる。


「ごめんなさい。……聞こえていたんです。私が部室に告白しに行った時、伊奈さんが発した『大好き』や。あなたの独り言。ほとんど」


 ……小声だ。

 でも、今まで溜め込んだ思いを吐き出すように。

 彼女は続けた。


「私はすごく恥ずかしがり屋なんです。今だって、すごくドキドキしてます。……キスした時なんて、ものすごく考えて、考えて。そして、したことなんです」


 言われて気付く。

 彼女の体も、すごく熱い。

 心臓の鼓動もよく伝わってくる。

 どんな顔をしているのだろう。

 そう気になって、くっ付いた身体を少しだけ離そうと──


「あの。……こっちは見ないでください。恥ずかしくて喋れなくなっちゃいます……」


 そう言われ、離そうとした体を慌てて元に戻す。


「ご、ごめん」


 ……それにして、息遣いが荒い。

 はぁはぁと、苦しそうな呼吸が私の耳をくすぐる。

 ……恥ずかしがり屋。つまり、自閉症の様な。

 そんなものが彼女にはあるのだろうか。


 分からない事だらけ。

 だから……聞いてみよう。


「……あの、聞きたいことあるんだけど。いいかな?」

「だめ……です」


 一呼吸つき、否定された。

 ちょっとショック。


「ど、どうして?」

「細かいことは、ラインで言います。今は……深く考えないでください……。お願いです……。私に委ねて……」


 乞う様に。

 震え声で。


 ……私を包む両手も、微かに震えていた。

 断る理由は特にないので、私は首を縦に振った。


「ありがとう、ございます。……目を瞑ってください。キス、しますから」


 放たれた言葉は、正直よく分からなかった。

 なんでそうなるのか。なんでいきなりキスなのか。

 でも。今は、理由を求めるのは、彼女にとって野暮なことだと思って、


「うん……。いいよ」


 何も考えなかった。

 その結果が、この即答だった。


 目を瞑る。

 彼女が私から離れて、軽くなった。

 と思えば、間髪入れずに、背中に回していた手は私の頬を抑える。

 その、頬を触る手は、汗で少し濡れていた。

 一方で私の手は、だらんと下に垂らしていた。


 気配が、私の前にある。


「……さっきの。やり直しです」


 その言葉と共に出た息が、鼻孔をくすぐり。


 ──唇が、触れる。


 観覧車の時と、違う。

 だって今は。彼女の事を好きと認識しているから。

 ……幸せなんだと思う。


「んっ……」


 口内に侵入する、彼女の唾液。

 それが、私の喉を通り抜けて……。

 なんか……やばい。

 罪悪感がやばい。

 こんなの、親に見られたらどうするの……。

 でも。やめられないのは……やっぱり、こっちを優先してるから。

 親にバレる危険より、キスを優先するえっちな人なのかも。

 ……それを言うなら、天崎さんの方がえっちい。

 なんか。キス、上手。


「──っはぁ」


 キスの時間は一分くらいだった。

 終わったら、すぐに彼女は私に抱き着く。

 まだ。目は閉じたままで。


 彼女の息が耳にかかり、何か言おうとしているな。と察した。


「……伊奈さん。……好きですか? 私のこと」


 そう言われて。また。

 顔が熱くなる。

 でも。こんなところで嘘を吐く必要はなくて。

 私は、恥ずかしいけど。答える。


「……好き。です」


 ……。

 彼女が首を縦にふる。

 パサパサと髪が揺れる音がする。

 だからそれが理解できる。


「私の事、もっと知りたいですか?」


 私の心の内を、探るように問われる。

 そして。また。答える。


「知りたい。です」


 首を縦に振ってくれる。

 すると。次は大きく深呼吸をして、こんな独白をした。


「私は。顔を見て話す事ができないです。……でも。伊奈さんの暖かさを感じながらだから。きっと今。会話できてるんです。もう、心臓が苦しいです。だから、これが、最後のお願いです」


 途切れ途切れで、そこまで言い切り。

 「すぅ……」という、小さくて可愛い呼吸音が聞こえて。


「目を。開けてください」


 言われて。

 目を開く。


 抱いた肩ごしの彼女の茶髪が遠ざかる。

 また。抱かれていた手が離れる。

 私の前に。彼女が映る。


 その表情は、赤くて。

 目は微かに潤んでいて。

 いつものクールな様相じゃなくて。

 普通の乙女のようで。

 初めて見る。彼女の顔だった。

 すごく、可愛かった。


 そんな彼女の震えた口から、言葉が飛び出した。


「私に。これからもキスして欲しいです」


 ドクンと心臓が波打つ。

 その言葉の表面しか見えない。

 でも。もういいやって。そうなって。


 ……もっと、彼女を知りたい。

 そういう衝動に後押しされてか、思わず言葉が漏れ出た。


「うん……。いい、よ?」


 言った瞬間。

 彼女の顔が崩れる。

 もっと可愛い顔が現れる。


 あわあわと、慌てるような素振りを見せて。

 やがて恥ずかしそうに俯いて。


「さ、さよなら!」


 張り上げた声で、勢いよくお辞儀して。

 そのままの勢いを貫くように、階段を駆け下りる音がした。


 少しの間。その場を呆然と立ち尽くし。

 火照った体が冷めたところで。今。起こったことを、冷静に考える。

 一言にするなら、完全にやばいことをした。

 けれど──。


 冷静に考えても。

 天崎さんの事が好きだった。

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