23 やがて異世界になる

 お疲れ様、と肩をたたかれて、私は溜め息を吐きながら振り返る。

〈椿の海〉の魔王、沙羅を撃退して、〈きさらぎ駅〉の面々は後始末に追われている。といっても、現世は異界からの干渉を勝手に修復してしまうので、負傷した人員の確認と手当が主な仕事だ。

 崩れたビルがビデオの逆再生よろしく破片をはめ込んでいき、炎で燃えたひとや建物から黒い傷痕が消え失せ、誰も何も気にすることなく元通りに戻っていく。

 私が死ぬはずだったあの日も、同じような光景を見た。

 時々考える。

 あの日、菊花の声を聞かないまま空亡に焼き殺されていたら。私もまたいま見ているものと同じように修復されて、元通りに優希と羽海と生きていくことができていた。

 菊花の言葉に導かれるまま、ためらうことなく〈きさらぎ駅〉についていったら。このうじうじ考えている私という存在は現世から切り離され、修復されたあとの現世ではそれまでの自分とまったく同じ私が再生されることになっていた。

 私が選び取ったのは、両方間違えた結果、生き残って、自分で自分の存在を死んだことにおとしめるハメになった現在だ。

 優希と羽海はあの日、〈椿の海〉に助け出されて、迷うことなく異界に向かった。私が現世でしばらく付き合っていたのは、ふたりの抜け殻に住み着いた妖怪で、私は正真正銘取り残されていたことになる。

 こんな結果になってしまったのも、誰かに仕組まれている可能性がある――と百舌と菊花は考えている。

 だとしたら、なんのために。私をただただ惨めにするために、優希と羽海まで巻き込んだのだとしたら、腹が立つ。

 振り向いた私は、その場から飛び退いた。

 私の肩をたたいたのは菊花でも百舌でも、目白やほかの〈きさらぎ駅〉の人間でもなかった。〈きさらぎ駅〉にいる人間全員の顔はまだ知らないが、はっきりとわかる。

 だって、この女は――。

「先生……?」

 私が棒に振った高校時代の担任の教師。下手に私の事情に干渉しようとはせず、それでも高校を卒業できるように方々に手を尽くしてくれた。今の今まで顔も忘れていたが、感謝の念はずっと持っている。

「お疲れ様。もういいよ。キミもこっちに来る頃合いだ」

 そうだ。先生の、この女の、名前は――。

「あんたが――千歳なのか」

 小さく、相手以外に聞き取れないようにつぶやく。同時に周囲に目を走らせる。すぐ隣に立っていて、角度的にも女の顔がはっきりと見えるはずの菊花は、私の様子がおかしいことに気づいて駆け寄ってきた。

「美桜、どうした」

「菊花に私は見えないよ。キミ以外には見えない場所から話しかけている。いや、キミがやっと見えるようになった、かな」

「――菊花に顔を見せてやらないのか」

「美桜?」

「必要のないことはしないよ。菊花は素晴らしい原初へ接続したが、ここには来ることはできなかった」

「菊花はあんたを追ってるぞ」

「だけどここにいる私を知覚できていない。残念だけどそれがすべてなんだよ」

「菊花は――」

「キミはさっきから菊花のことしか話さないが、もっと自分のことを大切にしたほうがいい。私はキミと話しているんだからね」

 私はとっさに千歳の顔に向かって拳を放つ。だが千歳はそれを悠々とかわしてみせた。少し前から私が魑力で時間の流れをズラしているのにもかかわらずだ。

 会話が続いている時点で気づいておくべきだった。この女は私の時間の中に平然と入ってきている。私の魑力がこの女に通用しないとわかっても、現世との時間はズラしたままにしておく。菊花やほかの人間に会話を聞かれるのは、おそらくまずい。

「キミのこの魑力。これもまたひとつの異世界だと、考えたことはあるかい?」

「異界だの異世界だのと……あんたなんなんだよ」

「呼び方に別段差異はないさ。私や菊花は古くさいタイプだから、現在の主流が『異界』のほうだと理解していてもついつい『異世界』と呼んでしまう。きさらぎ駅などは典型的な異世界から異界へと呼び方と認識が遷移した例だろうね」

「菊花は」言いかけて、途中で訂正する。「あんた、私を狙ってるのか」

「どの言い方が適切だろうか。現世人類でありながら原初との接続が始まっていたキミを安全に現世から切り離すためにいろいろな伝手を使ったことはたしかだが。狙っている、というのは少し違うかな。キミはもう私のものだしね」

 冗談でも脅しでもない。魂に直接訴えてくる悪寒がそう告げていた。

 魑力によって私以外が減速した世界の中で、平然と話ができている。これが、想像以上に異常なことなのだと、不覚にも千歳の言葉から気づく。

 ここは私だけが時間の流れに左右されない、私だけが立ち入ることのできる世界――そう、異世界と呼ぶことができる。

 千歳はその中に侵入してきている。この極めて個人的な、私の意識下にある異世界に私以外の人間が存在している状態は、私そのものが千歳に侵されている危機的状況なのではないか。

 菊花が言うには、今の千歳は異世界に取り込まれ、異世界がその意識を利用している。こいつは、私を――私の世界をも取り込もうというのか。

――」

 打開策を思いついたわけではない。だが一刻も早くこの女を排除しなければならない強い懸念が、私に誓言を口走らせた。

「やめておいたほうがいい。それを少しでも口にすれば君も私もただではすまない」

 私と千歳の間に、白スーツの剣呑な男が現れる。

 牛頭天王――この原初は私が接続している『怒り』そのもの。ならばここに立ち現れても不思議はない。

「まさかとは思ったが――そういう者もいるというわけか」

「原初と直接相対するというのは私も初めてだよ。菊花でさえ自分の『恐怖』の形成体を見せてはくれなかった」

 だろうなとは思っていたが、菊花は自分の原初を千歳に教えていたらしい。やっぱり私はこの女の次か。

 牛頭天王が出てきたということは、この世界がまだ千歳に侵食されていないと見るべきか。あるいは、原初そのものが出てこなくてはならないほど、まずい状況、か。

「いいかい、この女は原初に接続していない。この女が接続しているのは、概念を食らい尽くす宿痾だ。君がこの女の一片でも口にすれば、たちまち私という原初は食らい尽くされ宿痾の列に加わることになる」

「それって、2017年の――」

 日本怪異妖怪保全会――今の〈きさらぎ駅〉を開拓した連中がかつて戦い、敗北した、現世を汚染し尽くした元凶。あのファイルには情報寄生体と書かれていた、原初とは似て非なる、原初すら食い殺す化け物。

「そうだね。だから私はキミがほしい。キミは私と同じところへ行けるから」

 口を手で隠しながら、千歳の言葉に疑問を抱きながらも注意は逸らさない。

「キミの魑解は悪しきものを食らい、自らの式とする。さきほどの小競り合いで、キミは魔王の魑解すら食らい、その原初を己の一部とした。私たちは似ているとは思わないかい」

「思わねぇよ」

「キミの魑解があれば、現世の完全な除染すら可能だろう。悪しきものを食らい尽くし、汚染された土地を取り返すことができる。ただし、そのあとキミはどうなるかな」

 千歳は穏やかな笑顔で私を見ている。ひとを安心させてくれるこの笑顔のかたちは、私の高校時代の記憶にもしっかりと残っていた。だけど今ならわかる。こいつの笑顔は、おぞましいまでに空っぽだ。

「際限なく膨れ上がったキミは、それ自体がひとつの異世界として成立するようになる。キミは異世界になれる。私と同じようにね」

「それで懐柔しておきたいってわけか?」

「いいや。なにもせずともキミは私と同じところに来るよ。現に今こうして話ができている」

「じゃあ話は終わりだ。私はあんたのとこには行かないし、そもそも異世界なんぞになる気もない。わかったら消えろ」

「キミの視界から消えることはできるが、キミはもう私を認識してしまった。私たちはいつでもつながっているよ」

「美桜、美桜!」

 どっと汗が噴き出す。呼吸の仕方を思い出し、必死に肺に空気を送り込む。

 魑力を解いて、通常の時間の流れに戻ってきた。こちらの時間ではほんの一瞬以下のやりとりだったはずだが、菊花は私の様子がおかしいことに気づいて何度も声をかけてくる。

 怖かった――。

 なんとか強い口調こそ保てたが、あんな得体の知れない女が私の中に入り込んでいるのかと思うと、喉を掻き切ってしまいたいほどに気持ちが悪い。

 千歳の話も、ひたすらに私の不安と恐怖を煽った。私が異世界になる――そんな途方もない話をされて、あの場は歯牙にもかけない素振りをしてみせたが、本当は自分という存在が土台から揺さぶられているような焦燥と狼狽で頭がおかしくなりそうだった。

「大丈夫。ちょっと、疲れただけ――」

 菊花に話すわけにもいかず、一応の平静を装う。

 目の端にあの笑顔が見えた気がして、はっと顔を上げる。さっきまでそこにいた千歳の姿は消えているが、気を抜けばすぐにでもポップアップしてきそうで、まったく安堵できない。

「美桜、私、もう行く」

 周囲に目を走らせた菊花がそう言って、走り去ろうとする。私はその手をつかんで、思い切りこっちに引き寄せた。

 菊花は千歳を見つけ出すために異界の漂流を続けようとしている。だけど、私はもう、千歳の居場所を知っている。

 話さなければならない――か。

 あの女が湧いて出てきて唯一いいことがあったとすれば、これから菊花を引き留める口実ができたことになるのか。結局、千歳の存在を使わなければ菊花を止めることすらできないのが、ひどく悔しかったけど。

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