12 ズレた世界で今日も
電車を降りると焦げ臭い空気が鼻を突く。私がかつて使っていたこの駅にこんな異臭が漂えば、すぐさまひと騒動になる。だからこのにおいは、私のような異世界に取り込まれた人間にしか感じ取れないのだと理解する。
駅を出ると、一面火の海だった。
だが町を歩くひとびとに変わった様子はない。道路で燃え上がる火の手の中に平気で入っていくし、炎が渦を巻いている公園には休憩のために何人もの人間が突っ立っている。
この炎も私の目にしか見えていない。私はとっくに現世からズレている。私の見ている世界のほうが正しい世界なのだと教えられた。だったら、これは――。
「美桜! 美桜っ!」
「美桜だ! 美桜ーっ!」
その声を聞いた瞬間、私の世界に色彩が戻ってきた。視界が滲む。勝手に涙が溢れて、そのままむせび泣きそうになるのを必死にこらえる。まだふたりの姿も見ていないのに、こんなザマは見せられない。
「優希! 羽海!」
私は声を張り上げて振り返る。
黒い太陽に焼かれた時と変わらない姿の優希と羽海が駆け寄ってくる。私もたまらず駆け出し、そのまま三人で抱き合う。
「よかった。無事で」
羽海が私の涙を拭いながら言う。
「元気そうで安心したー。連絡すんのもひと苦労だったんだからな?」
私と羽海の身体をぎゅっと抱き寄せ、優希が笑う。
「うん……うん……! ふたりとも、無事でよかった……!」
人目も憚らず、私はふたりの胸の中で泣きじゃくった。
「で、どうする? なんか泣いてるけど」
「そりゃ、連れて帰るだろ。そのためにこんなことしたわけだし」
「だな」
優希がいまだ涙が止まらない私に額を寄せて、よく聞こえるように声を張り上げる。
「美桜? おーい、美桜ちゃーん。今から美桜の身体バラして〈椿の海〉に持ってくから」
「たぶん死ぬほど痛いし普通に死ぬと思うけど、まあ大丈夫だろ。あっちで漬物にして保存しとけば、いつでも美桜に会えるわけだし」
「――え」
なにを、言ってるの。ちょっとわからない。
「あー、喚いてもなに言ってもいいけど、全部無駄だから。あんたらの言葉、私らには奇声にしか聞こえねえし」
「きちんと話してみたかったけど、こればっかりはしゃーないな。美桜の声帯弄って好きな言葉話せるオブジェにできないか相談してみるか」
「ねえ、ふたりともどうしたの? 冗談、だよね……? それにしては趣味悪くない……?」
「おっ、なんか言ってるな。耳障りー」
「でも美桜は美桜だろ。なんでまた〈きさらぎ駅〉なんてとこにとられたんだか。全員殺しても収まらないな、これは」
「じゃ、まずは」
「首から落とすか」
羽海の手刀が私の首筋に当てられた瞬間、ふたりの身体が吹っ飛ぶ。
いつの間にか私は抱きかかえられて、駅のオブジェの陰へと優しく下ろされる。
「痛ってぇな。なんだお前」
「こいつアレだよ。空亡が出てきた時に叫んでた狂人」
「はーん。じゃあ、お前が――美桜を攫った張本人だな」
「許せないな――私たちの絆を勝手に断ち切ってくれた落とし前は、きっちりつけさせてやるよ」
優希と羽海が、明確な怒りを身体から放っていた。それは火の粉となり、炎の渦となり、熱風となって周囲を焼き払っていく。ふたりの身体から溢れた火炎に焼かれた通行人が短い悲鳴を上げて次々絶命していった。
「黙れよ、アホが」
その、身を焦がすほどの殺意を一身に受け止めた狂人――菊花は、まったく臆することなく、ふたりに負けず劣らずの怒りで全身を震わせていた。
「耳障りなんだよ。すぐにぶち殺すから、囀るな」
「やるか、優希」
うなずき合い、それぞれの右腕と左腕を突き合わせる。
「構えろ――〝
「塞げ――〝
瞬間、空気が凝固しそうなほど冷たくなり、続いて耐えがたいほどの熱が空間を支配する。息をしただけで意識が飛びそうだった。
優希の右手の中には、太い縄。
羽海の左手の手首から先は、黒い穴がぽっかりと空いていた。
「魑解――」
優希が縄を振るう。当然のように見た目よりもはるかに長く伸び、動きも自由自在だった。菊花は冷静に高速で動き回り、縄の届かない範囲へと一時離脱する。そのまま宙を――正確には周囲に建つビルや駅舎の壁面を蹴って一気に優希の背後へと回り込み、頸椎を狙った回し蹴りを放つ。
蹴りが入る寸前、菊花は軸足で地面を弾いて後方に跳ぶ。菊花が立っていた場所に、黒い穴がまったくの無音で渦巻いていた。黒い穴は見えているが、その存在は立体であるはずなのに平面にしか見えない。穴の空いた空間が、まるまるぽっかり消失しているという認識がおそらくもっとも把握しやすい。
「鬱陶しいな。速いだけのゴミが――よ!」
伸びた縄を持つ手をスナップする優希。途端に伸びきったと思われた縄がぶるりと震え、縄を構成している藁らしきものがほどけていく。そのほどけた藁が一本一本新たな縄へと姿を変え、四方八方に這いずり回り、菊花へと殺到する。
菊花の速さでもこれはかわせない――私は半分放心したまま、菊花が無惨に絞め殺される姿を想像する。
「のたくれ――」
菊花は動きを止める。これでは恰好の的だ。わざわざ縄を枝分かれさせたのが無駄になるほどまでに。
だが菊花を襲う無数の縄は、菊花の身体に届く前に萎びたようになって力なく地面に垂れていった。
「〝魔王の小槌〟」
カン――と、木板を叩いたような乾いた音が響く。
菊花の手の中には、小さな木槌が握られていた。
「魑解とは」
私の頭の中で何者かが囁く。ほとんど茫然自失状態の私は、半分夢の中にいるようなものだった。だから、すぐ隣に白スーツのインテリヤクザが立っていても、なにも不思議なことはない――。
「魑力を汲み上げる者が接続した私たちから、直接賜った力のことだ。無断で水を引いた者は私たちの情報量で溺れ死ぬ末路が待っている。だが接続を果たした者が私たちと対話を行い、一泡吹かせることができたとしたら――私たちは相手を認めて、己の力を使うことを許すだろう」
男の話は頭の中から耳の外へと通り過ぎていく。今の私にとってはどうでもいい話だった。優希と羽海のいない私に価値なんてない。もう無敵になることもできない。
「だが実態は、常時流れ込み続ける情報を外部に排出し、溺死を防ぐための手立てでもある。私たちに接続した人間が助かるには、魑解に至るしかない。さて、君が溺れるまであとわずかだが」
私の顔を見て、男はつまらなそうに溜め息を吐く。
「見込み違いだったかな。しかしせっかくだ、ひとつ教えておこう。私は君を長い間見てきた。君は、現世にいる時から私に接続していたからね」
カン、カン、カン――と、立て続けに菊花の持つ木槌が音を鳴らす。それまで生き生きと這いずり回っていた優希の縄が、音が鳴るたびに萎びていき、重力に捕まって地面に落ちていく。
さすがにまずいと思ったのか、優希は縄を自分のほうに引っ張る。まだ力の残っていた部分が全体を引っ張り、優希の手元へと戻っていく。
それに合わせて、菊花が駆ける。縄が引き戻されている隙間を縫い、優希の眼前へと迫った菊花が、木槌を振りかぶる。
優希と菊花の間に、またあの黒い穴が現れる。菊花は直感でこれに触れてはならないと気づいている。だからまた離脱する――黒い穴を出現させている羽海の狙いは、木槌の音とともに外れる。黒い穴は音を聞いたとたんにシワシワに縮んでいき、自分で自分を呑み込んで消滅する。
「優希! よけろ!」
羽海の叫びよりも早く、木槌が優希の額を叩く。同じ、乾いた音が響いた。
「クソがよ。どういう魑解だこれ」
優希は全身を震わせながら、なんとか声を振り絞る。凄まじい悪寒に襲われる優希は、やがて立っていることすらできなくなっていく。
そうか――菊花の魑力の源をなぜか知っている私には、優希の身体を震わせる原因がわかった。
恐怖――菊花はあの木槌で、純粋な恐怖の源泉を相手に打ち込んだ。
「先に魑解を出したそっちの負けだ」
菊花の言葉は優希たちには届かない。だが、勝負が決したという意は言葉が届かずとも伝わったらしかった。
「知らないのか? 魑解は後出しのほうが強い」
木槌の先を羽海に向け、冷たい目で顎をしゃくる。
「失せろ」
言わずとも、きちんと伝わる。
「――しゃーない。優希、帰るぞ。あーあ、まともに立てんのかこれ。おんぶしてやるから、しっかりつかまれよ」
気づくと縄は消えていて、羽海の左手ももとに戻っている。羽海は震える優希を助け起こし、背中に背負って揺すっている。どうやらこの場は収まったらしい。
「ああそれと、私ら美桜のこと諦めたわけじゃないから」
「羽海――」
私は思わず声を漏らす。ふたりは私を助けてくれるわけじゃなかった。ふたりからすれば同じことなのかもしれないが、私にとっては絶望しか待っていない。
「じゃあまたな、美桜」
優希が手を振る。その手の先は見えない。手首から先がそっくりなくなっていて、そこには黒い穴――
「美桜っ!」
「え」
私の背後には、真っ黒な平面が広がっていた。
菊花が全速力でこちらに跳ぶ。それよりも早く黒い穴は私の身体を呑み込み、私のすべては黒く塗りつぶされていく。
「知らないのか? 魑解は後出しのほうが強い」
最後に、羽海がそう言って笑った。
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