異界異世界E世界
久佐馬野景
1 空亡
春は出会いと別れの季節とよく聞くけれど、私にとっての春は残念ながらそんなものからは縁遠い。
春になると決まって言われるのが、暖かくなると頭のおかしい人間が出てくるから気をつけてね――ということだった。
そんな虫みたいな、とは思うけど、実際気温の上昇と変質者の出没にはかなりの相関関係がある気はする。全裸露出を真冬にやるのは寒いし脱ぐタイミングを見誤れば最悪死ぬ。だけど温暖な気候ならば家から全裸で突撃しても当人だけは快適に過ごせる。
まあ、私だって若い女性としての自覚と危機感は常に持っている。いきなり目の前に全裸のおっさんが出てきたらそりゃ怖い。そしておっさんが去っていったあとで、凄まじくむかつく。私が若い女だというだけで、理不尽な暴力のターゲットにされるという不条理。それに対して何も反撃できないことを見越したうえでの行動だと簡単に理解できるし、私が泣き寝入りするだけだと何重にも見くびっていることに腹が立ってしょうがない。
ただし、それは私がひとりでいる時に限っての話。
私と優希と羽海の三人は、小学校から現在通っている大学まで、ずっと一緒の腐れ縁だった。何度か距離を取ったり、あえて互いを無視していた時期もあったけど、大学で一緒になったことでいろいろと吹っ切れ、三人でつるむようになった。
出会いも別れも確かにあったはずだけど、この三人だけは決して変わらなかった。だから私にとって春という季節は、やっぱり頭のおかしい人間が湧いて出てくる季節という認識だ。
この三人が揃っていると、なんというか、無敵だった。
現にさっき路地裏に入ったところにいきなり飛び出してきた全裸のおっさんに対して私がとった行動は、無言の前蹴りだった。
気が大きくなるというか、スイッチが入るというか――ひとりで全裸のおっさんに出くわしたら絶対に泣き寝入りするしかなかったはずなのに、隣に優希と羽海がいるだけで、私は容赦のないヤクザキックをぶち込むことができてしまった。
優希と羽海も、私がこういう手合いが大嫌いで、かつ自分たちと一緒にいる時の私がノータイムでぶちギレることができるのは承知していたので、肝をつぶしたおっさんに追い打ちをかけて、現在の状況に至る。
「
どす、どす、とおっさんを蹴りながら優希が聞いてくる。
「警察呼ぶなら財布に手はつけないほうがいいか。こいつコートにきちんと財布入れてんの笑うが」
くすりともせずにおっさんがここまで来る間に全裸を隠していたコートの中から財布を抜き取る羽海。
「どっちもパスで。あとで面倒は困るし、ひとが来る前に離れよう」
「美桜ちゃんやっさしー」
「まあ大して入ってなかったしな」
優希がおっさんを最後に一発蹴り、羽海がおっさんのコートに財布を戻すと、私たちは街の中に戻っていく。
よくない傾向だという自覚はある。三人でいる時にだけ異様に気が大きくなり、変質者だろうと返り討ちにする。一見武勇伝的な話に思えるが、非常に危険な橋を渡っている行為にほかならない。
ただ、なぜかどんなやばい奴が相手でも、三人でいる時なら負ける気がしないのも事実だった。若い女の三人組とみるや寄ってくるやばい奴は確かに存在する。優希と羽海と一緒の時に遭遇したやばい奴は、これまで全員返り討ちにしてきた。
たぶんだけど、三人でいる時の私は、単純にそこいらのやばい奴よりはるかにやばい奴になっているだけの話なのだと思う。
やばい奴は自分よりやばい奴には敵わない。やばい奴の中にも弱肉強食の掟が存在する。私は隣に優希と羽海がいることによって、何かがキレる。まともな人間が押してはならないスイッチが入る。
私がキレるとふたりとも面白がって調子を合わせてくる。でも実は、私だけにやばい奴の目が向かないように気を回してくれているのかもとは思っている。普段の優希は虫も殺虫剤でしか殺せないような子だし、羽海はほとんど他人と会話せずにインターネットでできた知り合いとスマホで絡んでいるタイプだ。
こんなことを繰り返していたら、そのうち、報復が来るという予感は確かにあった。
今はまったく怖くない。隣に優希と羽海がいるから。だけどひとりになって正気に返ると、いつか来るであろう報復に怯えて眠れなくなる。実はもう一年以上、慢性的な不眠に参っていた。
優希と羽海の前では決して弱音は吐かない。ふたりの前での私はキレるとやばい奴で、そこいらのやばい奴を容赦なくぶちのめしてきた最強のやばい奴だ。
もちろん小さなころからの付き合いだから、ふたりとも本来の私の性格は熟知している。私がひとりでぐるぐる思い悩んでいることも、ふたりはすっかりお見通しだろう。
でも、私の暴走には付き合ってくれる。
だから、私の暴走に相乗りしてくれる。
私の不安が少しでも和らぐように。報復が訪れる時は、三人全員にやってくるように。私がキレたあとにはふたりが追い打ちをかける。
破滅まっしぐらだ。ただ道を歩いているだけで理不尽な暴力の危険と隣り合わせだったのに、その理不尽な暴力に反撃を食らわして、より危険な悪意を呼び寄せる恐怖を生み出してしまっている。
本当は、理不尽な暴力(たとえば全裸のおっさん)こそが最悪であり、それにノーをつきつけるために私たちにまずできることは、一目散に逃げ出すこと。それからしかるべき措置を講じて理不尽な暴力をこの世からなくすために働きかけることのはずだった。
私はこの世の理不尽をよく知っていると思っている。実際にこの身で味わってきたし、悔しくて泣き寝入りしたことによって青春の何年かを棒に振っている。
もし、私が無敵なら――そう考えながら悔しくて悔しくて泣き続けたあのころ。
優希と羽海という存在がいつも近くにいて、私を外の世界に連れ戻してくれた。ふたりと並んでなら街を我が物顔で歩くことができるようになった。そして自分が無敵になれたと錯覚できている中にいきなりエントリーしてきた、理不尽な暴力。
私は簡単にキレた。
なんで私が狙われる。
なんで被害者が中傷される。
なんで逃げることしかできない。
なんで私の人生壊して平気な顔をしている。
回り道はもういやだった。即物的な反撃。ぐうの音も出ないほどの暴力。
私の前に現れた変質者は、気づいた時には血まみれになって倒れていた。優希と羽海がふたりがかりで止めてくれなかったら、マジで殺していたかもしれない。
でも、キレている間はすっきりした。
いつか破滅がやってくる予感はあるけれど、ひょっとしたら何事もなく、無敵のまま人生を終えることができるかもしれない。ひょっとしたらは所詮ひょっとしたらで、全然そんな気にはなれないけど。
「逃げろ」
いきなり耳に低い女の声が届いた。
優希と羽海も気づいたのか、人だかりができている大きなビル前広場の方向を見ている。
「春はヤだねぇ」
優希が苦笑する。どうやら声の主の女が、広場でしきりに声を上げているらしかった。
「何言ってんの、あれ」
羽海がスマホをいじりながら溜め息を吐く。
「わかるわけないじゃん。頭のおかしい人間が喚き散らしてるんだから、近寄らないのが一番。ウチの特攻隊長も」優希が私のほうを見て笑う。「頭のおかしいのに自分から突っ込むような爆弾じゃねえし」
妙な、違和感。
「ねえ優希、あのひと、なんて言ってる?」
優希が目に見えていやそうな顔をする。
「だからわかるわけないって。奇声っていうか、めちゃくちゃな言語っていうか――うわこっち見た」
「どうした、美桜」
羽海が怪訝な目でこちらを見ている。こういう時の羽海は、シンプルに私を心配して、相談に乗ってくれる態勢――なんだけど。
「いや、なんでもないよ。行こ」
余計な心配はかけたくない。私には狂人の奇声が「逃げろ」と聞こえているなんて言ったら、やばい奴としての段階が別の方向に上がってしまう。
急に、太陽に陰が差したかのように、周囲がぐっと暗くなる。
凄まじい数と声量の読経のようなものが辺り一帯に響く。優希も羽海も、地鳴りか何かと勘違いしたのか、慌てて身を低くする。周囲にできていた人だかりも同じ反応だった。
私ひとりが、突っ立ったまま空を見上げていた。
黒い太陽。
闇が凝縮したフレアが世界を黒く焼き尽くす。
空に真っ黒なオーロラが揺らめく。
煽られるように崩れるビル群。
読経はさらに熱と勢いを増していく。
それはなぜだか、私がぼんやりと予感していた破滅の姿形に、ぴったりと当てはまっていた。
黒い炎がの奔流が、一瞬で地上を呑み込む。
「聞こえたなら逃げろ。アホ」
私は見知らぬ女に抱きかかえられて、落下するビルの瓦礫を飛び移っていた。
「〈お山〉の現世清浄僧団か。アホなことをする。
喋りながら、女は凄まじい速度で瓦礫から瓦礫へと飛び移り、最後に強く踏み込むと、遠くのビルの屋上に着地した。
「な――何――」
空中を猛スピードで飛び回るという体験のせいで、ただでさえ限界だった私の混乱はメーターを振り切っていた。
私を抱えて空を飛び跳ねた女は、ぐっと私の胸ぐらを掴んで顔を思い切り近づけてくる。
「お前、私の言葉わかるな?」
顔が近い。荒んだ目つきと一族郎党が死に絶えたかのような仏頂面だが、否応なく目を引き寄せられる綺麗な顔。
女はもう一度私の胸ぐらを掴み直して、視線を無理矢理合わせてくる。
「わかるな?」
不承不承うなずく。女は私からぱっと手を離すと、地上を暗黒で焼き尽くしていく太陽を見上げた。
「アホが。無駄なことに本気出しやがって」
女がまた私を見る。混乱の極致にある私は、がたがたと震えながら、地上を見下ろした。
黒い。墨汁で塗りつぶしたかのように地上は真っ黒に染まっていた。
「優希――羽海――」
私はやっと、かけがえのないふたりの名前を口にした。優希と羽海はあの黒くなったところにいた。ビル前広場の無駄にデカいモニュメントの先端だけが、黒い炎の渦の中から突き出していたのですぐにわかった。
「お前、名前は」
「――美桜」
「そうか。美桜、今のお前は本来あそこで死んでいた。私がズルをして、死んで消えるはずだったお前のスナップショットを切り取ってここに運んできた。まあ、今は意味がわからなくてもいい」
意味がわからない――と言おうとしたのに、事前にそれでいいと釘を刺されてしまった。
「お前には異世界に行ってもらう」
より一層意味がわからない――私が口を開こうとする前に女は話を勝手に進めていく。
「一応だがお前にも選択肢はある。異世界に行くか、ここに残るかだ。異世界に行く場合、お前は死なない。ここに残る場合、お前は死ぬ」
「あの……マジで?」
これってあれじゃないのか。ネット小説でよくある異世界転生。しかし、なんというか知っている展開と違うし、第一、私はさっさと今の世界に見切りをつけられるような人間じゃない。
優希と羽海を見捨てて、私ひとりが異世界で第二の人生を謳歌するなんて、絶対に耐えられない。
だったら。
「ここに、残る」
「駄目だ」
即却下される。選択肢があるんじゃなかったのか。
「お前がここに残ると、この世界のお前が死ぬ」
また意味がわからない。
女は舌打ちをして、眼下の黒い地面を見下ろす。
私もモニュメントの先端が見える地点を見てみると、気のせいかさっき見た時よりも、モニュメントが炎から出ている部分が伸びているように感じる。黒い炎の勢いが落ちてきているのか、目を凝らしていると炎の中からさらにモニュメントの下の部分が見えてくる。
「これから修復が始まる。破壊された現世が元通りになっていく。だが、修復されるはずだったお前は消去されずにここにいる。このままお前がここにいる状態で現世が修復されれば、すでにここに書き出されてしまったお前の存在が優先され、この世界でのお前は修復されない。つまり、このまま死ぬ」
「ま、待って。それって結局、私自身は生きたままだっていうことなんじゃ?」
「そうだ」
じゃあ、わざわざ異世界になんて行く必要はない。私は私なんだし、今ここに存在してる。
女は、無性に歯がゆそうな顔をしていた。私は急に気づいてしまった。このひとは話したいことをきちんと伝えることができていない。異世界絡みの都合ではなく、単純にこのひと自身のコミュニケーション能力の問題で、だ。
だけど、必死に私を異世界に行かせようとしているのはわかる。普通、こういう勧誘って口のうまいひとがやるもんだと思うんだけど、たぶんこのひとは自分の利益のためではなく、純粋にそうしたいと思っているから私を説得しようとしている。
きっと誠実なひとなんだろう。でも意味のわからない勧誘に乗ってやる理由にはならない。私には優希と羽海が必要だった。彼女の言ったことが正しいなら、ふたりとも修復される。元通りに三人でいられる。
「時間がない。行くぞ」
私の手をとろうとしたその手を、振り払う。
「私は、ここに残る」
とても、悲しそうな顔になった。私にまったく非はないはずなのに、そんな顔をされたら心臓を握られたみたいに身が竦んでしまう。
女はその場で逡巡するが、最終的にうつむいたままひとりで歩き出した。
「私は
そう言い置いて、一気に駆け出す。ビルの屋上から屋上へと飛び移り、はるか遠くへと姿を消した。
私はひとり、元通りに修復されていく地上を見下ろしていた。
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