82 新しい婚約者

「お前に縁談の話が来ている。…………ドゥ・ルイス公爵家からだ」


 その家門の名前に、背筋が凍り付いた。

 ドゥ・ルイス公爵家――即ち、アーサー様との婚約話だ。


「っ…………」


 あまりにも大きな衝撃で、喉がつかえて声が出ない。自然と身体が震えはじめて、冷や汗が出た。

 今にも消えそうな意識をしっかり保つように、ぎゅっと唇を噛みしめる。


 王弟派は、これが目的だったのね……!


 ハリー殿下の言う通りだった。全ての辻褄が合った。彼らは最初からこのつもりだったのだ。


 国王派の筆頭であるヨーク家と、王弟派の旗頭のドゥ・ルイス家。どちらもグレトラント王国と隣国の王家の血が入っていて、現王家よりも遥かに血筋が良い。

 仮に両家の血を受け継いだ嫡子なら、現王家とどちらのほうが毛並みが良いか火を見るより明らかだ。


 ……それは、王位の交代を予感させるものだ。


 今回の人生では第一王子がわたくしとの婚約を頑として譲らないので、痺れを切らした王弟派が両家の婚約の解消に持ち込むように仕掛けたのだ。そのためにヨーク家の名誉を地に落とす……。


 急激に寒気が襲って来た。想像もしたくなかった恐ろしい事実が、波濤のようにわたくしの背中に襲い掛かって来るのを感じる。

 

 本当に……首謀者は……アーサー様だったのね…………。




「シャーロット」


 お父様の声が執務室に響く。その重々しい声音は、わたくしの心を下へ下へと沈ませていくのだった。

 数拍の沈黙のあと、お父様は声を震わせながら悔しそうに声を絞り出す。


「……私は、受けるつもりだ」


「っ……!」


「そうするしか、ヨーク家が生き残る方法はない……!」


 諦念を孕んだ湿った空気が、冷たい執務室に停滞する。一生懸命噛んだ唇も虚しく、目の前が真っ暗になってそのまま闇の中に引き摺り込まれそうだった。


「……わ」気合いで意識を起こして、言葉を返す。「分かって……おりますわ。わたくしでも、今のヨーク家には他に道がないことは存じ上げております……」


 お父様はため息混じりに深く頷いてから、


「あぁ。お前が想像する通りだ。王弟派の策略にまんまと嵌ってしまった。――だが、アルバートの行った事実は罪なことに違いはない。……ここだけの話だが、高位貴族の間で処刑まで持って行こうという動きがある」


「そんなっ……」


 確かにお兄様は罪を犯したことになってはいるけど、王家へ危害を加える行為はなかったので処刑は免れたはずなのに……。


「王弟派の貴族たちだ。奴らは、今回の事件を機に王家とヨーク家を徹底的に追い詰めるつもりのようだ。仮に処刑を回避できても、次は貴族籍の剥奪……」


「しかし、わたくしがドゥ・ルイス家と婚約をすれば、お兄様は助かる、と…………」


「そうだ」お父様は不快そうに顔を歪める。「現当主が言っていたよ。婚約が叶えれば両家は親戚になるのだから、王弟派の総力をあげてご子息を救うとな。……全く、滑稽な話だ。自分たちがヨーク家を陥れるように仕向けたくせに、な」


「酷い……」


 またもや沈黙が停滞する。わたくしもお父様も次の答えを知っているが、口にするのを躊躇っていた。

 言葉にしたくなかったのだ。国王派――いえ、ヨーク家の完全敗北だなんて。


「以前、アルバートとお前に話をしたことがあるな」


 ややあって、ついにお父様が口火を切る。

 本音を言うと聞きたくなかった。でも、今の八方塞がりの状況から抜け出すためには、無慈悲な現実を受け止めなければいけない。


「我々はヨーク家という連綿と続いている伝統を次に繋げるための道具でしかない。王弟派ではないが、長い年月をかけて受け継いだ血そのものに価値がある。それが高貴なる者の一番優先すべき務めだ」


「はい……。分かっておりますわ」


 お父様は軽く息を吐きながら天を仰ぐ。


「親として冷酷だとは承知している……。だが……私がヨーク家当主として何よりも重要視しているのは、お前たちの幸福より……家門の命運だ」


 悔しさと苦悩と諦念と、色々な感情が複雑に絡み合ったような声が痛々しかった。

 お父様の感情が伝播して、わたくしの胸も鋭い刃物で突き刺されるような痛みを覚えた。


「高貴なる者の務めです……。仕方ありません……」


 わたくしは肯定するだけで精一杯だった。内なる感情に気付かないように、今は公爵令嬢として機械的に判断を下すだけだった。


 もはやヨーク家は先の見えない綱渡りをしているような状況で、安全に次の場所へ移動するためにはドゥ・ルイス家から支えて貰うしか方法はないのだ。

 たとえ糸みたいに細い縄を張ったのが、ドゥ・ルイス家そのものだとしても……。


「シャーロット……本当に済まない。お前にはずっと苦労を掛けているな」


 いつの間にかお父様はわたくしの目の前に来ていて、そっと頬を撫でた。

 絹の手袋越しの大きな手が氷みたいにひんやりと冷たくて、わたくしの張り詰めた心が一気に弾けたみたいに押し殺していた感情が浮上してくる。


「い、いいえ……わたくしは…………」


 少しでもお父様の罪悪感を和らげようと、否定の言葉を口にしたい。

 でも、一度表層まで登ってきた感情はもう止まらなくて、わたくしは返事もせずにただポロポロと涙を流し始める。


 お父様はぎゅっと強く抱き締めて、トントンと背中を叩いてくれた。

 今度はたちまち温かさが全身を覆って、安堵感で涙は堰を切ったようにどっと溢れ出て止まらない。


「うぅ……」 


 巻き戻って、人生をやり直して、愛する人ができて……これで過去のしがらみを断ち切れることが出来たって思ったのに。……ハリー殿下とのささやかな幸せが、ずっと続くんだって思っていたのに。


 それなのに――、

 なんで……なんで、こんなことになってしまったの?


「お父様ぁっ……ぇっ……」


 涙は、止まらない。

 わたくしは意識の糸が途切れるまで、ひたすら泣き続けた。




◇◇◇




 それからは、目まぐるしかった。


 見えざる天からの大いなる力が発揮されたようにアルバートお兄様の冤罪の証拠が出て、罪は不問になって、まるで端から何事もなかったかのようにすんなりと釈放された。


 ドゥ・ルイス家がお兄様の冤罪を晴らしてくれたからだった。

 彼らは、ご丁寧に確固たる証拠を見つけて来て、お兄様に罪を擦り付けようとしていた王弟派の貴族の一人を炙り出して始末した。その処分された貴族は、派閥の裏切り者だったようだ。


 わたくしは、改めて王弟派――いえ……アーサー様のことを恐ろしく感じた。

 獲物を狙う猛獣のように気配を感じさせずに用意周到に物事を進めて、機会が訪れたら一気に落とす。それは……文字通り国王派への「狩り」だと思った。


 こんなの、勝てるわけないじゃない。

 わたくしたちは王都自体をすっぽり包み込むような、とてつもなく大きな影と戦っているのかもしれない。それは、太陽の光さえも全て覆い隠してしまうくらいの……。



 かくして、これでヨーク家はドゥ・ルイス家に下るしかなく、その結果国王派から王弟派閥へ転向せざるを得なくなり、ひとまず名誉は回復したものの次は裏切り者の刻印を押されることになったのだ。


 お父様は「娘はドゥ・ルイスへ嫁ぐことになるが、派閥は別問題だ」と主張したのだけれど、そんなこと周囲の貴族たちが納得するわけもなく……。


 唯一救われたのは、王弟派の貴族たちからは温かく迎えられたことだった。でも、これもただの血筋の影響だと思うとやるせない気持ちだったわ。



 最悪なことに、アルバートお兄様と婚約解消になったダイアナ様は、第一王子の婚約者候補になってしまった。

 しかも最有力候補で、このまま問題なければまもなく正式に婚約するだろうと言われていた。


 もちろん彼女は猛反発をしたけど、それは徒労に終わったのだった。

 今では国王派の筆頭貴族であるバイロン侯爵家と、王弟派と手を結んだヨーク公爵家が結ばれることは不可能なのだ。


 お父様はせめて中立を貫きたいと考えていたようだけど、周囲からはヨーク家はもう王弟派の傘下に入ったと見做されていた。

 それからはお兄様宛に王弟派閥の令嬢との縁談が山のように持ち込まれた。王弟派にとって、ヨーク家という血筋はそれほど魅力的らしい。



 もう、ヨーク家は違うものになっていた。

 屋敷の中も妙にそわそわした雰囲気で、生まれた時からいる居心地の良い空間なはずなのに、なんだか落ち着かない日々を送っていた。


 ヨーク家が発端となった中央貴族の大きな変化。家門の選択は間違っていたのかもしれない――と、わたくしは不安で胸が押し潰されそうだった。


 それは全てがわたくしのせいだった。

 わたくしのせいで、ヨーク家は…………。




 しかし時間の流れはわたくしたちの懊悩などものともせず、無慈悲にただ前へと進んで行く。

 明日は、ついにアーサー様との婚約式だ。



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