第三章 英雄:1

 チェスター・アリガ・ヨーステン海佐は後部甲板の定位置で大きなあくびをする。

あくびをしたチェスターは半眼になりやがて目を閉じる。

水面に落とした絵の具の一滴がじわりと拡散するように彼の意識も緩やかにほどけていった。


「ニンニクと黒コショウを大量に調達してください」


次の寄港地に着く前に掌帆長を呼んでそうお願いしなけりゃならないな。

チェスターはとろけるように眠気のさした頭でそう考える。

 官給の補給食料はいつでも公式の主計課細目を充分満たしている。

しかし補給部隊から艦の糧秣庫に搬入されるまでの流通過程に何か大きな問題がある。

そのことは誰の目にも明らかだった。

牛の枝肉が内臓肉の成形ブロックに化ける。

新鮮な野菜や果物が入っているはずのコンテナが期限切れの缶詰の山に変身する。

そんな珍事の発生が決して稀≪まれ≫ではない。

言うまでもなくどこかの誰かさんの不正行為が原因だろう。

それについては改めて深く考えるまでもない。

 自艦にまともな糧秣が補給されないのは困ったことだ。

しかし一方でチェスターは闇市に出回っている補給物資の実際も知っている。

横流しされた物資は良心的お値打ち価格で貧しい人々の腹を満たしているのだ。

チェスターはひもじかった自分の子供時代を想い出して何度溜息をついたろう。

溜息をつく度、自分は盗人の一分の利を消極的に納得している。

そのことがチェスターにはどうにもやりきれなかった。


 チェスターは幼い頃に両親を亡くした。

これはロージナでは極めて珍しいことだ。

そしてこれまた稀な不運が重なった。

チェスターの両親にも二人に連なる縁戚が生存していなかったのだ。

アリガとヨーステンを姓に持つ人間すら元老院暫定統治機構内には現存しない。

その事実は異様とさえ言える。

だがそれは幼いチェスターを養育してくれそうな人間がいないことと同義でもある。

結果としてチェスターは物心つく前に天涯孤独の身となった。

チェスターは珍しくはあるが皆無ではないそうした不運な子供を養育する施設。

いわゆる孤児院にひきとられることになった。


 孤児院ではチェスターに対する表立った虐待こそなかった。

それでもそこに古今東西の子供が須≪すべか≫らく与えられるべき愛情は見当たらない。

せめてもの心と体の安寧すら必要十分な量と質で保証される訳でもなかった。

 孤児院の同輩相互にはお定まりとも言えるツツキの順位があった。

それは群れを作る動物である人間本来の在り方そのものだろう。

痛い目にあわされ痛い目に合わせてチェスターは人生の本質を学んでいった。

弱肉強食と言う無理が通り仁愛という道理が引っ込む不条理こそが群れの掟だった。

日常における不条理が些細な咎≪とが≫程度にしか感じられないままチェスターは大人になった。

 

 チェスターは物心が付く遥か以前から人が織りなす原初の野生を生きてきた。

それは正義と形容される人為に深い疑いを抱かざるを得ない環境だった。

いつしか少年チェスターは困った現実がもたらす不利益を最小にする鉄則を編み出した。

『三十六計逃げるに如かず』である。

それは実にシンプルかつ分かり易い鉄則だった。

要は人様の善意などには夢ゆめ期待するな。

厄介ごとは神速で回避しろと言うことだ。

それが少年チェスターの会得した最良の人生訓だったのだ。

 

 長じて人情の機微を知った後ですらチェスターの本質は変わらなかった。

今に至るまでチェスターは他者の公徳心に対していささかの幻想も抱いたことは無い。

 世間ではチェスターのような了見を人間不信と言うのかもしれない。

だが信用も信頼もできない大人や同輩の間で生きて来ざるを得なかったのだ。

そんなチェスターにとって『三十六計逃げるに如かず』とはごく自然な処世術だったろう。


 人は身過ぎ世過ぎという世間の焼き窯で、他者の感情と言う炎にあぶられながら大人になる。

長ずるに従いチェスターの精神がそんな炎でどう窯変していったのか。

そのことはおそらく当人にも分からない。

 チェスターは心身ともにペンチでねじ上げられるような子供時代を過ごした。

そうしてどっぷり人間不信に染まっていったのは確かだったろう。

だがそれにも関わらず不思議なことにチェスターの精神から品位が失われることはなかった。

チェスターの出自を知らない人間が初対面で彼に感じる印象はほぼ決まり切っている。

人はチェスターにどこぞの御曹子かと錯覚させる程におっとりとして穏かな品格だけを見いだす。

彼の出自を知らぬまま付き合いの長くなった者はどうだったろうか。

チェスターが孤児院育ちと知って誰しも一様に驚きを隠せない。

そうした反応に尽きるのだった。

 

 チェスターは地頭の良さには大いに助けられた。

人並み以下の初等教育を受けながら人並み以上の進路に恵まれた。

孤児院の同輩たちが単純労働に就く職を選ぶ中でチェスターはひとり異質だった。

チェスターは軍人になる道を選び幼年学校から兵学校へと歩を進めたのだ。

 頭を使う。

ただそれだけのことで大人から褒められみんなからも尊敬される。

だからチェスターは勉強が好きだった。

孤児院退院後の進路先として紹介される仕事は頭より肉体を使う仕事が主だった。

 体を動かすのは嫌いではなかった。

体力には自信があったし肉体労働は食べて行く分に不足は無さそうな仕事にも思えた。

だがチェスターが生まれ持った知性は正直なところ、そうした人生に心底退屈しそうだった。

 とは言うものの自分の知性を充分満足させる職に就き退屈とは無縁の人生を手に入れる。

そのためには是が非でも高等教育を受ける必要がありそうだった。

孤児であるチェスターに働かずに学校に通う資金があろうはずもない。

十代半ばの子供が自活しつつ学費を贖≪あがな≫うことは難しいだろう。

だが世間にはチェスターにとっておあつらえ向きの進路が用意されていた。

 

 洋の東西今昔を問わず。

向学心と能力のある貧しい子供が勉強するためには軍人になる道が用意されている。

有能だが失うものを多く持たない子供を兵器の構成要素として設える。

暴力装置の部品として国家が設計し都合よく加工する。

素材は自ら進んで部品となることを望んだのだ。

何かと口数の多い納税者の子弟を徴募して危険に晒すことに比べればリスクは無きに等しい。

自ら志願して国家に我と我が身を売り渡す子供は低リスクで安い買い物になる理屈だ。

チェスターは己が知性の求める欲求を満たすため国家に自分を売り込む道を選んだ。

 本音を言えば学費が掛からないという点ではポストアカデミーの方が魅力的だった。

しかしポストアカデミーの受験には中等教育を受けた証が必要だった。

残念ではあったが少年チェスターにはその資格が無かった。

中等教育を終えたアリアズナには開かれているポストアカデミーである。

だが少年チェスターにとっては願っても望むべくもない進路だった。

 

 幼年学校から兵学校を通じチェスターは公費で勉学に励んだ。

保護者や財産を持たないチェスターにとって、給金を貰いながら学校に通える境遇は夢のようだった。

 チェスターは手に入れたいと渇望していた知識と教養を貪欲≪どんよく≫に身に付けた。

行きがかり上の義理と考え軍学校生徒の本文である兵学にも真面目に取り組んだ。

だがチェスターの興味と熱意はもっぱら一般教養に当たる教科や軍事以外の学科に注がれた。

いわく専門馬鹿は伸びしろがないという俗説は少なくともチェスターについては当を得ていたろう。

 在学中のチェスターは文系理系を問わず多様な学問や芸術の分野にまで触手を広げた。

そのことで図らずも学際的な視点で問題解決に臨めるスペックが身に付いた。

結果としてチェスターの成績は常に良好で同期の間では終始秀才の名を欲しいままにした。

 チェスターは幼年学校と兵学校をクラスヘッドで卒業した。

だがハンモックナンバーがトップの若き秀才としては極めて珍しい士官となった。

なんとなればチェスターは駆け出しの若造でありながらどうだろう。

初任時からまるで古参の下士官の様に現場の帳尻を合わせることが上手だったのだ。

規則を柔軟に解釈し法理より合理を優先するのは元よりチェスターの得意技だった。

孤児院育ちの要領の良さと場の空気を読む力が大いに役に立ったと言うところか。


 チェスターはその人柄もあり人間関係でも恵まれた学校生活を送ることができた。

おかげで軍人を志してからチェスターの精神衛生は孤児院の頃に比べ格段に向上した。

 人間不信は幼少の頃から明確に意識していたわけではなかった。

だがそれは澱となって心の底に積もり続けていたろう。

学生時代に互いを認め合える仲間を得たことで人間不信が払しょくできたかどうか。

心の澱を人並みの堆積となるまで浚渫≪しゅんせつ≫できたかどうか。

そのことはついぞ当人にも分からずじまいだった。

 人間関係は和やかになったがそれでも子供時代からの苦労を忘れることはなかった。

人生訓『三十六計逃げるに如かず』も変わらずチェスターの生き方を強く規定し続けた。

 

 『厄介ごとをうまく回避できれば逃げ出す手間を省けるにちがいない』

育ちに似合わずものぐさなチェスターではある。

そんなものぐさチェスターが規則という道理が通る学校に通えるのは幸いだった。

イジメを嗜≪たしな≫むサイコパス指数の高い人間は何処の集団内にもある一定の割合で存在する。

だがそうした人間も孤児院とは違い規律を重んじる軍の学校ではあしらいが楽だった。

チェスターとしては賢いサイコパスの理不尽な無理を回避する。

彼ら彼女らが楽しむ水面下の無頼や乱暴を退ける。

幼年学校と兵学校はそうした知恵と力を学ぶ場ともなった。

 

 学生時代に心身を守る術を身に付けると生来のものぐさが頭をもたげた。

面倒な人間関係を上手に熟≪こな≫せるようになるとどうだろう。

逃げると言う処世がどうにも面倒になったのはいかにもチェスターらしい。 

 チェスターは任官後、現場での帳尻合わせが得意な自分に気付いた。

ついでにこの能力が厄介ごとを回避するための基本の基であることを知った。

人間関係をこなすノウハウを身に付け帳尻合わせの才もある。

『遺憾ながらどうやら自分は軍人に向いているらしい』

それを自覚したチェスターは少しく複雑な思いに沈んだものだった。

 ともあれ帳尻合わせと言うお手軽な方法で逃げる手間が省けるならそれに越したことは無い。

ものぐさチェスターとしては自分に秘められていた才を愛用することに躊躇≪ためら≫いはなかった。

 

 チェスターと言う人間を俯瞰してみれば存外に分かり易い。

<三十六計逃げるに如かず>を座右の銘にして<現場での帳尻合わせ>を人生訓と定める程度の男である。

先を見通した奥深い戦略的思考を編むにはまったく不向きな人間だと言えるだろう。

 もしチェスターの出した成果が起承転を考えぬいた末の結としか見えないとしても。

おそらくそれは目の前の問題を解決するためにでっちあげた手練手管の結果に過ぎないだろう。

その場しのぎの一番お手軽で場当たり的な方便=帳尻合わせ。

それこそが上官や部下の誤解するチェスター的深謀遠慮の正体である。

チェスターが有能と評価される根拠。

敢えて指摘するならば誰も知らないチェスターの内実はそういうことだった。

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