07:引き潮

 Xは、目の前に広がる海を眺めていた。

 ここまで続いてきた長い長いアスファルトの道は、Xが立っている場所からゆるやかな下り坂になっていて、その先は見事なまでに水没しておりこれ以上進めないということを示していた。

 私がXに命じているのは「Xに可能な範囲での『異界』の観測」だ。そして、何を「可能」とするのかはXの自己判断に委ねている。随分曖昧な基準だと思われるかもしれないが、まずは『異界』の情報をXを通して得られなければ話にならず、それには異界潜航サンプルのXが協力的である必要がある。

 今のところXは極めて従順で、私の命令に反した行動を取ったことは一度も無い。とはいえ、今でさえ『異界』において心身の危険に晒されることもあるのだ、これ以上Xの負担になるタスクを課すことはなるべく避けたいところであった。

 さて、Xは引き返すか否かを迷っているのか、ただ、ただ、ぼんやりと海を眺めていた。深いブルーを湛えた海は寄せては返す波の音を立てながら、物言わずそこに広がっている。Xの視界によれば、海の只中には小さな島があり、城のような塔のような不思議な形の建造物が聳えているのが見えるが、そこには船でもないと辿り着けないように思われた。

 その時、スピーカーから、波の音以外の音が聞こえ始めた。それがエンジン音だとわかったのは、Xが音に気づいて振り返ったからだった。見れば、Xが今までひたすら歩いてきた道を、一台の車がこちらに向けて走ってくるところだった。形状からして『こちら側』の道路を行き交うトラックとそう変わったところは見られない。

 荷物を荷台いっぱいに積んだトラックは、まさかこのまま海の中に突っ込んで行くのかと思われたが、そんなことはなく、Xの横で停まった。やがて、運転席の窓から身を乗り出してきたのは、Xと同じくらいの年齢と思われる、日に焼けた中年の男だ。男はXの全身をじろじろと見回して、それから白い歯を見せて笑う。

「何だ、お前さん、こんなとこで。旅人か?」

「そんな、ところです」

「それにしちゃへんてこな格好してんな。その格好でここまで来たのか?」

 へんてこ、と言われてXは自分の体を見下ろす。今日のXの服装は体の線が見えにくいトレーナーに、幅に余裕を持たせたズボン。それに、足元はいつものサンダルだ。格好としてとりたてて異常というわけではないが、「旅人」としては変、なのは間違いないだろう。

 Xは曖昧に頷いてから、男に問いかける。

「あなたは、これから、どちらへ?」

「お? もちろん――様の城だよ。お前さんも――様のことを聞きつけてきたんじゃないのか?」

 男の声に、突然耳慣れない響きが混ざる。何かがこすれるような、決して聞いていて愉快ではない音色。それが、何らかの固有名詞を示しているらしいことだけは文脈から窺えたが、Xもそれを正しく聞き取ることはできなかったのか、首を傾げたのがディスプレイに映された視線の動きでわかった。

「ええと……、なんて?」

「――様だよ、――様。何だ、知らないでこんな果てまで歩いてきたのか。ご苦労さんだな」

「あの城には、誰かが暮らしている、ということですか」

「そう。で、俺は城に届け物を頼まれてるってわけ。お前さんも一緒に来るか? ――様は旅人が好きだからな、きっと歓迎してくれるだろうよ」

「それは、……ありがたい、です」

 まだXはこの『異界』を観測するつもりで、男の話に乗ることにしたようだ。ただ、その声はどこか不審げな響きを帯びている。それはそうだ、目の前の道は水没していて、到底男の乗っているトラックでは海の向こうの島まで辿り着けるようには見えなかったのだから。

「よし、決まりだな。乗れ乗れ」

 男は気さくに笑って助手席を指す。Xがトラックに乗り込むと、少し高い視線から海を見下ろすことになる。

 すると、男は首から下げていたペンダントのようなものを手に取る。鎖から下がっている、細かな金の装飾が施されたそれは――小さな笛だ。男はその吹き口を口元に持っていき、息を吹き込む。

 笛の音色が、響く。その音色は先ほど男が言葉にした固有名詞同様、金属同士をこすり合わせたときの音色に似ていて、スピーカー越しに聞いているこちらまで思わず耳を塞ぎたくなる。

 だが、異様なのは音色だけではなかった。

 フロントガラス越しに見えていた海面が、みるみるうちに下降していく。引き潮、にしては異様な速度。数拍の後には、海面に隠されていた道が、海の中心を通って真っ直ぐ島に向かって伸びているのが明らかになった。

 どのような出来事が起こっても不思議はない。それが『異界』ではあるけれども。思わず感嘆の声を上げたXの方を、男が乱暴に叩く。

「これが――様のお力、ってわけさ。行くぞ!」

 エンジン音を立ててトラックが走り出す。濡れたアスファルトを走る音を聞きながら、Xはこれから自分が足を踏み入れる城のシルエットを、じっと見据えていた。

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