無名夜行 - 三十夜話

青波零也

01:鍵

 Xの手首には手錠がかけられている。

 独房から出るときに嵌められるらしいそれは、今日もXの無骨な手と手を短い鎖で繋いでいる。

 Xはもはや当たり前だとでも思っているのだろうか、文句一つ言わず――なお手錠に限らず、Xが自分の扱いに文句を言ったところは見たことがない――その戒めを受け入れているようだった。

 当のXがそんな調子であるから、私は未だに言い出せずにいるのだが。

 私は、手錠の鍵を持っている。

 刑務官から預けられているそれは、この研究室の中に限り、私の判断で使っていいことになっている。ただし、その判断によって何か問題が起ころうものなら全ては私の責任になる。当然のことだ。

 白衣のポケットの中に落とした、鍵の存在を指先で確かめる。手錠と同じ材質で作られているのであろう小さなそれは、今日も確かにそこにあった。

「X」

 私がXを呼べば、寝台に腰掛けてうつむいていたXが、つい、と少し焦点のずれた視線をこちらに向けてくる。いつものことながら、何を考えているのか判断しがたい、茫洋とした表情。

「今日の潜航実験を始めようと思うけど、調子はどうかしら」

 Xはぼんやりとした表情こそ変えないまでも、ひとつ、深く頷いてみせる。大丈夫、というつもりなのだろう。Xは私が許可しない限り、喋るということをしない。

「ならよかった。……それじゃあ、横になって」

 私の言葉に従い、Xは寝台に仰向けに横たわり、瞼を閉じる。手錠につながれた手の指がゆるく組まれるのを、見るともなしに眺めてしまう。それはどこか、祈りを捧げているかのようにも見えた。

 もう一度、ポケットの中で鍵を摘み上げる。

 この閉ざされた研究室の中だけでも、Xに自由を与えたらよいのではないか。そう思ったことがないと言ったら嘘になる。私たち以外に誰が観測しているわけではないのだ、両手の戒めを解くくらい何だというのか。

 けれど、そう思ってしまうこと自体がおかしいのだとも、思う。

 我々にとってXは『異界』に『潜航』する生きた探査機で、それ以上でも以下でもない。X自身が望むならともかく、私がXに何かを思うことに意味などないのだ。

 だから、今日も私はポケットに鍵を落とす。Xを「思う」心をしまい込む。

 そして、私たちの長い一日は、

「さあ、今日の『潜航』を始めるわよ」

 ――ここから、始まるのだ。

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