ep.4 ヘップバーンの微笑

「お疲れ様です」


「お疲れ」


 かちんとビールのジョッキを合わせる。仕事終わりの一杯は格別だ。このために生きているといっても過言ではない。


「今日はありがとうございました」


「礼にはおよばない。あれが俺の仕事だ」


「店長っていつもそう言いますよね。高木さんが店長にお礼をいわないのって、そういうことなんですか?」


「まあそうなんだろうな。よく分からんが」


 煙草を銜えて火を点ける。高木とは、例の五つ年上のポンコツのことだ。


「このあいだ、同期と一緒に飲んだんです。知ってます? 浅見と永村っていう中野と調布にいるスタッフなんですけど」


「飲みの席で顔を合わせたことがあるような気もするが、よく分からんな」


「でしょうね。で、その二人と先週池袋で飲んだんですよ」


 でしょうね、とは失礼な女だ。俺の脳みそを何だと思っているのだろうか。それにしても今日の若宮はよく喋る。営業時の面影はもはや欠片も見えない。


 俺は煙草に火を点けながら「で?」と促す。


「他の子たちは悩んでるみたいなんです。仕事が大変なのはもちろんなんですが、店長がおっかないみたいで。私のところは全然そんなことないっていったらもの凄い驚かれました」


「若宮は俺のことが怖くないのか」


「え、恐れられてると思ってるんですか?」


「いや、そうは思わんが」


「ですよね。全然怒らないじゃないですか」


「だからな、よくいわれるんだ。お前は店長に向いてないって」


「え、誰にです?」


「長谷川と桑原」


 中野支店と調布支店の店長だ。


「怒らないと店長に向かないんですか?」


「どうやらそうらしいぞ」


「そうなんですね。でも浅見と永村、たぶん辞めちゃいますよ?」


「それは俺の知ったことではない。最後に決めるのは自分自身だ。辞めるやつを引き留めた挙句、後悔されて恨まれでもしたら面倒極まりないぞ」


「ドライですよね。店長って。彼女まだいないんですか?」


「社員相談室に駆け込むけど大丈夫か?」


 若宮は笑っていた。テンザン営業中の若宮とはまるで別人だった。


「店長ってそんなジョークいうんですね」


「案外な」


 壁に張り付いた小さなテレビが、五年前の今日に発生したとされる事件を取り扱った番組を映していた。ネグレクトで子を死なせたシングルマザーの顔が妖艶な笑みを浮かべている。


 髪の薄くなった店主は煙草を吸いながら番組に見入っていたが、一瞬その目がこちらに向いた。


 意外にも、若宮本人の悩み相談はなかった。しかし分かったこともある。若宮が俺に惚れているということだ。


 持って生まれた洞察力。それが俺の武器であるということは自覚していた。俺は他人が見極められないものを見極めることができる。それこそが俺の持ち合わせる他人に対してのアドバンテージなのだ。


 若宮の目は完全に恋する乙女のそれになっていた。思い上がりなどではない。たくさんの女性と付き合ってきたという自負はないが、そのくらいは分かった。


 しかし面倒なことになってきた、というのが本音だ。若宮が部下だからというのもあるが、問題は俺の方にあった。若宮の笑顔に心が揺れてしまっているのだ。


 男という生物はギャップに弱い。何を隠そう、その点は俺も漏れていない。営業時の翳のある佇まいが、いまの若宮を引き立たせているのは間違いなかった。


 家にこいといえば、恐らく九十五パーセントくらいの確率でついてくるだろう。性欲の解消というメリットに対して、生まれるデメリットの方はどうだ。俺は酔いの回り始めた脳で懸命に分析を行った。


 そして分析の結果、その欲求に身を委ねるのは危険だという判断に至った。


 理由は単純だ。同じ職場で男女関係を生じさせれば、働く上で障害が伴うのは間違いない。上司と部下ともなればなおさらである。


 若宮をナンバー2としているのは周りから見ても明らかで、その関係が明らかになってしまえば、贔屓だなんだと不平が飛び交うのは想像に難くない。


 あれこれ考えていると、ねじり鉢巻きが日本酒をサービスで寄越してきた。ご丁寧に俺と若宮の二人分だ。コンプライアンスは崩壊しているが、サービスは上々であるらしい。


 その日本酒は異様なまでに美味かった。そして若宮は酒豪だった。どんなに飲んでも顔色一つ変わらない。形勢が傾いていく。これはまずい。


 アルコールが視界を歪めてくる。若宮がオードリーヘップバーンに見えてきた。日本酒が決定打になっているのか。ねじり鉢巻きは若宮の回し者だったのかもしれない。


 脳がゼリーに包まれたかのような浮遊感と共に、意識がずるずると霞みの中へと引き込まれていく。


 オードリーヘップバーンは肩肘を机につきながら、戦線離脱の準備を始めた上司に優しい視線を向けていた。

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