第3話 信頼の価値
指定した時間は二十三時だったが、そいつは二十二時半にはもうそこに来ていた。
町の外れの竹林の入口。街灯が離れた位置にあって微かに明るい。近所の人も特に寄り付かないことは事前に確認している。会話するにも、戦うにも、それなりに適した場所だ。
「逃げずに来るとは。大胆不敵だな。それとも馬鹿なのか」
五葉は花屋の鬼を二百メートルほど離れた物陰から見ていた。五葉の胸でタチアナが二回口を動かす。否定の意味だ。侮るなと言いたいのだろう。五葉はそう解釈した。
「来たのなら行きましょう。何かあれば合図を待たずに仕掛けてください」
タチアナが口を一回動かす。肯定だ。
特に急ぐわけでもなく、五葉はゆっくり歩いていく。夜風が身に染みる。安物のジャケットでは生地が薄すぎて防寒にあまり役立たなくなってきた。ダウンジャケットを新調しなければならない。また何色にするかでタチアナさんと揉めそうだ。そんなことを五葉は思った。
何度か路地を曲がり、五分ほどで指定の場所についた。近づくころには花屋の男も五葉に気づき、五葉の方を向いて直立不動になっていた。
五葉は男を
こいつは
「本当に来たんだな」
「……あなたが、来いと言ったんじゃないですか」
「それはそうだ。しかし来るかどうかはあんた次第だ。名前を聞いていなかったな。俺は藤田だ」
平然と、五葉は嘘をついた。
「……松木です」
名前は松木礼二。それは調べて分かっている。少なくとも勤め先にはそれで通しているらしい。違う名前を答えるのなら少しは警戒心があるかとも思ったが、そういうこともない。
不思議な鬼だ。五葉はつくづくそう思った。
「話って何ですか」
「ああ、聞きたいのは、あんたが週末にどこに行っているかだ」
暗くて五葉には松木の細かい表情が見えなかったが、きっと驚いている事だろう。感情が表情に出やすい男だ。というより、普通の人はそんなものなのだろう。五葉はそう思った。表情一つで命を落とすことがあるような世界は、普通の人には縁がないものだ。
「何の……事ですか……」
「嘘をつくならもっと練習しておけと昨日も言ったな。あんたの家は分かっている。名前は松木礼二。毎日バイトから帰って外出はしない。しかし週末になると花を用意してどこかに出かけていく……それは調べた。ただどこに行くのかまでは調べていない。どこだ? そこで人間を食ってるのか?」
「だから、俺は人間なんか食ってないって!」
「それはどうでもいい。俺はもう夜合じゃないからな。お前が人間を食おうと、社会の転覆を画策しようと、どうでもいいことだ。ただ余生が退屈過ぎてね。退屈なところにあんたという変わった鬼と出くわしたから、気になって気になってしょうがないのさ」
十秒ほど待っても、松木は何も答えなかった。
「もしあんたが、俺に殺されるのが怖いというのなら、誓ってもいい。俺はあんたを殺さない。危害を加えないし、あんたの正体をばらすようなこともしない。用が済めば、俺はこの街を出る。二度と会う事もない」
五葉がそう言うと、松木はようやく口を開いた。
「本当に……俺を殺したりしないんですか」
「ああ、誓うよ。そもそも俺は末端の構成員でしかない。力は使えるが……実際に鬼を殺したこともない。昨日の百合をつぶすのだって、力を使うのはそれこそ半年ぶりだったんだ」
それは半分本当で、半分嘘だ。五葉は見鬼なので、確かに直接鬼を殺したことはない。だが銃撃で鬼を怯ませたり他の仲間を助けることはしてきた。念動能力は、日々色々な雑事にまで使っている。落とした箸を拾ったり、洗濯用の洗剤を量るようなことまでやっている。ただ、その能力は全てタチアナのものだ。もちろん、鬼を殺したことはある。
要するに五葉の言葉は出鱈目だった。
「俺を、信じてくれ」
五葉が松木の目を見つめて言う。
「分かりました……」
そう言い、松木は目を逸らし、しばらく考えてから喋り始めた。
「鬼を人に戻す薬があるんです」
「何だと?」
五葉はそんな薬の存在を聞いたことはなかった。そっと胸のタチアナに触れると、二回、否定が返ってきた。知らない、嘘だ、そんなまさか、そういう意味だろう。
「その薬は何種類かの植物の毒を混ぜて作るんです。それが鬼の因子を……弱らせて、封じ込める」
「それをあんたも飲んでいるのか」
「はい。だから食事も普通の人と同じです。ほとんど……」
「ほとんど?」
「……動物の血を、少し飲んでいます。分けてもらって」
鬼の中でも下等な鬼は獣の血しかもらえないと、五葉は聞いたことがあった。効能としては人間の血と遜色ないとも聞くが、それでもやはり人間の血が必要になるとも。つまり真偽が定かではないが、松木は少なくとも二か月は人間の血さえ飲んでいないという事になる。
見た目が普通なのだから、それで問題ないのだろう。薬とやらの効能なのかもしれない。
しかし、鬼は鬼だ。見鬼の目で見れば一目瞭然だ。人は赤い。鬼は青い。そして松木は白に近い青。つまり鬼であることに変わりはない。
「それで、毎週材料の植物を私が持っていってるんです。他の人も何人か持ってきて、それで……作っています」
「誰が作っているんだ?」
「それは……」
「俺は知りたいだけだ。今あんたらが何をしているのか。危害を加えたいわけじゃない」
その言葉を信じたのか、松木は続けた。
「安西……という人です。人だった時に科学者だったとかで……
「そいつはどこにいるんだ? あんたはどこに行っているんだ」
「それは……山奥の方で、住所もないんです。口で言うのは……」
「スマホは持っているか? 地図で出せ」
「……分かりました」
松木は五葉に言われるまま、スマホを操作し地図を表示した。
「近づくな。そこで、投げろ。それがお互いのためだ」
近づいて渡そうとした松木を制し、五葉はそう言った。そして松木はスマホを投げ、五葉は出ている場所を自分のスマホで探し、記録した。スマホを投げ返す。
地図アプリで見ると、確かに山奥で家屋も何もない。しかし航空写真に切り替えると、森の奥に何かの施設がある。工場のように見えた。
「それで……あんたもいつか人に戻るのか?」
「そうだと……いいです。俺は半年前に鬼になって……それとほぼ同時に頭珠天が死んだんです。だから人を殺す儀式もやってないし、すぐに安西さんに薬をもらったから、俺は本当に、一度も人間は食ってないんです……信じてください」
「あんたが俺を信用してくれるのなら、俺も応えなければいけないな。分かった、信じるよ」
五葉が信じているのは、少なくとも二か月は人間を食っていないという事だけだった。それ以前のことは知らない。半年前に百人食っていたかも知れない。五葉のその考えは変わらなかったが、それを松木に教える義理はなかった。
「今週も行くのか? その場所に」
「はい。今週も持っていきます」
「そうか。なら、俺が代わりに行こう」
「えっ……それは……!」
「問題があるのか?」
「それは……他の人には誰にも言うなって……」
「お前ら鬼が人に戻れる薬なら、それを俺が邪魔する必要はない。俺だって、お前らが元に戻るのならそれに越したことはないんだ。何か俺にも、協力できることがあるかもしれん。安西って奴に会わせてくれ」
「……分かりました。じゃあ、安西さんにも伝えておきます」
「いや。行くと分かれば不審に思うだろう。秘密にしておいてくれ。ただ……それはあんたに任せるよ。俺を信用するなら、黙っていてくれ」
「……分かりました。持っていく花は?」
「金曜の夜に取りに行くよ。それとも土曜の朝じゃないと駄目か。植物の鮮度とか」
「半日くらいなら問題ないです。じゃあ、金曜の夜で……」
「ああ。分かった。今日はありがとう、こんなところまでわざわざ」
「いえ……」
「じゃあな。金曜に」
「はい」
五葉は松木に背を向けて歩き出した。背中から襲われるかもしれない。そういう可能性もあったが、話している限りではそれは無さそうだった。いい鬼に見えた、というのではない。それだけの胆力が無さそうだ、というだけだ。五葉の目には、ただの腑抜けに映っていた。
十分に離れたところで振り返ると、松木も姿を消していた。帰ったようだ。五葉はほっと息をついた。
「信じられるかい、タチアナさん」
胸に触れると、二回、否定が返ってきた。五葉も信じられなかった。
頭珠天は六百年は生きていた鬼だ。鬼の歴史は更に遡れるらしいが、ざっと千年前からいたらしい。科学技術の進歩は近年になって目覚ましいのだろうが、しかし、鬼を人に戻すなど聞いたことがない。鬼になった人は殺すしかなかった。どれほど親しい人だったとしても、だ。
しかし、頭珠天が色々な薬品の研究をさせていたのは事実だ。ウイルスをばら撒いて鬼にするような事も考えていたらしい。それは失敗に終わったそうだが、しかしまさか、鬼を弱体化させる薬とは。偶然そんな薬ができたとは、五葉はどうも腑に落ちなかった。
しかし、それも行けば分かる。あの松木の様子では、安西にも連絡しなさそうだ。五葉はそう思った。間抜けにも俺を信じてくれるのなら、連絡はしないだろう。
「行くかい、タチアナさん。奴らの研究所に」
胸に触れると、一回、肯定が返ってきた。聞くまでもなかった。
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